炎の幻 水の影

 

 そこは一面銀世界だった。
 ようやく荒れ狂っていた吹雪も鎮まり、彼らは勢い込んで出発した。
 長く足止めを食っていた分、欝憤を晴らそうという思いもあるのだろう。降り積もった新雪に足を取られながらも、彼らは慌てるように往路を急いだ。
 ――ただ一人を除いては。

(――いまさら、遅すぎる)
 炯彦あきひこは心のうちで呟いた。
(もう、戻れはしないのだ。いくら探したところであの方は――)

 列の最後尾についてゆく炯彦の思考を遮るように、前方から叫び声が上がった。
「炯彦殿、おりましたぞ!」



 炯彦らが行き着いたのは粗末な小屋だった。あちこちに空いた隙間からは、寒風とともに舞い散る粉雪が吹き込んでくる。雨風しのぐとさえ言えないようなひどい有様である。
 傷んだ床の上に、見覚えのある衣が折り重なるように放り出されていた。男ものと女もの。脱ぎ捨てたにしては、その中身となる人間は影も形もない。
 生まれたままの姿で、つい先刻までの猛吹雪の中へ出てゆけたはずがない。呆然と眼下の情景を見つめていた炯彦は、白い溜息を吐き出した。
(――ああ)
 彼は天を仰いだ。両眼を固く閉ざしたまま。
(あの方は行ってしまわれた。最も愛しいものを携えて)
 彼は息を吸い込み、やっとの思いでかすれるような低い声を押し出した。
「ただちに王に伝えよ。炎の御子は消えておしまいになった。水の姫とともに現世を捨てる道をお選びになったのだと」
 炯彦の命を受け、彼らは来た時以上の慌てぶりで帰途についた。半ばほどの者が白銀の丘の向こうに消えた頃、残りの者もまた引き返そうと小屋を後にし始めた。
 ただ一人、最後の一人だけが手にした衣を握りしめたまま立ち尽くしていた。

(――あなたは、馬鹿でした)

 二組の衣はすでに温もりを失って久しい。含んでいた水が凍りつき、炯彦の指先から体温を奪ってゆく。それでも彼はその冷たい衣を離すことはできなかった。

(なぜ、それほどに焦がれたのですか。己の灯火を消してまで、水の性を持つ娘に、なぜ――)

「あなたは馬鹿でした……」
 口に出して繰り返した。その呟きは勢いを取り戻した冷たい風に掻き消された。
 漂白された丘に、再び雪が静かに舞い降りていた。

 

 

 この世を現世うつしよという。
 かつて天と地は同一のものだった。しかし混沌とした世に光が差した時、天地は初めて分かたれた。天は意思を持ちて形体かたちを持たず、地は意思なく土塊の肉体からだを持った。
 そして天が叢雲に息吹を注いで海を創り、蒼海と大地とが交わって生命が生まれた。初めに緑が、そして虫が、魚が、鳥が、さまざまな動物が生まれ、世は多くの生命に満たされた。
 最後に現れたのは人間だった。
 彼らは脆弱で、だが同時に狡猾だった。そして間もなく彼らは、世に溢れる先住の生命たちを凌ぎ、しかし満たされることなく互いに争い合うようになった。血が流れ、多くの者が大地に還っていった。
 そこで天は彼らをまとめ、秩序なき現世を治めるべく、四つなる氏族を地に遣わした。
 それすなわち水火風地。それぞれのさがを司る王は地上に宮を造り、あてがわれた国を統べることとなった。水は北、火は南、風は西、地は東を。
 彼らは多くの子を設けた。そして長き時を経るうちに、彼らの国の民はすべて彼ら自身の血を継ぐ子孫となった。だが、次第にその血も薄れ、それぞれの本質をわずかに受けるのみであった。

 四氏族による分割統治は長きに渡り、今もなお続いている。血の結びつき、人々の体内に受ける性は、彼らの支配を隅々まで行き渡らせ、ますます堅固にさせていった。
 人は皆、限られた年月を過ごすと大地に還ったが、天より遣わされた王、そしてその血を色濃く受け継ぐ氏族は変わらぬ姿で世にとどまり続けた。百年ももとせ千年ちとせを過ごすとも。
 だが、天よりそれほどの恵みを受けながらも、彼らもまた死から逃れることは叶わなかった。人の身よりは死から遙か遠くに存在し、老いることもなかったが、刃に貫かれてなお生き存えるような不死の肉体は天より与えられてはいなかったのである。
 彼らは天に昇る時、地に何一つ残すことはない。天より貸し与えられた仮の姿は、跡形もなく消え失せてしまう。
 それはまるで霧のごとく、温もりに消えゆく淡雪のごとく……。

 

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