天使の風葬




(――由乃)
 最後に名前を呼ばれたのはいつだったろう。親しい人もなく、部屋に閉じ込もって生きていた由乃は、久しぶりに他人から名前を呼ばれたことに気づいた。
 荒れ果てた部屋の片隅で丸くなって、由乃は壁に背を預けた。視線を少しずらすと、背後の鏡に冴えない顔が映っているのが目に入る。それを見てうつむきがちに吐息したその時、また玄関のチャイムが鳴らされた。
 インターホンに出ると、今度は近所の苦情ではなく、宅配便であることがわかった。これでまたしばらく生きてゆくことができる。そんなことを自嘲気味に思いつつ、由乃は印鑑を持って玄関に出た。だが、

「……あの?」
 玄関のドアを開けて、由乃は困惑がちに訊ねた。そこに立っていた男は制服から、普段見慣れた宅配業者の配達人なのだと一目でわかったが、由乃が少なからず不審を抱いたのは、その男が段ボール箱を抱えたまま、自失したように立ち尽くしていたからだ。
「あ……すみません。判子をお願いします」
 問いかけられ、男はようやく我に返ったようだ。慌てて本来の仕事に取りかかる。その態度がどうにも不自然な気がして、由乃はさらに訊いてみた。
「どうか……したんですか?」
「いえ、その、ずいぶんと鏡が多いんだなと思っただけで」
 なるほど、と由乃は納得した。あまり物事に関心を寄せない自分でさえも、この部屋の内装には呆れたくらいなのだから、他人の目には異常としか映らないのかもしれない。
「あの……これは、前に住んでいた人が残していったものなんです」
 他人との会話は望んでいないが、せめてこの程度のことは言っておかなければ、さすがに怪しまれてしまうだろう。それで一応、言い訳めいたことを由乃は口にしたが、できのよい説明だとは自分でも思えなかった。それでも男は理解したのか、さらに詳しく聞こうとはしなかった。表情に乏しい顔を、目深にかぶり直した制帽に隠して一礼し、男は去っていった。廊下を足早に駆ける靴音を聞きながら、由乃はずるずると段ボール箱を引きずって六畳間に運び入れた。

 荷物の中身はいつも通りの生活用品一式。洗剤やトイレットペーパーのような消耗品から、インスタント食品や飲料水などがまとめてパックになって詰められている。これらはすべて通販サイトに申し込むだけで手に入る。実に便利なシステムだと由乃は思う。もともと食欲も物欲も薄いので、品質や食材にこだわりはない。だから、送られてくる物資だけで充分に生活することができる。
 これは天使に荒らされないよう、どこかにしまっておかなければと思ったところで、ふと由乃は荷を広げる手を止めた。
「……天使?」
 由乃は初めて天使がいないことに気づいた。
「どこに行ったのよ……」
 用のない時は騒々しくて、煩わしくて、生活の邪魔ばかりするくせに、呼びかけた時には姿も見せない。自分はできる限りエネルギーを節約したいと思っているのに、あの天使はその努力をすべて無駄にしてしまう。何もかもが正反対だ。――そう、ちょうど性質までも鏡面で反転してしまっているかのように。
 そんなことを考えて、由乃はかすかに苦笑した。自分らしくもない。こんなことに労力を費やすなんて。それにきっと、そのうち天使はひょっこり姿を現すだろう。勝手気ままに飛び回って、奔放にふるまうのだから、勝手に消えることもあるのだろう。そう思うことにした。

 だが、夕方になっても天使は現れなかった。

 部屋中の鏡を覗いて回ったものの、それらしき姿はどこにもない。探すのにも疲れて、由乃は床に座り込む。すでに日は傾き始めている。カーテン越しの光が鮮やかなオレンジ色に染まり、薄暗い部屋を照らし出す。由乃は天井を見上げながら息を吐き出した。溜息がほのかに白い。二月半ばのこの時期、暖を取らない室内は冷たい空気に満ちている。
 部屋を暖めることを忘れていた。そればかりではなく、そういえば朝から食事も摂っていない。天使を探すことしか頭になくて、人間らしい生活を送ることが疎かになっていた。
 次第に部屋が暗み始め、室温も下がる一方なので、そろそろ電気ストーブくらいつけようと立ち上がりかけたその時、またも来訪者を告げるチャイムが鳴った。

 今度は勝手に鍵を開ける天使がいないので、自分で出ていかなければならない。そういうところだけは便利だったなと妙に納得しながら玄関に出ると、そこには昨晩怒鳴り込んできた階下の少年が立っていた。
「な……何?」
「何って、鍋」
「そ、それはわかるけど……」
 由乃はドアを開けるなり、呆気に取られてしまった。光がなるべく差し込まないよう、わずかに数センチばかり開いただけなのだが、その隙間の向こうには明らかにおかしな光景があった。
 渚は両手に電気鍋を抱えていた。そして腕から下げたビニール袋からは、なぜか白菜の葉がのぞいている。
「さ、どいたどいた」
 とっさに反応に困って立ち尽くす由乃を押しのけるように、渚は鍋を持って部屋にずかずかと入り込んできた。



