:::::::::: 天使の風葬 ::::::::::


 二月十七日、天使が死んだ。
 眩しい羽がささやいた夜に。





 一月十七日深夜、一人の少女が短い命を散らした。
 七階建てのマンションの屋上から落下し、冷たくなった体が発見されたのは、翌朝になってからのことだった。成人の日を含む三連休も明け、すでに正月気分も抜けてしまった頃。もともと人通りの少ないその裏通りは当日夜、完全に無人で目撃者もいなかった。

 発見者は早朝アルバイトに出る途中の、近隣に住む青年だった。ちょうど朝日が昇る時刻、にわかに明るむ景色の中で、彼はそれを見つけた。
 横たわる少女の体には、夜の間に降りそそいだ雪が薄く積もっていた。新雪のやわらかな表面は風に撫でられ、ダイヤモンドダストのように細かく煌めいた。舞い踊る雪片の中で、発見者の青年は、少女のそばにいっそう煌めく欠片があるのに気づいた。

 それは朝日を反射する鏡の破片だった。
 ガラスの欠片の中に横たわる少女と、目の前の建物とを見比べて、彼は思った。厭わしさを覚えなかったのは、少女が淡雪に覆われていたためだろう。だから恐ろしさも痛ましさもなく、ただ自ずと感じた。

 ――少女は鏡を抱いて屋上から飛び降りたのだと。






 天原由乃は新居に足を踏み入れるなり、呆気にとられた。
 引っ越し先は、1DKとは思えないほど広々としていた。フローリングの六畳間は、はるか向こうまで奥行きが広がり、見ているだけで吸い込まれそうになる。
 由乃は室内を見回し、大きく息をついた。
 部屋がどこまでも遠く広がって見えるように、室内に積まれた引っ越しの荷物もまた、山脈のように長く連なっている。さらには部屋でたたずむ由乃の姿までも、何十体、何百体と、彼方までずらりと立ち並ぶ。もちろん、これは目の錯覚だ。それというのも、部屋の隅々まで大きな鏡が敷きつめられているからだ。ショーウインドウのガラスのように、狭い部屋の壁にびっしりと板鏡が嵌め込まれている。それが反対側の壁面の鏡と反射し合って、無限の奥行きを持たせているのだ。

 当然のこと、こんな内装にしたのは由乃ではないし、マンションの大家でも管理会社でもない。由乃の前の住人によって、この一室はミラーハウスに仕立て上げられてしまったのだ。本来なら前の住人がマンションを出る時にすべて撤去するのが筋だが、わけあって由乃が先住者の部屋を家具ごとすべて引き継ぐことになった。
 再び白い溜息を吐き出して、由乃は六畳間の床に腰を下ろす。すでに日は暮れ、暖房もつけない部屋の空気は冷えきっている。カーペットすらも氷のように冷たかったが、由乃にはそれを感じている暇さえなかった。それほど頭の中を別のことが占めていた。

 ――この鏡の数は尋常ではない。

 いくら何でもやりすぎだ。唯一、鏡がないのは窓の部分だけ。壁一面に鏡が張られているばかりではなく、部屋のドアまで鏡張りになっている。こんなに部屋を鏡で敷きつめて、いったいどういうつもりだったのだろう。首を傾げながら、由乃は先住者の残したテーブルに視線を投じた。何気なく見やっただけだが、それはまるで自己主張でもするように、まっすぐ視界に飛び込んできた。
 手の中にすっぽり収まるほど小さな、丸い手鏡だった。白いプラスチックの枠に嵌め込まれた、安っぽくて何の変哲もない鏡。それが裏返しのまま、こたつの上に置かれている。
 由乃は何となくその鏡に手を伸ばした。特に理由があったわけではない。ほとんど無意識に近い行為だった。だが、その何気ない行為の直後、彼女は我が目を疑うことになった。
 その手鏡には顔が映っていた。目を見開いて凝視する由乃の顔。
 ――それにもう一つ。

