浮漂

 ――胎果だ、と誰かが言った。

 幼い姿をした麒麟が玉座に迎えた新王は、はるか虚海の彼方――蓬莱と呼ばれる世界の住人だったのだという。そもそもの生まれはこちらであったものが、卵果の時に蝕に流され、あちらの世界で生きることを余儀なくされたもの――それを胎果と呼び称す。
「なるほど、それで先の台補は主上をお探しすることができなかったのだな」
 誰かが感心したような声を上げた。
 雁州国の凶事は、先王の暴虐と国土の荒廃だけではなかった。梟王の崩御後、次代の王を探し続けた麒麟は、ついに使命を果たすことなく斃れたのである。その時、雁国の民はみな天帝に見離されたのだと絶望した。
 無論、残された仮朝を支える百官もみな、誰もが天を仰いだ。だが、あれから歳月が流れ、新たな麒麟はついに王を見つけ出した。遠く離れた異郷の地で。
 ――これで雁国は救われる。
 そんな声を、朱衡は無言のまま聞いていた。
 それはわずかに生き残った雁国民すべての思いだった。だからこそ、誰もが同じ台詞を口にする。延王登極より三日経ったこの日までに、何度耳にしたことだろう。
 だが、本当にそれだけで良いのだろうか。
 この国は胎果の王と麒麟を抱えた。これで玉座は埋まり、仮朝は主を得て真の機能を取り戻す。――だが。
 胎果の麒麟は長い間出奔していたため、国内の政情には疎い。そもそも慈悲の生き物である麒麟に、時には冷徹にもふるまう政務など適さない。こんな時、王が泰然と采配を振るわねばならないのだが、胎果の王はこの世界の理一つ知らずに生きてきた。
 麒麟が王を選ぶことも、天帝が道を定めたことも、――この国がこれほどの苦難に喘いでいることも。
 ――胎果の王が帰還した。
 誰かの言祝ぐ声が聞こえる。その声を払うように、朱衡は大きく首を振る。
 海上遥か彼方には、幻の国があるという。選ばれた者だけが訪ねることのできる至福の国なのだと。
 胎果の王は蓬莱から来た。何も知らぬまま、絶望に打ちひしがれた国の、荒れ果てた玉座に進んだ。その王に、死に瀕した国の命運を覆すだけの力があると、どうして信じられるだろう。
 人は玉座を得れば王になる。だが、王になった者が国を救う力を備えているとは限らない。そもそもそれだけの力があれば、どうして梟王などという暴虐な主君がこの世に生まれるいわれがあろう。
 胎果の王はこの国を救いに来たのではない。人々が快哉を叫ぶたびに、彼はその思いを強くする。
 ――王は、この国を滅ぼすために帰還したのだ。

 朱衡の思考が途切れたのとほぼ同時に、周囲で慌しい気配が生じた。そして間を置かぬうちに回廊の入口から堂々とした体躯の人影が現れた。
 回廊を悠然と進む延王に、官たちが慌てて次々と叩頭する。王不在の長い玄英宮では、主君に対して叩頭するのも久々のことである。ゆえに王の出現で、こうも慌しく居住まいを正さねばならない。
 だが、その中で唯一頭を垂れず、昂然と王のそばに歩み寄る一官吏の姿に、上官たちは目を見張った。
 朱衡は慌てふためく官吏たちに見向きもせず、真っ直ぐ王を見据えながら口を開いた。
「――すでに謚は用意してある。興王と滅王がそれだ。あなたは雁を興す王になるか、雁を滅ぼす王になるだろう。そのどちらがお好みか」
 その場にいた誰もが耳を疑った。それは、王に向かって投げかけられるような言葉では決してなかった。しかもその暴言を発したのは、国官の資格も持たない府官だったのだ。王に口をきくことすら罪になるというのに、その中身は苛烈を極め、死の免れぬ大罪にあたる。
 彼を雇い入れた上官は、背中に大量の冷や汗を感じた。府官の罪は、それを監督する上官にも及ぶだろう。梟王の暴虐を逃れて生き延びた身が、ここで大罪を帯びるとは――と、彼は命のはかなさを思った。
 他の官吏たちは、頭を下げたまま必死の思いで時が過ぎるのを待った。梟王の時代ならば、勘気を蒙っただけで、その場にいた者もみな同罪とみなされるだろう。登極したての王がそれほど悪虐な心根の持ち主とも思えないが、肝を冷やすような事態であることには違いなかった。
 その場にいたすべての人間の視線を集めた延王は、だが彼らの予想とはまったく異なることを口にした。
「どちらも断る。そういう凡百の言葉で名づけられたのでは恥ずかしくてしょうがない」
 え、とつぶやいたきり、朱衡は声を出すことができなかった。今、この王は何と言ったのだ?
「史官というのは、その程度の文才で務まるのか? 頼むから、もう少し洒落た名前を考えてくれ」
「ええ……あ――はい」
 頭が混乱していた。自分でも何を言っているのかわからないほどに。そんな困惑する史官を面白そうに眺めながら、王はさらに告げる。
「お前、史官には向いていないのではないか?」


