COMING

 会食は翌日の晩、ということになった。あまりに急な話だが、ずいぶん前から予定が決まっていたのかもしれないし、どのみち子供の僕に決定権などない。それに、父さんが友人一家を招くのであって、僕が自分の友人を呼ぶのではないのだ。
 それでも一応確認のため、僕はソニア・シェリーに勇気を出して話しかけた。勇気が要るのは、勝ち気そうな彼女に自分から声をかけるのに何となく気が引けてしまうからだ。
「ねえ、シェリーさん。今晩、僕の家で夕食に招待するって話、知ってる?」
 予鈴が鳴り、生徒たちがめいめい席に戻り始める。彼女の周りに誰もいなくなるタイミングを図る自分が情けないが、この際やむを得ない。
「ええ。確か今日の七時だったわね。楽しみにしてるわ」
 彼女はあっさりそう答えた。本当に楽しみにしているかは不明だが、ただの社交辞令にしても、地球に来てからそんな言葉をかけられるのは初めてのことだった。その程度のことで少し嬉しくなってしまう自分は、なんて単純なのだろう。
「ところで、シェリーさんなんて他人行儀な呼び方はやめてよ。ソニアでいいわ」
「え……?」
 僕はぽかんと口を開けた。自分で自分を見れば、さぞや間抜け面をしていたことだろう。まったく、この彼女の言動には面食らってばかりだ。まさかこんなふうに地球人が火星人に親しく接するなんて――
 そこまで考えた時、僕は気づいた。
 彼女の父親は、僕の父さんと親しくなったのだ。彼女も父親のように火星人に対する差別意識を持っていないのかもしれない。だが、もしかしたら――ただ父親の顔を潰さないよう、それに倣ってふるまっているだけなのではないだろうか?
 彼女が昨日僕に話しかけてきたのも、父親にそうしろと言われたせいかもしれない――
「それと、もう一つ」
 ソニアの声で、僕は我に返った。
 いったい何を馬鹿げたことを考えていたのだろう。彼女がどう思っていようと、そんなことは関係ないじゃないか――そう自分に言い聞かせていると、ソニアは立てた人差し指の先を僕に向けた。
「次、男子は体育よ。早く着替えたほうがいいわ。もう遅いかもしれないけど」
 慌てて僕は辺りを見回した。教室内には女子しか残っていない。話しかけるタイミングを図っているうちに、次の授業のことをすっかり失念していたのだ。
 蒼くなった僕の耳に、始業のチャイムが鳴り響いたのは三秒後のことだった。



 体育の時間はいつもだるい。特に激しく体力を消耗するスポーツはそうだ。それなのに今日の授業はバスケットだというから、ますます憂鬱になってくる。
 別に僕は虚弱体質でも運動音痴でもない。優秀なアスリートでもないが、まあ一般中学生レベルだろう。そんな至って平凡な僕をだるくさせているのは、地球の環境だ。
 何しろ火星の重力は地球の三十八パーセントしかないため、地球では自分の体が恐ろしく重くなる。体重が一気に倍以上も膨れ上がったら、これくらい辛く感じるのだろう。
 とはいえ、ゲームの中で僕のすることなどほとんどない。本来の力を半分も発揮できない僕をチームメイトは愚鈍と決めつけているし、そもそも火星人などにパスを出す気さえ起こらないだろう。
 それでも、すぐに息が切れる現状ではかえってそのほうが喜ばしい。あとはコート内を適当に走っていればタイムアップになるだろう。そう思っていると、
「邪魔なとこに突っ立ってんじゃねえ!」
 思いっきり跳ね飛ばされ、僕は尻餅をついた。リバウンドを取った敵チームの一人が、ゴール下にいた僕に体当たりしてきたのだ。
 何という悪辣なファウルなのだろう。しかし、笛は鳴らない。ゲーム続行だ。
「今のはファウルじゃないのか!?」
 僕は抗議したが、審判は僕を見ようともしない。体育の授業のことなので、審判といっても同級生の一人だ。
「てめえが勝手に転んだんだろ」
 突き飛ばした奴が反対側のコートからそう叫んでよこした。敵はボールをもぎ取った後、速攻でゴールを決めたらしい。ここが地球でさえなければ、こいつを打ち負かすことだってできたかもしれないのに。怒りと悔しさで全身が熱くなってくる。
