COMING

 僕は無限の闇に視線を泳がせていた。
 地球を離れ、宇宙空間に飛び立ってから二日が過ぎた。船の座標はもう地球よりも火星に近い。順調にいけば今日中には帰郷できるだろう。航行時間、およそ六十時間。その間にあくびの数は三桁に到達するはずだ。
 何しろ火星に戻るまで、まったくすることがない。船内には操縦士と父さんの部下二人がいるだけで、愉快な話し相手としては不適当だ。それに、ろくな荷物も持たないまま船に乗り込んだせいで、暇つぶしになりそうな本の一つもない。
 あの後、僕は父さんの部下にむりやり船に押し込められて宇宙へ出た。民間船ではなく、自家用船で。いくら航法が発達して宇宙の往来が増えたとはいえ、自家用船に乗れる人間は稀だ。それはわかっている。我が家が他人とは違っているということぐらい。
 だが――だからこそ何かが変だったのだ。
 地球に来た時には一般客と同じ民間船を利用し、僕を普通の中学に転入させ、民間人を装って賃貸マンション暮らしまでしていたはずの父さんが、なぜここに来て強引な手を打ち始めたのか。
 そのことに気づいていれば、この先起こる事態を察知できていたかもしれない。しかし、僕の頭は別れの言葉さえ告げられなかった人のことでいっぱいで、他のことを考える余裕さえなかったのだ。
 ソニアは今頃どうしているだろう。彼女はまさか僕がこんなところにいるとは知らないはずだ。彼女は僕の旅立ちをいつ聞くのだろう。そして何を思うのだろう。ほんの少しでも僕との別れを惜しんでくれるだろうか――……
 僕がやりきれない思いを抱いているというのに、船内のスクリーンにはつまらないバラエティ番組が映っていて、耳障りな笑い声がさらに苛立ちをつのらせた。
「……すみません、チャンネルを変えたいんですけど」
 とうとう我慢できず、僕は一つ前のシートの男に申し出た。この男には見覚えがないが、屈強な体つきから見るに、父さんの部下というより護衛だろう。そして、今の役目は僕の監視のはずだ。そうに決まっている。僕が何かやらかして、父さんの足を引っぱらないようにするための。
「ああ、この番組好きじゃなかった? うちの息子はこれが好きでねえ、毎週欠かさず見てるんだよ」
 男の台詞に僕はむっとした。なぜ人を馬鹿にしたような口調で話しかけてくるのだろう。いくら何でも僕はそこまで幼くない。それに、自分の息子が好きだからといって、僕まで好きでなければならない道理もないだろうが。
 スクリーンには、さえないコメディアンが無重力下で長期間の生活に挑戦する、という番組が流れていた。そこへ仕掛け人が現れて、室内をぷかぷか浮かぶ水泡で満たし、溺れそうになる挑戦者をスタジオのゲストたちが嘲笑う。嫌な番組だ。
 地球でくだらない嘲笑やホースの水を散々浴びせられたことを思い出し、僕は気分が悪くなった。
 リモコンをひったくり、適当にチャンネルを変えていって、最後はニュースに落ち着いた。別に好きで見ているわけでもないが、消してしまえば船内が静まり返ってしまう。会話をする気にもなれない以上、何か音を流していなければ気詰まりになるのだ。別に聞くつもりはない。ただ聞き流して――
「――昨日の緊急会見により、火星・地球両星で混乱が広まっている模様です」
 つい聞き流しそうになった。
 キャスターの淡々とした声が、耳からするりとすべり落ちそうになったのだ。
「……え?」
 緊急会見? 何のことだろう。
 昨日といえば、僕は船室で塞ぎ込んでいたせいで、ろくにニュースも見ていなかった。どうやらその間に何か大きなことがあったらしい。
 すると、まるで僕の疑問に答えるように、スクリーンにVTRが流れ始めた。
「――私には火星籍の友人がおります」
 ぱっと画面が切り替わり、映し出された人物は、唐突に話し始めた。恐らく前置きはカットされているのだろう。だが、驚くのはそんなことではない。そこに映った顔は――
「シェリーさん!?」
 僕は思わず声を上げていた。
 なぜ、ここで見知ったソニアの父親が現れたりするのだろう。よく見れば、肩書きには『EBC放送局代表取締役ダニエル・シェリー』とある。EBCといえば、地球では総合視聴率一位を独走する大手放送局だ。シェリーさんがそんなに偉い人だとは知らなかったが、その彼がここで何を会見するというのだろうか。
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「そう聞くと驚かれる方も多いでしょう。地球人と火星人が友誼を結ぶことなどありえない、と。それは我々地球人に火星人蔑視の風潮が根強く残っているためです。火星人は汚い、火星は不浄の地だ、そんな言葉をどれだけ聞いたことでしょう」
 火星籍の友人――それは紛れもなく僕の父さんのことだ。だが、そんな告白をわざわざ緊急会見まで開いて話すはずもない。シェリーさんが伝えたいのはもっと別のことに決まっている。
「このような嘆かわしい風潮はみな、宇宙検疫システムの産物でした。しかし、その裏には驚くべき事実が隠されていたのです」
(――真実だ)
 突如、その一語が僕の脳裏をよぎった。シェリーさんが書斎の端末に残していた言葉。彼は、それをここで明かすつもりなのだろうか?