 ――何もかもが型破りに過ぎた。
 まだ混乱で酔いそうな頭を押さえながら、朱衡はゆっくりと階を上った。
 王の沙汰を待ち、自宅で謹慎を余儀なくされていた朱衡の元にやってきた勅使は、予想もつかぬことを口にした。
「もって御史に任じる、か――」
 解任は必至、下手をすれば極刑もありうる状況で、内史の中級官たる御史に召し上げられるなどと、誰が想像できるだろう。
 そして御史となって第一の仕事は、任命した王に拝謁することだった。

 天を貫く玄英宮の最奥で、その人物は待ち受けていた。鍛えられ、均整の取れた体躯は、威風堂々と言っても過言ではない。
 その登極したての延王は、待ちかねた人物の来訪に気づくと、ゆっくり振り返った。
「よく来たな。任官拒否するかと思ったが」
「……そこまで命知らずではありません」
「今さらだろう」
 まったく無謀な男だ、と王は苦笑しながらつぶやいた。だが朱衡はそれには取り合わず、眉をひそめて別のことを口にした。
「私にご用とは何ですか」
 さっそく本題に入ろうとしたのだが、返ってきた答えはまたも意表を突いた。
「この海の底はどうなっている?」
「……は?」
「それがどうも気になったのでな。この下には人が住んでいるのだろう? だがここには海がある。つまり、空中に海が浮かんでいるということなのか?」
「…………まさかそれを尋ねるために私をお呼びになったのですか」
「他に訊ける人間がおらんのでな。延麒はどこぞへ出てしまったし、他の者は口を開けば天の理だの王の責務だのと、つまらん言葉しか吐かぬからな」
 それでこの海はどうなっている、と重ねて問われ、渋々と答えた。
「雲海に底はありません。突き抜ければ地上に出るだけです」
「底のない海――か。なるほど、限りのない命にはお誂えの玉座だな」
 その言葉に、はっと朱衡は顔を上げた。
 王が天命を受けた。それは果てなき命を授けられたことを意味する。――道を誤り、国を傾けない限りは永遠に。
 それはこの雲海のように、荒れることなく、穏やかな波をたたえ、天に浮き続けなければならないということなのだ。
 朱衡は欄干の下を覗き込んだ。すでに見慣れてしまった、何の変哲もない雲海が、今はこの身に押し寄せるように感じられる。
 天帝が授けた十二の枝。その一つがこの雁州国だ。落ちた実から生まれたのは土地と国と玉座。その玉座を囲む雲海こそが、天帝の息吹ではないだろうか。唐突に、朱衡はそんなことを思った。
 底のない海は王の治世――すなわち命運そのもの。足を滑らせれば、二度と地を踏むことも浮き上がることもできない。そのことを示すため、こうして天を突くように聳える山頂に、底のない雲海で取り巻いた玉座をしつらえたのではないだろうか。
 それが、王になるということ。
 そして、王に仕えるということ。
 自分もまた、沈むことの許されぬ王を支え続けなければならないのだ。地上からはるか遠くに隔離された、この関弓山の頂で。

 ――これで国は救われる。

 誰かの声が脳裏をよぎる。いや、それは自分の声だったろうか。王に不信を抱いたのは、それがこの世界の理すらわきまえぬ胎果だったから――その落胆の裏返しに過ぎなかったのだろうか。
 だが、今となってはそんな些細なことに構っている場合ではない。この果てなき海に浮かぶ孤島で、彼は玉座を支える枝とならねばならないのだ。
 そのことに気づかせた。他でもない、この胎果の王が。
 だからこそ彼は、心より頭を垂れることができる。組んでいた腕をほどき、広げた大きな手で新たな官位を授けようとする、天道を歩み始めたばかりの主に向けて。
「――謹んで拝命承ります」
 一面に広がる雲海は、荒れ果てた国土を映して黒く澱む。だが、いつかは緑の山野を照射して、蘇った国を映し出す鏡となるだろう。
 潮の香りを載せた風に吹かれながら、彼は願い続けた未来を予感した。

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