「まったく、信じらんねーよな。おまえ、本当に女かよ?」
 そう言って渚は盛大な溜息をついた。それというのも、ダイニングのテーブルには朝の食べかけのパン、こぼれたジャムの瓶が転がったままで、六畳間に至っては天使によって荒らされた現場がそのまま保存されているという状態だったのだ。空き巣が入っても、ここまで派手に荒らしはしないだろう。
「……わざわざ文句を言いに来たの?」
「いいや。鍋だって言っただろ?」
 それはわかる。見ればわかる。
 現在、由乃の目の前では、電気鍋の中で白菜や人参や豚肉やシラタキなどが、ぐつぐつと煮えている。渚は慣れた手つきで灰汁をすくいながら、鍋の温度を調節する。
「何で鍋なのよ」
「冬だから」
「――そうじゃなくて!」
 由乃が声を荒げても、渚は笑うだけで相手にしない。どうにもからかわれているようで、居心地が悪い。いきなり鍋と具を抱えてやってきた彼は、住人の許可も聞かないうちから勝手に台所に入り、あっと言う間に鍋料理をこしらえてしまった。制止する暇もなかった。

「お、そろそろだな。食っていいぞ」
 鍋と一緒に持ち込んだのか、渚はさっそく湯気の立つ鍋に自分の箸をのばす。
「……どうして」
 いまいましげに声を押し出して、由乃は湯気の向こうの顔を正面から見据える。
「どうしてこんなことするの!? 私は何も頼んでない!」
 何だかよくわからないうちに、流されてしまっていることへの怒りもあったかもしれない。他人を排し、ずっと一人でこもっていたのに、閉ざした闇の中に気安く入り込んでくる人間がいることに、不当な怒りを抱くのだ。
 特に今は、渚がこれまた勝手につけた蛍光灯のせいで、部屋が明るく照らされている。暗くては鍋ができないと言われては、反論も難しい。だから仕方なく明かりをつけているのだが、そういうことへの不満もくすぶっていたかもしれない。しかし、渚は憤る由乃の視線にもまったく動じる気配はなかった。
「ま、俺も余計なお世話ってのは充分わかってるけどな。でもおまえさ、自分の顔、鏡で見たことあるか?」
「え……?」
「ひどい顔色だぞ。生きてんのが不思議なくらいだ。上で野垂れ死にされてたんじゃ目覚めが悪いからさ、こうして滋養のつくもんでも食わせようかと思ってな」
 小皿に取り分けた具にポン酢をかけながら、渚はあっさりそんなことを言う。まるで初めからここに住んでいるかのような、くつろいだ態度で。
 それを見て、由乃は唇を固く引き結ぶ。この部屋の主である自分は、闇の中でうずくまることしかできないのに、他人のほうが堂々とふるまっていられるのが無性に腹立たしい。

「どうして……私に干渉するのよ。あんたも天使も、どうして私の生活を邪魔するの!?」
 由乃は再び叫んだ。だが、渚はのんびりと別のことを口にする。
「ああ、そういやあの天使、どうしたんだ?」
「知らない。いなくなった」
「いなくなったって、どっかに消えたのか?」
 由乃がすげなく答えても、渚はしつこく訊いてくる。それでますます苛立ちがつのった。
「知らないわよ!」
 天使が消えたことに動揺し、一日中部屋を探し回ったにも関わらず、由乃はどうでもいいことのように吐き捨てた。
 単に詮索されるのが嫌だったのか。天使が消えたことに動揺しているのを悟られたくなかったのか。――それとも、自分よりも天使に興味を持たれるのが悔しかったのか。
「まあ、いいから食え。イライラすんのは腹が減ってる証拠だ」
 渚はまるで子供をあやすような口振りで、由乃をなだめようとする。自分より年下のくせに偉そうに、と反発心が顔をのぞかせ、
「別にお腹なんか――」
 文句を言いかけたその時、タイミングを計ったかのようにお腹の虫が盛大に鳴いた。慌ててお腹を抑えても、もう遅い。渚は、くっくっと笑いを噛み殺しながら、鍋を指した。
「早く食えよ。毒なんか入ってねえからさ」
「ばかにしないでよ……」
 もはや強がりは通用しない。どだい、無理な話なのだ。朝から飲まず食わずで、目の前の鍋料理が湯気と匂いを漂わせている中、食欲を抑えようとしてもできるものではない。
 由乃はもともと食欲も気力も、人よりはるかに薄かったが、さすがに今はそうも言っていられない。渚に促されるように、鍋から小皿に取り分け、一口、二口と箸を運ぶ。
 そうして鍋料理の熱さと味を噛みしめると、急に箸を置いて強く目をつぶった。

