炎の幻 水の影

 

「軍はまだ戻らぬのか!?」
 集まり、顔を合わせていた武将の一人が、苛立った声を上げた。
「そう急くな。あの方の率いる軍が敗れるはずもなかろう」
 とは言うものの、なだめる者の声にもいささか張りがない。それもそのはず、同じような応酬がここのところ日課となっていたのである。
 ここは火の宮の一角。南から吹きつける熱風が籠もらぬよう、天井は高くゆったりとした、風通しのよい造りである。だが、今は室内の者たちから発せられる熱気で、温度は上昇する一方だった。
 その人々とは精鋭部隊が全て出払い、留守居となったいわば「あぶれ組」の武将たちである。彼らは日に日に募る苛立ちを少しでも紛らわそうとでもいうのか、必ずこの会議の間に顔を出していた。
「あれほど凱歌を上げて帰ると豪語しておきながら、すでに一年も経とうとしているのだぞ。常勝不敗の軍神とも称される御方にしては、あまりに不手際ではないか」
篝良かがら殿、それは不敬であろう!」
 たまらず、それまで沈黙を保ってきた炯彦は声を高めた。
「水の王とて我らが王と同じ、天より遣わされた主なのだ。聞けば、水が国は王自らが指揮をとっているというではないか。炎の御子も攻めあぐんだとて、それを不手際と罵るは不当であろう。水の王を軽んじるは、同じ御位にあられる自国の王をも嘲ることになるのだぞ!」
 普段は沈着な炯彦にしては珍しく熱弁をふるったのだが、篝良はそれを鼻先でせせら笑った。
「炯彦殿は御子の側近でありながら、そこまで水が国に肩入れするのか。人を不敬と罵る己こそ不忠であろうに」
 その言い草に、炯彦の忍耐はもはや底をついた。
「愚弄するか、貴様!」
「ほう、面白い。やる気か」
 両者の間に不可視の火花が散った。もともと気性の荒いことで名高い火の氏族。その中でも特に勇猛果敢な士を集めた武将の間に諍いは絶えることがない。
 そして今、ここで顔を突き合わせているのは討伐部隊から漏れ、戦闘意欲をくすぶらせている戦好きばかりである。二人が険悪になったと見るや、彼らはそれに乗じて連日の欲求不満を解消させようと試みた。要するに、他人の喧嘩に交じろうというわけである。
 今にも戦端が開かれようとしていたその時、よく通る声が室内に響き渡った。
「やめい、その方ら!」
 彼らが、はっとして戸口のほうを振り返ると、そこには年配の、一目で武人と知れる者が立っていた。四王時代の初めから仕えているという、古参の将の一人である。
 ばつの悪そうな表情を浮かべる部下たちには目もくれず、彼は言葉を続けた。
「このようなところで啀み合っている場合ではない。御子がお戻りになられるぞ。迎えの支度を調えよ」
 室内は一瞬にして騒然となった。御子が戻る、ただその一言を彼らはずっと心待ちにしていたのである。
「御子は戦に勝たれたのですか」
 踵を返しかけた譜代の重臣を、炯彦は呼び止めた。すると彼はにやりと笑って答えを返した。
「おまえさんは御子の勝利を信じていたのではなかったのかね?」



 水火の戦端が開かれて、もはや飽きるほどの時が流れていた。
 四氏族による統治も、近頃まではわりとうまく機能していたのである。その意味では天の配剤も正しかったと言わざるをえないであろう。だが、それが立ちゆかなくなったのは明らかに計算違いであった。
 水の国は北を治める。というのも、北という方角は本来、水の性質を持つためである。
 しかし、あまり北上しては水の支配は及ばない。凍ってしまうのだ。
 それでも水の王、真淵まふちは並々ならぬ手腕を発揮して国を富ませることに成功した。民は飢えを知らず、そして人が増えた。すると次に訪れるのが土地の不足である。
 水の民は耕し、暮らすための土地を得ようと南下を始めた。国を挙げての大移動ではない。極めて自発的な行動であるために、規制もまた難しかった。否、国の生産力が低下するからと黙って奨励していた節もある。
 一方、黙っていられないのは押し掛けられた国である。
 南に位置するのは火の国。火の国もまた、その恵まれた環境ゆえに豊饒を手にしていた。だが、かといって他所者に分け与えてやれるような土地はない。火の王、明火(あけひ)はそう言って移民を追い返そうとした。
 このあたり、あまりに非情すぎるともとれるが、一度でも特例を認めてしまえばそれから後は際限なく人が流れ込むだろう。それでは国を支えることができなくなる。そう考えての判断ではあったが、土地を持たぬ水の民にしてみればたまったものではない。他国の法を犯してまで侵入しようと試みた。
 そうして、戦いは国境付近でごく自然に幕を開けた。誰もが想像していたことではあったが、もはや避けようがなかった。
 また、水の王もこれを看過するわけにはいかない。要は面子の問題である。自国の民を害されて安穏としていられるような王など、民が認めようはずもないのだから。
 戦は早期に決着をみると誰もが予想していた。どちらも自国の圧勝という姿を思い描いていたのである。だが、戦は長びいた。開戦の年に生まれた赤子が槍を持ち、矢を携えて戦場に向かうようになるほどの歳月を必要としたのだ。
 そして今、戦は終わった。