 チームメイトは何も言わない。初めから四人でゲームをしているのだ。一人の透明人間のために、いちいち抗議をする気も起きないのだろう。そうして4on5のまま、前半が終わった。

 休憩中、僕は体育館の隅に置いてあったものを探していた。すっかり体育の必需品となっている酸素の缶だ。地球の環境に慣れない他星出身の生徒がすぐにへばってもいいようにと、保健室に常備してあるのを拝借してきたのだ。
 その酸素が見当たらない。誰かが隠したのだろうが、あまりに子供染みたやり口に怒りよりも失望を覚える。
 探すのを諦めかけていたその時、遠くから何かが投げつけられた。よけたつもりだったが、それは肩に当たり、鈍い痛みを残して床に落ちた。
「恵んでもらってよかったな。持ってないんだろ、火星人」
 誰かがそう叫ぶのが聞こえた。僕は無言でそれを拾い上げる。
 探していた酸素の缶ではない。
 半透明の薄い膜が貼られた防護フィルター。口と鼻を覆ってウイルス感染を防ぐ、地球人の旅の友だ。
 昨日、僕が惑星史の授業中に持っていないと言ったことを覚えていた奴がいたのだ。だからといってわざわざ学校に持ってくる必要もないだろうに。律儀な奴だ。
「おまえがそれをつけろよ。そうすりゃ俺たちに変な病気も伝染らないからさ」
「触ったこともないんだろ、それ。誰かつけ方を教えてやれよ」
「ばーか、そいつに触って伝染ったら意味ねえだろ」
 次々と嘲笑に満ちた声が上がる。
 いつまでこんなことが続くのだろう。後半戦はまだ始まらないのか。早く授業が終わってほしい。今日は運悪く自習のため、くだらない行為を止める人間は誰もいないのだ。
「――伝染りたくなかったら、おまえらがつければいいだろ!」
 もはや我慢も限界だ。僕は手の中のフィルターを投げつけた。誰かに当てるつもりはなかったが、それは近くにあった馬鹿面に命中した。
「てめえ、ふざけやがって!」
 それは、さっき僕に体当たりしてきた奴だった。ざまあみろ。と言ってやりたかったが、そんな余裕はなかった。
 奴はフィルターを拾い上げて投げつけるような面倒なことはせず、身一つで殴りかかってきた。拳が僕の頬をかすめる。黙って殴られてやる義理はない。すかさず応戦する。
 さっきまでのゲーム以上に不毛な戦いだった。他の奴らが参戦しなかっただけましだが、もともとへばっていた体で、でかい図体を相手に勝てるはずもなかった。
 チャイムが鳴らなければ、意識を失っていたかもしれない。痣だらけのみすぼらしい姿で誰かに発見されなくてよかった。それがせめてもの救いだろう。



 その晩、僕は青痣のくっきり残ったひどい顔で会食に出席することになった。
「リオ君、いったいどうしたんだね?」
 訪れたシェリーさんは、僕に会うなり眉をひそめた。やはり一目でわかるほど腫れていたのだろう。僕は多くを語らず、曖昧に笑って受け流すことにした。痣だらけの顔でへらへら笑う僕は、かなり馬鹿みたいに見えたと思う。
 招待客は二人。シェリー家の家族構成も、我が家と同じ父一人子一人だという。
「ひどい顔」
 主賓が父さんに奥へ促された後、残った一人が真っ先にそう評した。
「せっかくのディナーくらい、もう少し格好よくきめてほしかったわ」
 溜息がちにそう言うソニアは、シンプルな薄藍色のワンピースという出で立ちだった。彼女の持つ冷めたような雰囲気には、地味な灰色の制服よりも似合っているように思う。もちろん、そんなことを面と向かって言ったりはしない。
「いつまでそこに立ってるの? 玄関で食べるつもり?」
 住人よりも先にソニアは中に入ってゆく。慌てて僕は賓客のエスコートに回った。とはいえ玄関からリビングまで、距離にしておよそ五メートルに過ぎないが。

 夕食は特に問題もなくスムーズに過ぎていった。会食というからどこかのレストランに予約でもするのかと思っていたが、意外にも父さんは我が家にシェリー親子を招いたのだった。
