鏡花水月

 夜風に乗って運ばれてきたかすかな音に、楸瑛は足を止めた。長年培われた感覚で、危険な種類のものでないことは肌でわかる。だが、それでも事態を究明すべく、彼は足音を忍ばせながら向かっていった。
 今晩の彼は宮城の宿直だったのだが、何となく夜風に当たりたくなって庭院にわを通りかかったのだ。そして、そこで不審な物音を捉えた。
 辺りを見回しながら進むうちに、ほどなくしてその音の正体は知れた。耳をわずかにかすめたのは、庭院の池の水面が跳ねて奏でたものだった。だが、それは自然に起きたわけではない。夜更けの庭院の片隅で、池に浸した手から雫を滴らせている者によって生じたのだ。
 青白い月光の下、水面みなもで指先を遊ばせる人影に、楸瑛はそっと声をかけた。

「――こんなところで何をなさっているんですか」
 楸瑛の声にゆっくりと振り向いたその顔は、静かな微笑を浮かべていた。足音を殺してはいたものの、彼の気配を声より先に察していたのだろう。そういう人なのだ――彼が唯一、主と認めた人は。普段の言動からは想像もつかないほど、鋭い感覚を内に秘めている。時折、こちらが驚かされるほどに。
 楸瑛の問いかけに、劉輝は肩越しにくすりと笑みをこぼした。
「月を、見ていたのだ」
「月見でしたら、他にもっと良い場所があるでしょうに」
 楸瑛はわずかに首を傾げた。この池の周りは生い茂った草木が覆って、空を眺めるにはあまりふさわしいとは言えない。少し離れれば眺めもずいぶんと良くなるはずなのだが、劉輝はなぜか池縁のすぐそばに腰を下ろしていた。
「いや、池に映った月を眺めていたのだ」
「それはずいぶんと変わった月の愛で方ですね」
 いぶかる楸瑛に、劉輝は指先の雫を払いながら視線を水面に落とした。
「余は昔、兄上に池の中の月が欲しいとせがんだことがあったのだ。今、それをふと思い出していた」

 彼が懐かしげに兄と呼ぶ人は、この世に一人しかいない。その人の顔を思い浮かべ、楸瑛はかすかに苦笑する。まだ幼い弟からとうてい無理なことをせがまれて、困った顔をするかつての第二公子の姿を想像したら、無性におかしさがこみ上げてきたのだ。
 それにしても、いくら子供時代のこととはいえ、ずいぶんと可愛らしいことだ。――少なくとも、昔から一風変わった彼自身の弟よりは。
 そんなとりとめのない考えを払うように、楸瑛は軽く首を振った。そうして引きしめた唇には、ほどなく苦い色が浮かぶ。
 この主が夜更けに一人、池のほとりに佇む理由が単に懐かしさのためばかりではないことを、彼は痛いほど知っていた。
 だから彼は、月影の差し込む薄闇の中で、背を向けたままの主にそっと訊く。

「――眠れませんか」
 最も信頼する兄と、その彼に託した彼女のことを想って――
 日中、政務の最中でもことあるごとに、裁可を下すべき王の手が止まる。そんな時、その視線がはるか遠く――彼らが往く地を向いていることに、楸瑛はとうに気づいていた。
 その彼の問いに、劉輝は無言で小さく首を振った。肯定とも否定ともつかない曖昧な仕草の後、彼はかすかに吐息する。
「政務に身が入らぬから早くやすめと言うのだろう」
「案じるな、とまでは申しませんよ」
 ただ、と楸瑛は言葉を継ぐ。
「あなたが送り出した彼女は、その身を案じられるばかりの人ではないということです。それがわかっているから、あなたも彼女を遣わしたのでしょう?」
 最も苦難が待ち受ける、かの地へ。絶対的な確信がなければ、決して赴任させることなどできない。あの任命は、彼が全幅の信頼を寄せたことの証左だった。
 それでも、振り返るたびに己の行為を悔やまずにはいられないのだろう。彼女を危地へ追いやったのは、他ならぬ彼自身なのだから。
 だが彼女は非力な、何もできない少女ではない。弾力のある強靭な精神と聡明さを併せ持っている。
 そのことを、誰よりもこの人が知っているはずだ。