「おい、どうした? 声をなくすほどまずかったか?」
 由乃はうつむいたまま、小さく首を振る。
「……悔しい」
 しばらく逡巡して、ようやく出た言葉がそれだった。実際、渚が手際よくこしらえた鍋は、驚くほどおいしかった。まともな料理を口にするのは何年ぶりになるだろう。両親の離婚以来、家族で鍋をつついた覚えなどない。
 だからこそ温かさが身にしみて、涙がこぼれそうになる。他人が作ったものなのに、それがおいしいからこそ余計に悔しい。
「今日でもう二十歳だってのに、泣くなよ」
 泣いてなんかいない。そう言い返そうとして、はたと由乃は気づいた。
「どうして……私の誕生日……」
 自分でもすっかり失念していた。
 今日は二月十七日。由乃がこの世に生を受けてから、二十年目を迎える日なのだ。
 だが、なぜそれを渚が知っているのだろう。
「双子ってのは普通、同じ日に生まれるもんだろ?」
 渚は、さも当然というようにそっけなく返す。そういえば、と由乃はおぼろげな記憶を探る。渚は理乃の知り合いだと言っていた。それなら理乃の誕生日くらい、聞いていてもおかしくはない。

「今日は、天使のささやきの日なんだ」
 唐突にそんなことを言われ、由乃は面食らった。
「天使の、ささやき……?」
「そ。ダイヤモンドダストのことをそう言うらしい。私は天使のささやきの日に生まれたんだって、理乃がよく言ってたから覚えてる」
 由乃は目をつぶり、その情景を想像する。風に乗り、きらきらと輝きながら舞い降りる細雪。それを天使のささやきになぞらえた人は、かなりのロマンチストなのだろう。詩的な情感を持ち合わせていなければ、とてもそんな比喩は生まれない。
 そして、その日に生まれたことを嬉しげに語る少女の姿を思い浮かべて、由乃は苦笑する。自分と同じ顔をした人間が、自分とまったく異なる感性を備えていたのだと思うと、何だか無性におかしかった。

「知らなかった。そんな日があるなんて」
「わりと最近、新しくできたらしいからな。何年か前の二月十七日に旭川で気温がマイナス四十度を超えたんで、逆にこれをイメージアップにつなげようとして制定したんだってさ。ま、要するに村起こしみたいなもんだな」
「身も蓋もない言い方するのね」
「何をどう表現しようと、本質が変わるわけじゃねえだろ」
 由乃はかすかに笑みをこぼしながら、こたつを挟んで座る渚を見やった。彼は由乃の視線などお構いなしに、黙々とうどん玉をほぐしながら煮え立つ鍋に投入している。
 渚はこうして余計な軽口は叩くくせに、肝心なことは何一つ語らない。冷たく追い返されたのに、なぜこの部屋を再び訪れたのか。どうして面識もない人間の家に上がり込んで、一緒に鍋をつつこうなどと思ったのか。

 ――もしかして。
 そんなはずはないと心で否定しながらも、可能性を捨て切ることができない。
 ――もしかして、彼は自分の誕生日を祝いに来てくれたのだろうか。

 実に厚かましい想像だ。自分の都合のいいように解釈するなんて、ばかげている。それでも、そう思わずにはいられなかった。これまで誰かに何かを祝ってもらったことなど、一度もなかったから。
 そんな彼女の内心の葛藤に気づいているのかどうか、取り分けたうどんを平らげた渚は、何かを言おうと口を開きかけた。だが、
「あ。宅急便」
 無粋な邪魔が入ったおかげで、二人の会話は生まれる前に潰れてしまった。来訪を告げるチャイムの音に、由乃はのろのろと立ち上がり、印鑑をつかんで玄関に向かった。



***


 多くの鏡が反射し合うその世界の中央には、光があった。これまで見た中で、どれよりも強く眩しい輝きを放つ光。それは日々、彩を変え、表情を変え、見ているだけで快くて愛しくて気が狂いそうになった。
 やがて、その世界に入ることを夢見るようになっていた。鏡が織りなす魔法の空間に入り、光を直にこの目で見たい。万華鏡の中核に触れ、光を感じ、この身と一つになりたい。その願いはレンズを覗くたびに強まった。
 そして、ついに光の中央に近づく日が訪れた。万華鏡の内部へと入り込み、眩しい光に触れようと、一歩を踏み出し、たまらず手を伸ばした――



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