 なぜ意外かといえば、父さんはあまりホームパーティーを好むようなタイプではないし、そもそも今住んでいるのは賃貸マンションだからだ。それなりの広さはあるとはいえ、何もわざわざ家に呼ばなくてもいいだろうに。
 その父さんは、気の合う友人とワイングラスを傾けながら談笑に興じていた。
 皿が片づいた後は、ゆっくりお喋りというわけだ。食べ終えたデリバリーサービスのコース料理はそれなりにおいしかったが、無個性で統一された味がした。やはりどうせなら、そこそこ高級なレストランのできたてを味わいたかった。大人は美味い酒さえあれば、料理の味など二の次なのだろうか。
 恨めしげに会食の主催者を見やると、大人二人で何やら小難しいことをしきりに話していた。「衛生庁の報告によると……」「……当局は迅速な対応を……」「……連合規約に抵触するという見解が……」時々耳に入ってくる断片的な会話からでは、何を話しているのか理解できない。それでも何となく、酒の席で交わすには少々味気ない会話のように思える。
 ワイン片手に談笑、というわけにもいかないので、僕はシェリーさんの手みやげのケーキを片づけるのに専念した。あまり甘いものは好きではないが、せっかく持ってきてくれたものを食べないのも気分が悪い。そう思ってしまう僕は、きっと貧乏性なのだろう。人の好さそうなシェリーさんに気兼ねをしてしまうのだ。だが、思いのほか甘くなかったので何とか口に入れることができた。
「リオ、父さんたちはちょっと書斎で話すことがあるからな」
 グラスの中身を飲み干した父さんが、不意にそう告げた。僕の返事も待たず、父さんはシェリーさんを促していそいそと席を立つ。
 父さんはいつもこうだ。僕の意思など考慮に入れたことは一度だってない。火星にしばらく滞在するから一緒に来いと言われた時も、こんなふうに唐突で一方的だった。
 二人が出ていってしまった後は、当然のこと僕とソニアが残された。
 いったいどうすればいいのだろう。ソニアとは昨日初めて口をきいた程度の仲なのだ。父さんは友人と二人で話し込んだほうがいいだろうが、僕は困る。
 仕方なく無心でケーキを口に運んでいると、テーブルの向こうで頬杖をついていたソニアがおもむろに口を開いた。
「ずいぶん黙り込んでるのね。そんなに夢中になるほどおいしいの? そのケーキ」
 またしてもこの冷めたような、突き放した口ぶり。どうしてこんなひねくれた言い方しかできないのだろう。でもそれが妙に似合っているのだから不思議だ。
「うん、まあね、おいしいよ」
「そうね。私が焼いたから」
「ふうん。――うん?」
 ケーキを喉に詰まらせる、などという古典的な演出なしに僕は驚いた。このソニア・シェリーは、いわゆる「女の子らしいこと」をしそうには見えないのだ。だが、よく考えれば父親と二人きりの生活なのだから、見ためはともかく人より家庭的であってもおかしくはないだろう。
 そう自分に言い聞かせていると、ソニアからくすくすという忍び笑いが漏れた。
「なんてね。嘘よ。私、甘いもの苦手だもの。わざわざ自分からバニラの香りにむせるような真似なんてしないわよ」
「え? あ、そう、やっぱり」
「妙に納得しないでくれる? そこで」
 言い方はきついが、目は笑っている。そこで僕は改めて安堵した。ソニアの口調はまるで不機嫌そのものだが、これが彼女の地なのだろう。誤解されやすい損な性格ともいえるが、一度わかってしまえばもう大丈夫だ。
 この時、それまで全身を覆っていた緊張が、いつの間にかほぐれていることに僕は気づいた。ソニア・シェリーに対して身構える必要はないと、潜在意識のどこかで判断したのだろう。
「ねえ、あなたのお父さんてどんな仕事してるの?」
 不意に、ソニアはそう訊ねた。
「公務員だよ」
「公務員? 何の?」
「さあ……」
「さあって、自分の父親でしょう?」
 呆れたような顔をするソニアに、僕は曖昧に笑って明確な答えを避けた。