 火星の研究を断念してもなお、資料を積み上げ、求め続けていた彼の出した答え。
 それは――
「私は情報局を運営する者の一人として、看過しえぬことを覚りました。皆さんもぜひ、私の友の話に耳を傾けてください。そうして知っていただきたい。我々は何を見てきたのか、何をしてきたのか、何を誤ってきたのかを――」
 僕は、もはや声を上げることさえ忘れた。再び映像が切り替わり、次にスクリーンに現れたのは、僕の父さんだったのだ。
「先にシェリー氏が述べられた通り、我々火星人への差別は検疫システムの生み出したものでした。火星に蔓延する未知のウイルスを地球に持ち込ませないようにと。そのため、地球は火星を統治下に置き、情報も移住も著しく制限しました。しかし、思い返してみてください。地球外惑星におけるウイルスは、地球のものが変質した姿だったはずです。すなわち、保菌者は地球人のほうなのです」
 ――地球人が、保菌者?
 いったい父さんは何を言い出す気なのだ?
「現在、他惑星におけるウイルスの種類は地球の数万分の一です。皮肉なことに、徹底された検疫がこのような結果を生み出したのです。地球側はこのことをひた隠しにしてきました。地球の権威が失墜することを恐れ、この情報が知られないようにするため、今日まで検疫を続けてきたのです。しかし、今や事実は明白です。他惑星の数万倍ものウイルスを保有する地球こそが、この宇宙で最も隔離されるべき存在なのです!」
 父さんは声高らかに宣言する。
「火星特使として私は伝えます。火星はもはや衛生面を理由に、地球の制限を受けるべき星ではないと。今後、地球は我々惑星連合の管理下に置かれます。これは惑星間条令に基づいた緊急措置であり、当面、地球の全宙港は封鎖されます」
 僕は愕然とするより呆然とした。
 これが――これこそが、今回の父さんの任務だったのだ。僕はここでようやく知った。今までの太陽系の価値観をひっくり返す、驚くべき真実を。
(――保菌者は地球人のほうなのです)
 汚いからと火星人を嘲り、罵り続けてきた奴らのほうが汚染されていたのだ。何と皮肉な話なのだろう。感慨や同情の念など起こらない。かえってせいせいするほどだ。
 ――だが、ソニアまで?
 ソニアもまた「保菌者」の一人だというのだろうか?
「……この宣言を受け、地球の各地で暴動が発生しました。現在、地球では各都市で戒厳令がしかれ、暴動の鎮圧に治安部隊が派遣されている模様です」
 VTRが途切れ、キャスターのきびきびした声が取って変わった。映像は地球から送られてきたらしい暴動の様子を伝えている。
「――ひどいもんだな」
 船内で一人の男がそう漏らした。この細い体つきはデスクワーク専門だろうが、ポケットには不似合いな膨らみがある。どうやら普段持ち慣れない銃のようだ。恐らく護身用なのだろうが、ということはつまり――
「……こうなることを予想してたの?」
 僕は声が冷えるのを感じた。
 スクリーンでは、狂乱の熱に浮かされた人間たちが放送局や役所を包囲し、罵倒し、投石し、暴れ回っている。誰かが押し潰され、引き倒され、泣きわめく。被害の程度はわからないが、きっと死傷者は出ているはずだ。
 あんな突然の宣言を下したら、少なからず混乱が生じるはずだ。今まで火星を見下してきた地球人が、唯々諾々と火星の支配を受け入れられるはずもない。不満が膨れ上がれば必ず暴発が起こる。
 それを承知しながら、あえてセンセーショナルな方法を選んだのだろうか?