 ――終わったと、誰もが信じた。



「陽炎さま、よくぞご無事で」
 炯彦は、帰ったばかりの御子のもとへ転がり出るように駆け寄った。
 貴人にしては簡素な衣袴姿の御子は、私室で搨に足を投げ出した、実にくつろいだ姿勢で炯彦を迎えた。
「炯彦か、おぬしも大過なかったか」
「御子の帰還をまだかまだかと心待ちにしておりますれば。心労のあまり、ものも喉を通らぬほどでございました」
「ほう。やけに艶も血色もよいと思ったら、節食に成功していたというわけなのだな」
 そう言って、御子は破顔した。
「まったく、陽炎さまもお人が悪い」
 つられて炯彦も笑った。
 炎の御子、その名を陽炎という。この度の遠征において全軍を率いていたのはこの御子である。
 本来ならば水の王、真淵が自ら指揮する軍を迎え撃つのは火の王、明火の役目である。だが、陽炎は父王に全軍の指揮権を己に委ねるよう願い出た。そもそも火の民は気性が荒い。王もご多分に漏れずその気質を天より受けていた。そのため再三に渡って息子の頼みをつっぱねたのだが、結局は根負けし、全権を委ねると約すこととなった。
 これまでの数々の武勲によって不敗神話を築き上げた御子である。その名声は、民をして彼を軍神と崇めさせるほどのものであった。戦場に赴けば退くことを知らず、撃ち振るう刃は敵影を残らず薙ぎ倒す。その苛烈さゆえに、彼は火よりも熱い炎の御子と呼ばれるのである。

「それにしても、水の軍はなかなかしぶとかった。こちらが退くと見せかけてもなお執拗に追撃してきてな。俺にしてはえらく手間どってしまった」
 いかに息子の頼みでも、父王はそう簡単に全権を与えたわけではない。頼りにできる老練の武将たちが長きに渡り奮闘しても打ち破ることができぬと認めざるをえなくなり、ようやく陽炎の出番が回ってきたという次第であった。
「そういえば、いかにして陽炎さまは戦を終結に導かれたのですか。聞けば、水の軍はいまだ国境付近から全て撤退してはいないとのことですが」
「ああ、まだ言ってなかったか。実はな、戦は完全に終結したというわけではないのだ」
「何ですと!?」
 炯彦は目を丸くした。だが、肝心の御子のほうはといえば、そんな炯彦の様子を見て喜んでいるかのように、人の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、どのみち攻撃はしてこないはずだ。そのための人質なのだからな」
「……人質?」
「捕虜、というべきかな。俺がわざわざ宮中に舞い戻ってきたのは、それを父上に引き渡すためだったのだ」
 炯彦は驚いたが、その驚愕は先刻ほどではなかった。かえって、凱旋してきたにしては歓呼の声が聞こえなかった理由が納得できたほどである。
 実際、陽炎はあらかじめ帰還を知らせることもせず、わずかな供を連れて字義通り「ひょっこりと」戻ってきたのだった。
 戦場は遠い辺境の地。常人ならば移動に多くの日数を必要とする。だが、彼ら火の氏族は燃え盛る炎に身を投じることで、目的の地に瞬時に到達することができる。そして少数ならば自身の気で他の者をも包み、連れてくることも可能である。軍を率いて戦に征く時には役に立たないが、このように極秘で移動――もしくは単騎離脱する場合には、なかなか便利である。
「しかし、真淵王の戦意を挫かせるほどの価値ある人質とは、一体どのような者なのですか」
 炯彦は眉宇をひそめ、喜色満面の御子に訊ねた。
「聞きたいか」
 このような時、陽炎の人を食ったような態度にいちいち心を乱してはならない。長い間、炎の御子の第一の側近を務める彼は、その旨を充分心得ていた。
 炯彦が頷くと、陽炎は嬉しげに答えを明かした。
「女だ。名を水影みかげという」
 一瞬の間をおいて、炯彦は上ずった声で叫んだ。
「そ、それは、水の姫君ではありませんか!!」
「そうとも言うな」
 狼狽する炯彦とは対照的に、陽炎は飄然としている。
 水の姫、またの名を水影姫。水の王、真淵の愛娘であり、その美しさは四氏族のうちでも随一と称えられる。確かに、水影姫を人質として捕えれば水の軍は手も足も出ないだろう。それほどに真淵王は水影姫を溺愛していた。
「しかし……水の姫君ともあろう御方をいかようにして手中に収めたのでございますか」
 これは炯彦も訝しむところであった。水火の戦に姫君が従軍していたということも信じがたいが、たとえ陣中にあったとしても真淵王が愛する娘を戦陣に立たせるようなことが果たしてあるだろうか。恐らく敵の目に入らぬよう陣幕の奥深く、隠すようにとどめおくに違いないのだが。
「……鋭いな。確かに、水の姫を手に入れるなど正攻法を用いてはありえぬことだ。だが、今回の戦ばかりはそうも言っていられなかったのでな」
 陽炎は、非情に言いにくそうな素振りを見せた。一つ息をつき、重い口を押し開く。
「実は風の者が一枚噛んでいる」
「風が……!?」
 炯彦が驚いたのはこれで幾度目のことだろうか。炎の御子が帰還してからというもの、炯彦はこの奔放な主人に翻弄させられてばかりだった。
「水火の戦に風地は手出し無用、それが古よりの慣わしではなかったのですか!? ここでその約定を違えれば、水もまた地の者に助力を乞い、四つ国全てを巻き込む大戦乱ともなりかねないのですぞ!」
「わかっている!」
 炯彦の非難に、陽炎は苛立った声を上げた。
 四氏族を遣わした時、天は地に争乱が起こることもまた予期していた。そこで被害を少しでも食い止めるため、天は隣り合う二国間で争いが生じた時、他の二国はいかなる干渉もしてはならぬと固く禁じた。
 その因習は長く遵守され、今に至る。しかし、ここで天に背けば地上にいかなる災禍を招くのか。それを測るべき前例はどこにも存在しないのだ。

