花の陰




 静蘭がその戸を開けると、ここしばらくの間にすっかり見慣れてしまった光景があった。
 文机に向かったまま、主の少女が顔を伏せている。恐らくは書簡を読みながら眠ってしまったのだろう。いつものことだが、彼女は無理を承知で根を詰めすぎている。
 一つ小さく息をつき、彼は茶を載せていた盆を戸口の卓子にそっと置いた。
 さして音は立てなかったのだが、入室者の気配に気づいたのか、少女は少し頭を持ち上げて後ろを振り返った。
「ありがと……静蘭」
「すみません、起こしてしまいましたか」
「ううん、大丈夫よ。まだ仕事が残ってるから、もう一頑張りしないと……」
 秀麗はあくびをしながら、ゆっくりと体を起こす。だが、相当な疲労と眠気が、彼女の体の動きを鈍らせている。その様子を見ながら、静蘭は覚醒を促す緑茶ではなく、眠りを誘う香茶にすればよかったと悔いた。
「あと、これを片づけないと……」
 呟きは、消えゆく語尾から寝息に代わった。
 静蘭は小さく微笑すると、慣れた手つきで長椅子から肩掛けを取り上げ、そっと掛けた。
 静かに寝息を立てる少女の頬にかかった髪を、彼は指先ですくい上げた。顕わになった素顔は、咲き始めた花のような瑞々しさをたたえているものの、面やつれの跡は隠せなかった。

 現在の彼女は明らかに無理をしすぎている。与えられた過分な地位に一刻も早く近づこうと、爪先立ちした両足が痺れて動けなくなるほどに。このままでは目標に向かって歩くことも困難になるだろうに、それすらも無視して懸命に背伸びを続ける。まるで何かに急かされているように。
 それも無理のないことではあるが――。静蘭は小さく息をつく。
 そもそも出仕を始めたばかりの新米官吏が州牧に任命されるなど、古の史書を紐解いても決してお目にかかることのできない「事件」だ。しかもそれが二人同時で、さらには両者とも年端もゆかぬ若輩者だとすればいっそう。
 また、彼女は女であるという重荷を背負っている。通常の若い娘であれば、それを最大の武器とすることもさほど難しいことではない。むしろ楽しむような女たちも大勢いることを彼は知っている。
 だが、彼女は違う。安逸に逃げず、臆することなく、先人が誰一人歩まなかなかった無限の荒野をあえて突き進もうとする。それが彼女の焦がれ続けた夢だったからこそ。

 彼女に手を差し伸べたのは他でもない、彼の唯一の肉親――末弟にして四海を統べる玉座の主、彩雲国王だ。
 女性官吏登用という道さえ開かれれば、彼女の実力で栄達の道を駆け上ることは不可能ではない。それだけの聡明さと、強靭な意志とを併せ持つ彼女であれば。そのことに弟が気づかないはずはない。そして、それが王と官吏ではなく、「紫劉輝」と「紅秀麗」という私人としての彼らの距離を隔ててゆくことも。
 かつて最も玉座に近いと目されていた彼は、この国にただ一つの椅子が持つ意味を知っている。国を統べる者は、私人としては生きられない。といって権力を振りかざし、無理にでも手に入れようとすれば、本当に欲するものは決して得ることなどできはしない。
 だから王は焦っている。時機も間合いも推し量らず、次々と彼女に与えられるものを差し出し続ける。それだけが、あの弟にとって今、唯一できることだから。
 弟の必死な想いが、彼には痛いほど伝わってくる。

 遠い記憶の中の末弟は、いつも怯えた表情を浮かべていた。周囲から虐げられ続け、恐怖と不安に染まった瞳は今でも忘れられない。そんな弟に唯一、愛情をもって接したのは彼だけだった。だが、その愛情すら弟にとっては不安の材料となった。自分を置いて離れていってしまうのではないかと――与えられる喜びは、失う恐怖を呼び起こしたのだ。
 やがて、それは現実となった。罪人として流され、血臭の中から生き延びた第二公子・紫清苑は、その時死んだ。新たな名と生を授けられた彼が宮中にささやかな地位を得た時、かつて彼にすがってばかりいた末弟は王位に就き、そしてその座を半ば放棄していた。孤独の闇に沈んだ、暗い瞳をして。
 その王を光の下へ導いたのは他でもない、この少女だ。
 彼女こそが、目的も希望もなく漂泊するだけの抜殻に命を吹き込み、この国に「王」を与えたのだ。

 そうして光を受けた若き王は、今では才高き双つの花を左右に従え、百官を掌中に収めることとなった。微笑を浮かべて温かく見守ってくれる、良き理解者も得た。だが、それでも彼の至高の位をともに分かつ者はこの地上に存在しない。あるとすれば、国法に則り正式に選ばれた妃だけだ。そして、地位や権力の装飾を取り払った素顔の王と、一個の人間として向き合える女性は一人しかいないだろう。
 だから、王は彼女を求め続ける。強引に引き寄せれば振り払われることを察知しているから、離れたところで彼女がいつでも身を預けられる場所を用意している。
 その無限の優しさを――底のない愛情を受けながらも、彼女は脇目も振らず、自分の夢のために苦難の道を歩み続ける。その王によって開かれた道を。
 二人は、常に危うい均衡の上に立っている。王が恋情を慈愛よりも傾けた時、少女が択るべき道は大きく狭められる。その時、彼女はどんな答えを出すのだろう。

 ――そして自分はその時、どんな未来を見るのだろう。

 歩き始めた彼女には、もはや支えとなる手は必要ない。――否、初めから支えなど不要だったのだ。彼女は確かに初めから持っていた。人を惹きつけて止まないあふれるほどの輝きと、あてがわれた運命を覆すほどのたくましい力を。
(――初めから、必要なかったのだ)
 静蘭は、静かに寝息を立てる少女の傍らにたたずんだまま、拳を強く握りしめた。手のひらに爪が食い込むほど、強く。
 そんなことは、とうに気づいていた。だが、そうと認めることがこれほど難しいとは思ってもみなかった。
 今ある自分の生は、彼女のお蔭だ。
 少し力をこめれば軽くもげてしまいそうなほど小さな手が、彼を深い闇の底からすくい上げてくれたのだ。それを逆に支えようなどと、どうして言えよう。彼女の手こそが、彼をこの世に繋ぎ止める唯一のものだというのに。
 ――彼女を導き、求めるものを与えられるのは、自分の手ではない。遠い過去に捨ててしまったあの場所からでなければ、差しのべることなどできないのだ。

(――今さら、戻ることなどできない)

 過去を悔いているのではない。戻りたいわけではない。
 あの場所にとどまり続けていれば、決して得られなかったはずの、温かな時間を彼女がくれた。捨てた過去を求めようとすれば、その思い出さえも否定することになってしまう。それだけは絶対にできない。
 だからこそ彼の択るべき道はいっそう絞られる。

 静蘭は、かすかに寝息を立てる少女を無言のまま見下ろした。そうして白い頬に沿わせていた指先をついと動かし、柔らかな唇をかすめるようになぞりながらそっと離す。
 心地よさげな寝顔を、微笑とともに見つめながら。
「――それでも、私はおそばにいます」
 来たる日に彼女がどんな答えを出そうとも、縁が切れることは決してない。一度死に、すべてを捨てた彼だからこそ、この運命には心より感謝する。
 たとえ距離や位階が二人を隔てても、心は常にそばにある――それが家族の証なのだから。


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