 だとしたら――それは恐ろしい罪だ。
「ええ。ですから坊ちゃんに被害が及ばないよう、こうして地球を発ったんですよ。少々手間取ってしまいましたが――」
「違う……違う! そうじゃない、暴動が起きるのを止められなかったのかって言ってるんだよ!」
 僕は大声で叫んでいた。目をつぶっても暴動の映像が瞼の裏に焼きついて離れない。こいつらは、今のニュースを見ても何も感じないのか? 痛みすら覚えないのか?
「別に地球人同士が何をしたところで構わないさ」
 投げやりな声が、護衛の男から上がった。
「好きなだけ争えばいい。気が済むまでな」
 その言葉に、僕はかっとした。
 正気で言っているのか? 地球人など死んでも構わない存在だと。
 違う。絶対に違う。
 僕は――僕だけは違う!
「あっ、何を……!?」
 制止する声を振り切って、僕は痩身男のポケットに手を突っ込んだ。そしてむりやり奪い取った銃を、操縦士に突きつける。
「今すぐ地球に引き返せ」
 自分でも何をしているのか、すでにわからなくなっていた。
 ただ必死だった。
 今、戻らなければ取り返しのつかないことになる。その思いだけが僕を突き動かしていた。
「坊ちゃん、その銃を返しなさい!」
 あっさり奪われた銃の所有者が手を差し出す。だが、そう言われて素直に渡すわけにはいかない。
「嫌だ!」
 僕は叫び、男をにらみつけた。
 いきなり人質にされた操縦士は、戸惑った顔で沈黙を続けている。無関係な人間まで巻き込みたくはないが、いまさら後には引けない。
「地球に戻るんだ! そうしないと撃つ!」
「馬鹿なことはやめろ!」
 護衛の男が素早い動作で手を伸ばしてきた。もぎ取られたらおしまいだ。この大柄な男に力でかなうわけがない。どうしようかと身構えたその時、僕はとっさに銃口を別の位置に向けた。
「――僕は本気だ」
 その場の誰もが動きを止めた。
 僕は操縦士の頭ではなく、僕自身の喉元にぴたりと銃口を貼りつけたのだ。下手に奪い取ろうとして暴発するのを恐れ、男たちも手をこまねいている。
 顎の下で銃を握りしめる手が、かすかに震えた。
 銃身の固く冷たい感触が重みとともに伝わってくる。
 今まで、こんなふうに大胆な行動に出たことはなかった。同級生がくだらない意地悪を仕掛けてきても、先に手を出すようなことはなかった。なのに、今は自分から仕掛けている。
 不安のせいだ。
 あのニュースを聞いてから、恐ろしい予感が心を縛りつけている。それが今の僕を突拍子もない行動に駆り立てているのだ。
「あんたたちは、僕に死なれたら困るんだろう? だったらすぐ地球に戻って。僕に脅されて仕方なくやったんだって、父さんには言っておくから」
「しかし……」
 男はなおも言い淀む。だが、もう時間がない。迷いを振り払うように、僕は大声で叫んだ。
「――早く!」

 針路が変わる。
 船が航路を逆走する。
 最高速度で走らせながらも、僕の心は急いていた。
 ――ソニアに会わなければ。
 会って安否を確かめなければ。
 それまでは火星に戻るわけにはいかない。
 三年後に約束した再会の前に、もう一度。



 あの会見はどこで行われたものだったのだろう。僕はふと考えた。シェリーさんが語った後に映像が切り替わっていたから、二人は同じ場所にいなかったに違いない。そういえば父さんの映像の背景は船室だったような気もする。ということは、すでに宇宙空間に出てしまっていたのだろうか。
 ではシェリーさんはどこにいたか。宣言の二日前のソニアは、あの話について何も知らないようだった。娘を置き去りにして宇宙に出るとも考えがたいから、彼はまだ地球にとどまっていたのだろう。
 ――だとしたら。
 僕は狂乱した人々の映像を思い出す。役所や放送局を取り囲み、物を投げつけ、荒らし回っていた人の群れ。ああなることを、シェリーさんは予想していたのだろうか。