「……天使?」

 手鏡に全身が映るほど小さな体。子供のような稚い顔。豊かに流れる栗色の髪。それだけであれば、大きさは違えど人間と変わらない。だが、その小人には大きな特徴があった。 ――華奢な背中から生えた白い羽。
 それは、まるで小鳥のようなしぐさで首を傾げ、嬉しそうに微笑んだ。
 由乃は息を呑んだまま鏡を見つめることしかできなかった。その凍りついた顔も確かに鏡に映っている。鏡と顔との間には、何一つ存在しない。それなのに、鏡に映る由乃の前に、小さな天使がたたずんでいる。
 由乃は急に眩暈を感じ、目を閉じて額を押さえた。何かとんでもないものが見えている。そんなはずはない。あるはずのないものが見えるなんて。自分自身に言い聞かせ、由乃は目を開けてもう一度鏡を覗いた。
「……何だ、やっぱり幻か」
 すでに鏡の中に天使の姿はなかった。いや、きっと初めからいなかったのだろう。こんなばかげた幻覚を見るなんて、思ったよりも疲れているのかもしれない。由乃は鏡を放り出し、頭を振って幻像の記憶ごと打ち消そうとした。もしかして引っ越し屋に無理を言って、時間帯を日暮れ時に指定したのがまずかったのだろうか。疲労と薄闇が、こんな幻覚を生み出したのかも。だけど、昼間の日差しの濃い時間には無理なのだから仕方がない――
 とりとめもない思考を遮るように、突然カラカラ、と何かが床を転がる音がした。

 ――まさか、誰かいる?

 由乃が慌てて振り向いた先には、さっきテーブルに投げ出したはずの、丸い手鏡が円を描いて回っていた。鏡が何かの拍子に落ちたのだと思ったが、そうではなかった。
 床の上を転がる小さな鏡の手前。そこには壁一面に敷きつめられた鏡があった。そして、その大きな鏡の中に、さっき見た天使が映し出されていたのだ。
「移動……した……?」
 壁一面に張られた大きな鏡の中を、天使は嬉しそうに飛び回る。背中の翼をせわしく羽ばたかせて。それまで閉じ込められていた小さな鏡が窮屈だったとでもいうように、広い鏡面に映し出された世界を翔ける。
 由乃は目を凝らしてその動きを追った。小さな天使は鏡にはっきり映っている。だが、鏡像の元となる本体はどこにも見当たらない。鏡像の由乃の前を天使が横切っても、本体の由乃の前を通ったものは何一つないのだ。

 ――これはいったいどういうことだろう。

 実際にはいないはずのものが鏡に映るなんて、ありふれた怪談のようだと由乃は思う。暗い洗面所の鏡に不気味な人影が映って、振り向くと誰もいないという、あれに似ている。だが、この鏡に映っているのは幽霊でもお化けでも妖怪でもなく、天使なのだ。それも、手のひらサイズの。
 由乃はふと、床に転がった手鏡を見やった。初めに天使がいた、小さな鏡に。そして壁鏡に視線を戻すと、また天使が消えていた。

 今度こそ、幻覚などという言葉で割り切ることはできなかった。天使は鏡の中を自由に移動している。そうとしか考えられない。すでに天使が実在することや、鏡の中に何かが住むことについて、疑問を抱く余裕は失われていた。実際に目にしてしまった以上、いちいち疑っている場合ではないのだ。
 自分が目を離している隙に、天使はどうやってか鏡から鏡へと飛び越えている。由乃はそう結論づけた。そして天使の姿を探そうと、辺りを見回す。だが、部屋中が鏡で埋めつくされているため、その中から天使を見つけ出すのは容易ではない。しかも部屋全体が合わせ鏡になっているので、鏡の中に鏡があり、その鏡にも鏡が……というように、際限なく鏡が続いている。目を凝らして鏡の奥を見つめようとすると、自分の視線が何十体もの鏡像から跳ね返され、眩暈を起こしそうになる。

 天使は――
 天使はどこに消えた? この室内の鏡のどこかで飛び回っているのだろうか? それとも、やはり幻覚に過ぎないのだろうか?

