光差す

 彼はその扉の前で一つ息をつくと、ゆっくり戸を叩いた。どうぞ、と相変わらずの穏やかな声に促され、彼はそこに足を踏み入れた。
「――入ります、兄上」
 一歩入ると府庫特有の、紙と埃の混じり合った臭いが鼻をくすぐった。奥を見やると、微笑をたたえた兄の首だけが覗いている。積み上げすぎた書物の山に埋もれて、体の大半が見えなくなってしまっているのだ。
 もちろん、今に始まったことではない。彼がここを訪ねる時はいつもこんな具合だ。
 そして今日――この日もまた、邵可はいつもと同じだった。何一つ変わらぬ微笑を浮かべて訪問客を迎え入れる。
「……ここは相変わらずですね」
「ああ、ごめん。ずいぶん散らかっていて」
 弟の言葉に、邵可は困ったように頭を掻いた。確かに恥じらって余りあるほどの散らかりようではあるが、黎深自身はそういうつもりで言ったのではなかった。
 この府庫の空気はいつもと変わりない。あの娘が去った後も、ここの時間は相変わらず緩やかに流れていると――そう感じたことを口にしたのだ。
「ここは静かですね」
 府庫の窓から庭院を眺めやりながら、黎深は呟いた。初夏の風に、新緑の眩しい枝が揺れる。
 この柔らかな風に送られながら、彼の姪たち一行は今日、旅立ったのだ。まるでこの先に待ち受けるはずの苦難を微塵にも感じさせないような、澄みきった空の下で。
「ゆっくり本を読むにはちょうどいいよ。ああ、何か読みたいものはあるかい?」
 弟の視線の先に気づいているのかどうか、邵可はいつものようにのんびりと訊ねる。だが、黎深はその問いに首を左右に振った。
「いえ……今日は結構です」
 そう? と軽く聞き返しながら、邵可は卓上の本の山脈を何とか片づけようとした。このままの状態では、卓を挟んで向き合って話すことすら覚束ないのだ。
 だが、やがて邵可はその手をふと止めた。どうしたのかと怪訝な顔をする弟に向き直り、彼は何気なく口を開く。

「――主上は、すまないと言ってくださったよ」
 唐突な言葉に、黎深は瞬きを繰り返した。
 (――まったく、この人にはかなわない)
 自分が今日ここを訪れた理由など、とうに察していたのだろう。そして、娘のことではなく、あえてあの王のことを持ち出すのも、ゆえあってのことなのだ。それを彼は知っている。
「まったく、あの王は……済む済まないの問題ではないでしょうに」
 だがそれでも、黎深は王のこととなると口ぶりが重くなる。その苦々しげな表情に、邵可は小さく苦笑をこぼす。
「黎深は、あの人事に反対ではなかったのかい?」
 あの人事とは紛れもなく、この春の除目のことだ。初の女性官吏――それも少女を危険極まりない任地へ派遣するという、前代未聞の。
 しかし、下った勅命に六部長官からの反対の声はなかった。無論、この吏部尚書も王の裁可に異を唱えなかったのだ。
「充分妥当でしょう。今年の進士の中で、あの子たちの他に適任者がいるとは思えません」
「そこまで君に言ってもらえれば、あの子たちも本望だろうね」
 邵可は積まれた本に手をかけながら、くすりと笑う。自分のことなど関係ない――そう思いながら、黎深は再び口を開く。
「危険は無論、承知の上です。しかし、何も宮中ばかりが安全なわけではないでしょう。爪を研ぎ、牙を光らせて獲物を待ち受ける獣どもが、多く巣食う場所ですからね。それに、身の安全ならば紅家が全力を挙げて守ります。その先のことは、あの子らの才覚次第です」
「それで、主上の勅命に賛成してくれたんだね?」
 兄の問いかけに、だが黎深はまだ首を縦には振らなかった。
「だからと言って、あの王を完全に認めたわけではありません」
 あの娘の能力を買ったことは大いに正しい。だがそれは、言ってみれば当然すぎることでもある。もしそんなこともわからない暗愚な王であれば、ただちに見限って首をすげ替えてしまうところだ。紅家の力をもってすれば、その程度のことは不可能ではない。
 いや、と彼はかすかに吐息する。
 本来なら、もっと早くに見放しているところだったのだ。
 あの内乱を経て、若くして玉座に座った王は、しかし政務はおろか、現実にすらまともに向き合おうとしなかった。そんな魂の抜けたような者を主として戴くことなど、彼には不愉快極まることだ。
 ただ、この兄が我が子同然に目をかけ、気を配っていることを知っていたから、ぎりぎりのところで踏みとどまったのだ。