「もちろん秀麗ならできるだろう。だが……」
 劉輝の声音が普段より細くなる。言いよどみながら、彼は伸ばした指先でまた池の水面を撫でた。小さな波でにじむ月を見やりながら、彼はゆっくり口を開く。
「距離を隔てたからだけではない。秀麗がどんどん遠くなる――そんな気がするのだ」
「ちょうど池に映った月のように……ですか」
 頷く代わりに瞼を伏せる劉輝に、楸瑛は微笑を向ける。
「では、あなたが彼女に贈るのは、さしずめ鏡の花というところですね」
 その言葉に、劉輝は隣に佇む楸瑛を苦い表情で見上げた。
「……そなたは意地が悪いな」

 鏡に映る花、水に映る月――手を伸ばしても触れられないものを指して、鏡花水月と称す。
 二度と兄と呼ぶことのできない人が水月ならば、彼女は鏡花なのかと彼は訊ねたのだ。目の前の主が、焦がれるほど手を伸ばし、触れたいと願っていることを知りながら。
 彼が求めるのは彼女のすべて。主君と臣下の関係だけにとどまり、愛情の代わりに叩頭を向けられるのは、身を切られるほど辛いだろう。
 そのことを充分理解しているからこそ、楸瑛はこう諭すのだ。
「今は焦らずお待ちなさい。心から望むのであれば」
 主が欲しがっている言葉を彼は知っている。だが、それを易々と口にするつもりはなかった。気休めの軽い言葉を吐くことが優しさなどと彼は思わない。結果、それが残酷に響こうとも。
 だから、彼は毅然と告げる。
「彼女の背を押したのはあなたですよ。――私たちと同じように」

 王宮に咲く双つの花。それは栄誉の証であるとともに、常に危険をも孕んでいる。再び国土が荒れ、人心がすさむようなことがあれば、必ずや矛先は王とその側近に向けられるだろう。
 花を受けた彼らには、もはや他に進むべき道がない。たとえそれが荊の道であろうとも、真っ直ぐに突き進むよりないのだ。
「わかっている。――充分すぎるほどにな」
 劉輝は小さく頷いた。その少し頼りなげな動作に、楸瑛は苦笑を洩らす。
「だといいんですがね」
「……ずいぶんと信用がないのだな」
 楸瑛のからかうような台詞に、劉輝は唇を尖らせた。これではまるで子供だ、と楸瑛は破顔する。この人は、池の月が欲しいとせがんだ頃から変わっていないのではないだろうか――そんな気さえしてしまう。

 すると、不意に振り返った劉輝が、意気込んだように口を開いた。
「だがな、楸瑛。鏡花と水月は違うぞ」
 向き直った際に、彼の傍にあった小石が池に転がり、ぱしゃりと音を立てる。水面が漣を立てて、そこに映る月を掻き消した。
「空に浮かぶ月も、水に映る月も、結局どちらも人の手に届くことはない。だが、鏡花は違う。鏡に映る花を得られぬのなら、鏡を取り払ってしまえばよい。そうすれば、真にそこにある花を手に入れることができるだろう?」
 思いも寄らぬ言葉に一瞬、呆気に取られていた楸瑛は、ほどなくして笑い出した。
「なるほど……あなたらしい言葉です」
「どういう意味だ」
 いぶかしむように眉をひそめる劉輝に、彼はさらに笑いかける。
「誉めているんですよ、これでも」
 まったく、考えてもみなかった。鏡花から鏡を取り除いてしまうなどという強引すぎる話は、これまで聞いたことがない。
 だが、だからこそあるいは――と、彼はふと思う。この王なら、もしかしたらあらゆる障壁をも取り払ってしまえるかもしれない。――鏡の花を真の花にするために。
 誰かのために忠誠を尽くすことなど考えもしなかった己にすら、花を受け取らせたこの人ならば――

「彼女はきっと大輪の花を咲かせるでしょう」
 かの地で託された大任を果たし、下賜された蕾を大きく開かせるだろう。
 鏡に映った実体のない影ではなく、温もりの中に息づく真の花として。
「――それは、楽しみだ」
 劉輝は柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
 池の漣はすでに消えている。夜風に吹かれて去りゆく二つの影を、ただ静かに水月だけが見送っていた。




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