「炎の御子を責め立てるのは筋違いかと存じますが」

 不意に、室内に彼らのものとは異なる声が割り込んだ。炯彦がさっと視線を移動させると、戸口に一人の男が立っていた。
「お寛ぎのところを失礼いたします。幾度もお目通り願ったのですが、何ぶん応答がなかったもので」
 炯彦は、この突然の訪問者の顔を知らなかった。だが、新入りにしてはやたら超然とした態度を崩さぬこの男に、好意を抱かねばならぬ道理もない。
 炯彦の不審も露な視線に気づいたのか、陽炎が両者の間に立った。
「炯彦にはまだ紹介していなかったな。こちらははやて殿。先の戦に力を貸していただいた御仁だ。――颯殿、こいつが炯彦です」
「お話はかねがね伺っておりますよ。炎の御子の一の側近にして、火の国随一の名将であられるとか」
 颯の、自分に対する過大な評価に炯彦は首を振った。
「買いかぶらないでください。吾が国一の将は、御子をおいてはいないのですから」
 一呼吸おいて、炯彦は再び口を開く。
「ところで、御子を責め立てるのは筋違いとはどういうことでしょう。お聞かせ願えますかな」
 すると颯はもったいぶった口振りで話し始めた。
「私は風に属する者でございます。とはいえ、一族の中でも末端に名を連ねる程度の身。また、その性ゆえに風の者は火の者と心魅かれあい、意気投合するというのも事実です。私はこの度の戦の勝利を、水よりは火の側に収めていただきたかったのです。それも能う限り早く。それゆえ、蔭より炎の御子を手助けできたらと思いまして。それで――」
「それで、水の姫君を攫ったというわけなのですね」
 颯の言葉を遮って、炯彦はそう結論づけた。そこに含まれる棘に気づいたのか、颯は多少憮然とした表情を見せる。
「さよう。ただし、これは私一人の意志であり、風の氏族は何の関与もしていないということをお忘れなく」
「心得ておきましょう」
 炯彦の態度は冷ややかというよりは、火の氏族ゆえの燃え上がる炎の熱さに類する。彼の「異質な」者に対する熱気と烈気にあてられて、颯はいくぶん萎縮気味だった。
 いずれにせよ、炯彦の言葉で一応の初顔合わせの会話が終結したことを見て取ると、主人たる陽炎がおもむろに口を挟んだ。
「まあ颯殿、あまりお気になさるな。こいつは昔から愛想というものをどこかに置き忘れてきたような奴でな。そのうえ生真面目な頑固者ときた日には、もはや私も手の施しようがないのだ」
 陽炎は闊達に笑った。その笑い声で室内に漂う重い空気は一掃されたが、炯彦の心は晴れないままだった。
「さて、ここでいつまでも長話をしている場合ではないな。行くぞ、炯彦」
「どちらへ行かれるのですか、陽炎さま」
 突然身を翻し、颯爽と歩き始めた主人を炯彦は呼び止めた。陽炎は歩みを止めぬまま振り返り、口角をわずかに上げて笑んだ。
「我らが客人、水影姫のもとだ。絶世の美女の御顔を拝まない手はないだろう?」
 なるほど、と炯彦は溜息がちに納得した。先ほどから妙にそわそわと落ち着きがなかったのは、そういう心づもりであったのか。
 そう思うと、陽炎らしすぎる態度に自然と炯彦の表情は緩んだ。
「それでは、私はここで」
 含みのある笑みを浮かべ、颯は足早に退室していった。その後ろ姿を目で追いながら、炯彦は不穏な空気を感じ取っていた。
 それは根拠あってのことではない。だが、彼の中で何かが警告を発し続けていた。
 風の者を信用してはならぬ、と。
 気ままに炎を煽り立て、水を波立たせる風を――

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