 手に乗りそうなほど小さな体。やわらかく流れる栗色の髪。背中に広がる白い翼。そして、無邪気に笑いかけるあどけない相貌――
「――ぅわっ」
 不意を突かれ、由乃は思わず声を上げた。突然、頭上から花が降ってきたのだ。
 髪や肩に降りかかった花を摘み上げてみると、カサカサと音がするほど乾いている。その萎れ方から見て、人工的に枯らしたドライフラワーではない。恐らくは前の住人が部屋に飾っていた花が、しばらく経って枯れたものなのだろう。由乃は花を降らした犯人を探して周囲を見回した。

 ――見つけた。

 大きな鏡の天井近く。鏡の中の本棚に腰掛けて、天使が嬉しそうに微笑んでいる。その手には、枯れた一輪のフリージア。
 もとは白いその花の、花言葉は無邪気。色を失った花を抱える天使は、花言葉通りにあどけなく笑っている。
 そして、ゆっくりと花から手を離した。
 萎れたフリージアが、鏡の中から由乃の手元へと舞い降りる。鏡の世界と、この世界がつながっていることを示すかのように。
 これが、由乃と鏡の天使との出会いだった。



 夜になっても、天使は由乃の周りにまとわりついた。正確に言えば、由乃の鏡像に。
 不思議なことに、鏡の中の由乃に天使が触れても、由乃には何も感じられなかった。頭を踏み台にされたり、肩に飛び乗られたりしても、その感触はまったくない。同じように、天使がいるはずの場所に由乃が手を伸ばしても、空をつかむだけで、実体の見えない天使に触れることはできなかった。
 天使は、やはり鏡の中にだけ住んでいるのだ。暗い部屋で、膝を抱えながら由乃はそんなことをぼんやりと考えた。

 電気ストーブのオレンジ色の火と、パソコンのディスプレイの光だけが灯る六畳間は、驚くほど暗い。蛍光灯をつけないため、弱い光を反射できるのはごく一部の鏡だけ。そのせいか、天使も明かりの近くの鏡以外に移動しようとはしなかった。鏡は光を反射することによって像を映し出す。だから光がなければ、鏡に住む天使はその場を動くことができないのだろう。
 由乃は、こたつ布団に顔を埋めたままの姿勢でパソコンに手を伸ばし、エンターキーを押した。これで通販サイトの住所変更は終了だ。明日にはこちらのマンションに荷物が届くだろう。面倒だからと今日まで宅配サービスの登録変更を先延ばしにしてきたが、そうも言っていられない。何しろ生活のほとんどがかかっているのだ。

 ディスプレイの淡い光から視線をそらし、由乃はもう一度膝を抱え込んだ。パソコン内部でファンの回転する音だけが耳に届く。鏡の中で天使はせわしく飛び回っているが、その羽音は聞こえてこない。鏡は、中の世界の音までは伝えてくれないのだろう。
 だから部屋は恐ろしいほど静まり返っている。普通の集合住宅は、隣家の生活音などが漏れ聞こえてくるものだが、このマンションにはそれがない。防音処理を施してあるため、窓を開けない限り、大声を上げても楽器を生演奏してもほとんど伝わらないのだという。
 そう、本来ならこの部屋は非常に住み心地がよいはずなのだ。これほどの鏡に包囲されていなければ。

 天使は鏡に映る由乃の手を引っ張って、天井の照明を指差してみせる。その意図は明白だ。明かりをつけろ、と言っている。だが、由乃には立ち上がって電灯のスイッチを押す気力さえ湧かなかった。
 何かに打ちひしがれているわけでも、どこか具合が悪いわけでもない。これがいつもの調子なのだ。暗くなっても明かりもつけず、立ち上がることさえ厭い、喉が渇いても水を飲むことすら億劫になる。――時々、生きていることさえ無意味に思える。
 親しい人も、趣味も、生きる目的すらもなくて、ここで呼吸し、ただ命を長らえていることに何の意味があるのだろう。自分が費やす酸素も水も食料も、本当はもっと価値のある人間に与えたほうが有益なのではないだろうか。そんなことをいつも考える。

 しかし、だからといって自殺したいわけでは決してない。自分を殺すほどのエネルギーを燃焼させることができないのだ。だからなるべくエネルギーを消費しないよう、部屋にうずくまって一日を過ごす。冬眠中の動物は、呼吸も拍動も一分間に数回ほどになるという。その要領で、代謝を最低限にまで節約する。