 父さんの職業について口外するのは、あまり好ましくない。それに、僕は今回の仕事の内容をいっさい聞かされていなかったし、大して興味もなかったせいで自分から訊ねることもなかった。だから、彼女の質問に答えることはできなかったのだ。
 すると、彼女は気を取り直したように再び口を開いた。
「それにしても、火星の公務員とうちのお父さんがどうして知り合ったのかしら」
「わからないよ。だいたい僕は、父さんがなぜ地球に来たのかさえ知らないんだから。いきなり転校するなんて言われた時はびっくりしたよ」
 ソニアはふうん、と相槌を打つとテーブルから身を乗り出して、ケーキを頬張る僕に耳打ちした。
「ねえ、二人が何話してるか気にならない?」
「二人って……父さんたちのこと?」
「他に誰がいるのよ」
 僕が聞き返すと、ソニアは呆れたような声を出した。まあ、確かにその通りだろうが。いったいソニアは何を言おうとしているのだろう?
「さっき、うちのお父さん『そろそろだな』って言ってたのよ。何か秘密の計画でも立ててるんじゃないかしら。それで、密談するためにこんな会食なんて開いたのかもしれないわね」
「……よく聞いてたね、そんなこと」
 何やら難しい顔で話しているとは思ったが、会話の中身は聞き流していた。ソニアは食事中、ずっと耳をそばだてていたのだろうか。案外、二人は小さな傍聴者を避けるために書斎へ移動したのかもしれない。
「だって、食べる以外にすることがないじゃない。あなたはずっと黙り込んでたし。それに、二人ともかなり真剣で、すごくぴりぴりしてたわよ。気づかなかったの?」
「……う、うん。でもさ、父さんたちが何を密談するっていうのさ。そんな、聞かれちゃ困るような話なんてあるのかな」
「だから、それをこれから聞きに行くのよ」
 きっぱり言い放つと、ソニアはすっくと立ち上がった。
「ほら、行くわよ」
「え、僕も?」
 僕は一度も行くだなんて言っていない。なのに、ソニアはまるでそれが当たり前のことのように僕の手を引っぱっていった。
 仕方なく、僕はソニアの盗み聞きにつき合うことにした。まあ、多少は父さんたちの会話が気になっていたことも事実だ。もし二人がソニアの言う「密談」をしているのだとしたら、僕が火星に転校するはめになった理由も知ることができるかもしれない。そう思ったのだ。
 だが。
「全然聞こえないわね」
 書斎の隣の寝室で、ソニアは不満気に呟いた。僕が傍にいなければ舌打ちの一つぐらいしていたかもしれない。
 僕たちは壁に耳をぴったりつけるという、昔ながらの方法で盗み聞きを試みていた。しかし思うように音を拾うことができない。
「確かこの部屋、防音処理がしてあるような気がしたけど……」
 気はするがうろ覚えだ。何しろ引っ越してきて間もないし、自分が使う部屋でもない。それに、どうせ何か月かすれば引き払ってしまうので、特に気に留めていなかったのだ。
「どうしてそれを早く言わないのよ」
 そんな恨みがましい目をされても困る。
「でも、どうせ言ったって聞かなかっただろう?」
 反論すると、ソニアは眉をひそめた。
「そんなことじゃないわよ。それってますますおかしいじゃない」
「何が」
「この部屋、リオのお父さんの寝室よね? あんまり使ってる感じがしないのは、ほとんど家に帰ってこないからじゃない? それにここ、ウィークリーマンションでしょう。家具も、いかにも造りつけって感じだものね。それって地球に長い間いるつもりがないからなんじゃないの?」
 僕は驚いて目を見はった。まさかこんなわずかな情報で、これだけのことを読み取れるなんて。洞察力の鋭さに僕は舌を巻く。
「でも、それなら防音処理までしてある立派な書斎なんて必要ないでしょう? だいたい、大事な話があるなら二人で会った時にすれば済むのに、わざわざ会食に招いて書斎に引きこもって話すなんて変よ」
 確かに変だ。ソニアに言われて僕もようやくそのことに気がついた。
 会食と言いつつ、料理もあまり気のきいたものではない。本当の目的は、この密室で会談することにあったのではないだろうか。
 だが、なぜ?