 暴徒たちは、凶報をもたらした人間を恨むだろう。逆恨みもいいところだが、すでに正気を失った人間が、怒りをぶつける対象を冷静に吟味するはずもない。
 そのことをシェリーさんはどれだけ自覚していたのだろうか。


 地球には三十二時間で到着した。全速力で船を進ませたため、往路よりもずいぶん航行時間を短縮できたようだ。
 船から降り立ち、大急ぎで街道に飛び出して、僕は思わず息を呑んだ。
 戒厳令をしかれた街は、死んだように静まり返っていた。人通りの絶えた路上には、暴徒たちに壊されたショーウインドウのガラスの破片や、叩きつぶされ乗り捨てられた車や、手当り次第に投げつけられた物などが散乱していた。
 通りすぎる店は、壊されたシャッターの奥に略奪された形跡が見られる。混乱に乗じて盗みに押し入られたのだろう。ウイルスの危険性を勘違いしたのか、特にドラッグストアの被害がひどかった。
 不安がさらに膨れ上がる。心に靄のような暗い陰を落とし、じわじわと広がってくる。
 どうか取り越し苦労でありますように。
 噛みしめた唇の奥でそう祈りながら、僕は荒んだ街を駆け続けた。



 ようやく目的地にたどり着いた時、夕暮れはとっくに遠ざかっていた。
 藍に染まった闇の中で、僕は別の場所に来たのではないかと一瞬戸惑った。数日前に訪れたばかりのシェリー邸は、凄まじく様変わりしていたのだ。
 綺麗に刈られていた植え込みは無惨なまでに踏みにじられ、花壇は靴跡と泥に埋もれている。壁を乗り越えて侵入してきたのだろう。花畑のようだった庭が、狂った嵐のせいで荒れ地と化している。シャッターには亀裂が走り、煉瓦模様の外壁にも投石の跡が生々しく残る。
 やはり、という思いに僕は歯噛みする。だが、問題は家ではない。中に住まう人のほうなのだ。
「ソニア!」
 インターホンが壊れていたため、僕は精一杯の大声で叫んだ。しかし返事はない。何度も繰り返すと、ようやく玄関のドアがわずかに開かれた。
「――何をしに来たの」
 明かりも点けず、暗い玄関でソニアは低く声を押し出した。ドアのわずかな隙間の向こう、暗闇の中で二つの瞳が異様な光を放つ。
 僕は思わず息を呑んだ。
「ソニアに……会いに来たんだ。ニュースを見て、それで……。あの、ソニアのお父さんは……?」
「死んだわ」
 ぞっとするほど冷えた声だった。僕は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
 ――こんな声を、僕は一度も聞いたことがない。
「殺されたのよ。放送の後で乗り込んできた暴徒たちにね」
「……どうして」
「どうして? 決まってるじゃない。あの会見のせいよ。あの話を聞いて、狂った奴らがお父さんを裏切者呼ばわりして殴り殺したのよ。お父さんは私を連れて火星に移住するつもりだったから……あの、火星人の口車に乗せられて!」
「ソニア……」
 あの火星人とは――それは僕の父さんのことなのか?
 それ以外に考えられない。だが、これまで火星人を差別しなかったはずのソニアがそんなことを口にするなんて――
「出ていってよ! 何もかも目茶苦茶にしたくせに! もう二度と現れないで!」
 彼女は憎悪にたぎった瞳を向けた。
 その時、僕は初めて「怖い」と感じた。
 目の前にいる人間は、僕の知っているソニア・シェリーではない。彼女と同じ姿形をした、別の誰か。そうとしか思えない。
 殺気立った目、他人を憎悪し拒絶する声。こんなものを、あの聡明なソニア・シェリーが持っているはずがない。
 その思いを裏づけるように、彼女は別離の言葉を投げつけた。
「――火星人のくせに!」

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