 ――それなのに。

 この天使の出現によって、由乃の生活リズムは大きく狂わされようとしている。
 天使は、先に花を降らせたように、鏡に映ったものを自由に動かすことができるようだった。だが、由乃の見ているところで何かがひとりでに動くということはない。由乃が目を離した隙に、天使は鏡の中で好き勝手にものを移動させている。
 たとえば由乃が下を向いている間に、本棚から本を引っ張り出す。その音に気づいて見上げれば、今度はこたつの上でペン立てをひっくり返す。天使が持ち出した本は、もともと部屋にあったものなのだが、鏡の中で天使が手にしている間は、こちらの実体世界からその本は消えている。天使が持ち出したものは、手にしている間だけ天使の一部になっているようだ。だから、鏡の中で天使が本を持ち上げているからといって、こちらで本が宙に浮いているという事態にはならない。
 そして、天使がそれを手放せば、鏡の中からこちらの世界に戻ってくる。実に唐突に。
 そのせいで、完全に平穏で静寂な一人暮らしをする予定だった由乃の生活は、引っ越し初日から乱されてしまった。

 由乃がじっとうずくまっている間にベリベリと音がすると思えば、いつの間にか荷解き前の段ボール箱のガムテープを剥がしている。それをやめさせようとすれば、今度は本棚から本を片っ端から床に落としてゆく。
「やめて! 何するの!?」
 叫んだところで天使は動きを止めない。段ボール箱に詰められていた小物類を持ち出してばらまいてゆく。
「ちょっと……やめてったら!」
 ペンが転がる。小銭が散らばる。靴下が舞う。歯ブラシが飛ぶ。もはやこれ以上、うずくまっていることはできなかった。普段、節約しているエネルギーを絞り出し、こたつから這い出て立ち上がる。
 だが、その時にはすでに手遅れだったのだ。

 明かりが届く範囲の鏡に映ったものは、残らず床にばらまかれていた。台風一過のような惨状だ。さらには花瓶を重そうに抱え上げる天使を見て、由乃はぎょっとした。
 ――これが床に叩き付けられたら。
 悲惨な事態を瞬時に思い描き、由乃は慌てる。
「ば、ばかっ! 何てこと――」

 ピンポンピンポンピンポンッ

 ほとんど悲鳴に近い声を上げようとした瞬間、騒々しい邪魔が入った。玄関のチャイムを誰かが力任せに連打したのだ。そのせいかどうか、陶器が派手に割れる音はしなかった。
 これ以上の被害が出ないのは喜ばしいことだが、厄介事はまだまだ続きそうだった。嫌な予感に駆られながら、由乃がインターホンに出ると案の定、罵声が室内にこだました。
「いい加減にしろ! 今、何時だと思ってんだ!? 夜中に部屋で暴れるな!」
 憤ったその声は、まだ若い男のもののようだった。多分、隣か階下の住人だろう。すみません、と形ばかりは謝ってみたものの、それで相手の怒りが収まるはずもない。無理もない話だが、自分のせいではないので由乃はやるせない気分になる。
 さっさと出てこいと怒鳴られ、由乃は仕方なく玄関に向かった。本当は夜中に玄関を開けるなど不用心もいいところなのだが、出ていかなければ相手はいつまでも引き下がらないだろう。それに、このまま外でわめかせていては、さらに近所迷惑なだけだ。

 腹をくくってドアを開けると、高校生くらいの少年が仁王立ちしていた。面と向かって文句をぶつけようとスタンバイしていたらしく、由乃がほんの十センチばかり開けたドアをさらに強く引っ張って、罵声を浴びせる。
「おまえ、今日引っ越してきた奴だろ!? どういう神経してるんだ!? いくら防音処理されてるって言っても、限度ってもんがあるだろうが! まさかこれがあいさつだって言うんじゃ――……」
 勢い込んでいた少年の怒気は、目に見えて急速に萎れていった。その目は驚愕に見開かれ、一点を――由乃の顔をじっと見つめる。