 どうして父さんは、カモフラージュしてまで話をしなければならないのだろう。
「これじゃ埒が明かないわ。ちょっとドアのほうに回ってみるわね」
 考え込んでいたソニアが、踵を返して寝室を出る。僕も遅れてそれに続いたが、廊下に彼女の姿はなかった。少しすると、キッチンから彼女がひょっこり顔を出した。
「原始的でしょ」
 ソニアはそう言って、手にした二つのガラスのコップを軽く上げてみせた。食器棚から持ってきたのだろう。よその家に来て、よくやるものだ。僕は思わず額を押さえた。
「何か……意外」
「何がよ」
 不満げに返しつつ、すでにソニアはコップをドアに貼りつけ、縁に耳を当てている。
 ソニアの第一印象は、一言でいえば「学級委員タイプ」だったのだ。いかにも真面目で、不正を許さない正義感の持ち主。それなのに、こうして進んで盗聴をしようというのだから驚くほかない。第一印象などまったく当てにならないものだ。
「聞こえる?」
「ううん、よくわからない……何かぼそぼそ言ってるみたいなんだけど……きゃっ」
 小さな悲鳴を上げて、ソニアは前のめりに倒れ込んだ。体を預けていたはずのドアが不意に開いたのだ。つまり、それは――
「何をしているんだ!?」
「あ、と、父さん……」
 ドアを開けたのは僕ではない。その部屋の持ち主、すなわち父さんだったのだ。二人の子供がコップを手にしてドアに貼りついていれば――何をしていたかは一目瞭然だろう。
「ソニア! はしたないことをしてるんじゃない!」
 書斎の奥で、シェリーさんが叫ぶ。確かにはしたないので、彼の言いたい気持ちもわからないではない。しかし、その時はシェリーさんに同調している場合ではなかった。
「リオ、馬鹿なことはやめてリビングに戻っていなさい」
 いつ怒鳴られるかとびくびくしていたのに、意外にもその程度で済んでしまった。
 拍子抜けしている僕の目の前で、ドアが力強く閉められた。これ以上ここにいると、今度こそ落雷が命中するだろう。雲行きはもう充分怪しい。
「行こうか、ソニア」
 転がったコップを拾い上げて、僕は座り込んでいたソニアを促した。珍しく怯えていたのかと思ったが、その目に不服げな色を見つけて、僕の見込み違いであることを覚った。

「まったく、大人なんて横暴よ! いつだって勝手なんだから!」
 ソニアは不満をぶつけながら、ケーキに勢いよくフォークを突き立てた。甘いものは苦手と言っていた通り、その後で口はつけない。単なる八つ当たりなのだろう。少しもったいない気もするが、僕に当たられても困るので口をつぐんでおく。
「ほんと、腹が立つったらないわ。……そうだ、ちょっとこれ飲んでみない?」
 ふと思いついたように、ソニアはおもむろにそれを手に取った。
「……それ、お酒だけど」
 一呼吸おいて、僕は口を開いた。彼女が引き寄せたのは、今日シェリーさんがケーキと一緒に手みやげとして持ってきたワインだったのだ。さっきまで父さんたちが酌み交わしていたが、書斎には酒を持ち込まなかったのだろう。
「これ、おいしいのよ。ほらグラス出して」
「え、おいしいって……ソニア、飲んだことあるの?」
「口にしたことのないものを、おいしいとは言わないわよ。早く、グラス」
 あっさりと答え、ソニアは僕を急かす。しかし僕たちはまだ十四歳で、発展途上の体にアルコールはあまりよくないんじゃあ……などと頭をめぐらせているうちに、ソニアは僕のグラスにワインを注いでしまった。
 グラスに鼻を近づけると、酸味を帯びた香りが酒の臭気に混じって漂ってくる。
「別に用心して嗅がなくても、毒なんて入ってないわよ」
 ソニアの目は早く飲んでしまえと訴えている。潔くない、意気地なしだと思われるのも癪なので、僕は一気にワインを飲み干した。
「あ、おいしい」