「――ありがとう」
 ぽつりと、邵可はその一言を口にした。
 何に対する礼なのか、充分すぎるほど理解しているからこそ、いたたまれない。だから彼はひどく素っ気ない言葉を返す。
「礼を言われるほどのことではありませんよ」
 彼の行いは、国を想ってのことではない。少しでもこの兄の――兄の家族の力になりたいと思っただけのことだ。彼にとって、国家は命を賭し、身を捧げるべき対象ではないのだから。
 国は絶対でも永遠でもない。それは彼の信条だ。
 あの長きに渡った内乱期。いつ大地が焦土と化し、人民が絶え果ててもおかしくないほどだった。あの時、この彩雲国がかろうじて国としての形を保っていられた背景には、紅家の力も大きく影響している。もし紅家が早々に朝廷を見放していれば、もう一方の名門、藍家のみの力で踏みとどまることは不可能だったろう。実質、彩雲国の命運はこの若き紅家当主の手に握られていたのだ。
(そればかりか――)
 ふと過去を振り返った黎深に、苦い思いが去来する。
 当時、紅家の中には内乱を、覇者として立つ好機だと説く愚か者も少なからず存在したのだ。無論、彼はそのような声を黙殺し、すべて切り捨ててきた。
 また一方で、そうした彼の行為を無欲である、忠義であると賞賛する者も内外に多かった。実際には、国を守る気などなかったにも関わらず。
 国など滅びても構わない。王朝など途絶えても構わない。
 それが、彼の抱いていた激しい思いだった。 
 誰にも――この兄にすら一度も口にしたことはなかったが。

「主上はきっと良い君主になるよ」
 ふと呟く兄の言葉に、内心を見透かされているような気がして、彼はどきりとする。――「良い君主」など、初めから求めていないことを悟られているような気がして。
「……兄上はずいぶんとあの王を高く買っていらっしゃる」
「君にもいずれわかるよ」
「認めるには、それだけの資質を見せていただきませんとね」
 この兄の前でだけは、彼はなぜか拗ねたような物言いをしてしまう。部下たちが見れば、意外さを隠しきれないだろう。一部の人間には充分すぎるほど知られている、彼の数少ない弱みだ。
「いくらあの子らが発ったからとはいえ、朝議の間も上の空では、まだまだ及第点をあげるわけにはいきませんよ」
 想い人に心を捕われたままでは、為政者としてというより、一人前の大人としても認めかねる。彼はそう思うのだが、邵可はそんな弟の言葉に苦笑をもらす。
「黎深は相変わらず点が辛いね」
 微笑を向けられる傍らで、しかし黎深はかすかに唇を噛んだ。話が王のことに及ぶたび、彼は苦い思いを甦らせるのだ。

 彼はいまだに先王の存在を認めていない。この兄に陰で何をさせたのか熟知している彼は、崩御の後も決して許すつもりはなかった。また、この先も永遠に許すことはないだろう。
 初めてその事実を知った時、彼は国や王や朝廷に対し、不信と憎悪を抱いた。先王亡き後も国に対して冷めた目を向けるのは、いまだその思いを引きずっているからだ。――そういう自覚はある。
 若い時分、国などどうなっても良いと思いながらも官吏の道を選んだのは、ひとえにこの兄の支えとなるためだった。そのためなら、兄に手を汚させた王に対し、頭を垂れることも厭わなかったのだ。
 当時のことは、今思い出しても吐き気がするほど忌々しい。この苦すぎる思いは、生涯消えることはないだろう。あの愚王は彼の内実にまで土足で踏み込み、痛めつけたのだ。いくら憎んでも足りないほどに。
 その先王の血と玉座とを受け継いだ今上に初めて拝謁した時、これは父王以上の凡愚だと彼は感じた。現実を拒否した虚ろな目は、国を沈める以外にできることはないだろうと。
 しかし、この兄が温かく見守り、陰から支え続けた。
 あの娘が虚脱した瞳を開かせ、現実に目覚めさせた。
 あの子が花を受け取り、その身を捧げることを決めた。
 ――すべては変わってゆくのだ。病み疲れた土地も次第に実りを生み、荒れ果てた庭院もやがて花を咲かせるように。
 ならば、自分も変わってゆくしかないのだろう。ほんの一握りの人々の幸せを願うだけでなく、この国とそれを統べる者の成長を見守ってゆくべきなのだろう。

 ふと顔を上げると、何とか卓の上を多少片づけた邵可が、棚から茶器を取り出しているところだった。
「黎深、お茶と水とどちらがいいかな」
 器を差し出しながらそう問う兄に、黎深は大いにいぶかった。
「水……ですか?」
 普通、人をもてなすのに水は出さないと思うのだが。聞き返す弟に、邵可は困ったような微笑を浮かべて答えた。
「私の淹れるお茶は、あまりおいしくないらしいから……」
 あまり、とはずいぶん控えめな形容だと黎深は思った。兄の淹れるお茶の実態を充分知っている彼は、だがゆっくりと首肯した。
「――お茶を、頂きましょう」
 すべて飲み干してしまおう。
 苦い思いも、鈍い痛みも、ともに洗い流してしまおう。
 芽生え始めた若木たちが、いつかこの大地に根を張る大樹となるように、彼らを育む明るい光が差すことを願いながら。




戻る