「り、理乃……!? そんな……」

 少年は半歩退いた。それは驚きのためというより恐れのせいだった。由乃はその様子を、ひどく冷静に見つめていた。
 夜だったから。
 闇に閉ざした空間の一部を開いていても、その向こうに夜があると知っていたから安心しきっていたのだ。

 だが、その安堵は瞬く間に破られた。

 光が唐突に差し込んできた。あれは上向きに切り替えた車のヘッドライトだったろうか。マンションの玄関側は道路に面している。寂しい場所なので、たまに通る車のライトは、ひときわ眩しく闇を照らす。
 穏やかな夜を切り裂くように、にわかに打ち込まれた光の矢は、由乃の目を灼いた。
「い…や―――っ!」
 悲鳴を上げて、由乃はその場にうずくまった。目を固く閉じ、頭を抱え、必死に闇を取り戻そうとする。
「お……おい、大丈夫か?」
 今や少年は完全に怒気を削がれていた。突然、悲鳴を上げてしゃがみ込む由乃の前で、おろおろと立ち尽くしている。そんな時だった。室内の照明が予告もなくつけられたのは。
 もちろん明かりをつけたのは、うずくまる由乃でも、動揺する少年でもない。その犯人を知っている由乃は、思わず叫んだ。
「――勝手に電気つけないでよ!」
 だが、その犯人――鏡の中の天使には、明かりを消す意志はないようだった。何とか立ち上がり、部屋に戻ろうとする由乃の背中に、素朴な疑問が投げかけられた。
「誰か他にいるのか?」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
 言ってから、由乃はしまったと思った。嘘でもいいから、そうだと答えたほうが不自然ではなかったのだ。何も正直に言う必要はなかったのに。
「でも今、誰かに向かって話しただろ?」
 明らかに少年は怪しんでいる。何と言い繕おうかと、混乱する頭で言葉を探しているうちに、少年の顔色が急激に変わった。彼は顎を落とし、口を開けたまま呆然としていた。その視線は玄関の左側の鏡に固定されている。

「な……何だあ? こいつは」
 他の壁に張られたものよりも、一回り小さな板鏡。その中には白い羽を広げて飛び回る天使の姿があった。
「俺、目がおかしくなっちまったのか? 幽霊の次は天使かよ……」
 嬉しそうに優雅に手を振る天使を呆然と見つめたまま、少年はつぶやいた。誰に聞かせるつもりもなかったのだろう。だが、それは由乃の耳に届いていた。
「――出てって」
「は? な、何だよ急に」
 突然、固い声で言い放つ由乃の豹変ぶりに、少年は面食らった。困惑する少年に噛みつくように、由乃はさらに声を高める。
「私は幽霊なんかじゃない! もう出てって――早くどっか行ってよ!」
 叫んで、由乃は少年を玄関から締め出した。そうしてドアに鍵をかけると、急に力が抜けて、ずるずるとその場にへたり込む。六畳間には、まだ明かりがついていたが、消しに行く気力も体力もなかった。
「私は……幽霊じゃない……」
 壁の鏡に身を預け、由乃は小さくつぶやいた。その声が聞こえているのかどうか、天使は小首を傾げたまま由乃を見つめていた。






 幼い頃から鏡が好きだった。
 初めて自分の鏡を持ったのは、幼稚園に入ってからだ。旅行の土産物として、母方の叔父がくれたキーホルダーの裏についていたのだ。鏡といってもシールのような安っぽいもので、映し出される像もひどく歪み、鏡の機能を果たしているとは言いがたかった。それでも鏡を初めて手に入れた嬉しさで、毎日眺めて暮らしたことはまだ記憶に残っている。
 そればかりではない。その鏡を筆頭に、これまで集めた鏡はすべて保管しているのだ。プラスチック製の玩具から、凝った細工品まで、その種類は様々。不要になって処分したタンスの扉の鏡さえ、わざわざ取り外して持っている。
 なぜこれほどまで鏡にこだわるのか、自分でもわからなかった。鏡そのものが好きなのか、鏡に映るものを眺めるのが好きなのか、それさえも。そして、何よりも好きだったのは反射し合う鏡が見せる魔法――万華鏡だった。



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