「でしょ?」
 芳醇な、という使い古された形容がぴったりだった。たとえ舌が肥えていなくても、これが上等だということぐらいわかる。
 それにしても、ソニアは見た目と中身がずいぶん食い違っている人だと思う。もちろんそれは決して悪いことではないのだが、あまりの意外さに僕は呆気に取られてばかりだ。
 しばらくの間、おいしい、いける、と言い合ってから、ソニアは手を休め、身を乗り出して訊いた。
「ねえ、リオ。前の学校ってどんなだった?」
 そういえば僕はあまり自分のことを話していなかった。というより、二人とも出会ってからまだ日が浅く、お互いのことをほとんど知らないのだ。
 しかし、僕はその時多くを語る必要を感じなかった。特に、自分の過去についてなど。
「別に。大して違わないよ。朝行って、授業を聞いて、夕方に帰ってくる。その繰り返しさ」
「でも、火星人と指を差されることはなかったでしょう?」
(――火星人が来たぞ!)
 そう嘲る同級生たちの顔を、僕は不意に思い出した。なんて幼稚な奴らなのだろう。勝ち気で聡明で時折気遣いを見せる、このソニア・シェリーとは大違いだ。
「そりゃあね。周りはみんな同じ火星人なんだから当然さ。地球とは違うよ」
 実のところ、前の学校でも僕はあまり馴染んでいるとは言いがたかった。はっきりと孤立しているわけではなかったが、周りに気の合う人間がいなかったことも事実だ。
 それでも、火星ではその存在すら疎まれるということはない。ただそれだけのことでも、火星のほうがはるかにましだ――そう思っていた。今日までずっと。
「火星人だとか地球人だとか、そういう言葉で差別しちゃって馬鹿みたい。そんなこと、その人自身とは何の関係もないじゃない。他の惑星にはあまり目くじら立てないくせに」
 ソニアは憤慨するが、それも仕方がないことなのだ。
 火星は地球からの距離が二番目に近い惑星で、自転周期が約二十四時間、また気候条件も適していたため、月の次に改良が行われた。しかし月よりはるかに遠く、航法も当時は開発途上で輸送に時間がかかり、計画は立ち遅れた。試行錯誤を繰り返すうちに、衛生面の注意が疎かになってしまったのだ。事実、疫病が発生したこともあった。
 その蔓延を食い止めるために設けられたのが検疫システム。結果としては差別を生んだが、検疫それ自体は重要なものだ。ただ、他の惑星は火星の轍を踏まないように努めたため、疫病が発生した火星がとりわけ注視されるのだ。その上、外惑星から地球に向かう船はいったん火星のステーションを通ってから検疫を行うせいで、ますます「火星は汚い」というイメージを植えつける。
 仕方がない――そう割り切ってはいるものの、やはりソニアの心遣いは嬉しかった。
「ソニアはみんなと違うんだね」
「当たり前でしょう。一緒にしないでよ」
 彼女は憮然として頬を膨らませた。この辺の仕草はずいぶん子供染みているが、それでも彼女の揺るぎない信念と洞察力は、大人のそれと変わらない。くだらないことでわめき立て、嘲笑う輩とは根っこのところから違うのだ。
「さ、もう一杯」
 ソニアは僕にグラスを出すよう促す。これ以上飲んだら全部空けてしまうのではないかとも思ったが、手と口は止まらない。それに父さんたちだって僕らに内緒でこそこそと話し込んでいるじゃないか。こっちも好き勝手にやって何が悪いんだ。――と気が大きくなっている辺り、すでに理性がきかなくなっていたのだと思う。
 僕は再びグラスを傾けた。きっと、何度もそうやって喉に流し込んだのだろう。
 だけど、僕はその後のことを覚えていない。――ひどく残念なことに。

>>next

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送