ミドリの錆

 土曜日の午前はいつも薔薇色だ。
 少々大げさな表現かもしれないが、碧にとってはまさにそうだった。土曜の午前十時には家庭教師の青木が来る。つまらない平日の五日間を我慢したご褒美のようだと、十一時の休憩に紅茶をすすりながら碧は思った。
「碧ちゃんはあれの噂を聞いたことある?」
 青木はカップを持つ手をふと止めて訊いた。漂う湯気がコーヒーの香りを運んでくる。濃いブラックは、高校生になっても碧には飲めない。酒や煙草とはまた違う大人の香りだ、と碧は思う。
「あれって、何のですか?」
「ミドリの噂」
「……え?」
 一瞬、自分のことかと思ってどきりとする。その表情を読んで、青木が慌てて訂正した。
「あ、碧ちゃんのことじゃないよ。ミドリっていうのは、何て言うのかな、学校の怪談とか七不思議みたいなやつなんだ。結構古くからある言い伝えらしいんだけど」
「いえ、聞いたことはありません。有名なんですか?」
「校外まで広まってはいないと思うけどね。僕は北高のOBだから、何度か耳にしたことがあるんだ」
 青木は地元の国立大学の二年生で、碧の通う北高の卒業生だった。そのため、母校の後輩にあたる碧に何かと情報を与えてくれる。
「見える人にしか見えなくて、ある時忽然と現れる。学校に長年住み着いていて、昔からよく目撃されているらしい」
「座敷童みたいなものですか?」
「それはちょっと違うんじゃないかな。座敷童みたいに幸福をもたらすわけでもないし」
「じゃあ……見ると不幸になったりするんですか?」
 碧の不安げな顔に、青木は小さく苦笑する。
「さあ、どうだろう。僕は詳しく知ってるわけじゃないけどね。ただ、ミドリに会うと錆びるって話は聞いた」
「錆びる?」
 どういうことだろう。意味を図りかねて、碧は困惑する。
「何かの比喩だろうね。心が錆びるんだとも言ってたから。多分――だからミドリなんだろうな」
「何が……ですか?」
「緑は錆の色だ。銅の錆を緑青、もしくは石緑と言うだろう? まあ、もともとは銅特有の色だから錆も緑になるんだけどね。それはともかく、そいつの正体が何かはわからないけど、錆びるものだからミドリと名づけられたのかもしれないな」
 青木は遠くを見やるような目をして呟いた。ちょっとした噂話でさえ、この調子。彼はいつも、何に対しても深く考えようとする。大学では自然哲学を専攻しているというが、彼にはよく似合っていると碧は思う。
「ああ、ごめん。ずいぶん脱線しちゃったね。こんなつまらない話で」
「そんなことありません。青木先生は物知りだから、いろいろな話が聞けて面白いです」
「いやあ、慰めてもらえると嬉しいよ」
「そんなこと、ないですってば」
 碧が剥きになって否定すると、青木は苦笑しながら残りのコーヒーを飲み干して、表情を改めた。
「じゃあ、そろそろ勉強を再開しようか。次は英語だったね」
 それが、後半の授業開始の合図だった。真剣になった青木の横顔を見つめながら、碧は小さく息をつく。
 今日の雑談はこれでおしまい。青木は勉強中に無駄口を挟むことは滅多にない。たった十分間の休憩は、あまりに急ぎ足で通り過ぎてゆく。机の上のデジタル時計は十一時十一分を指している。土曜日の、このゾロ目の瞬間が永遠に来なければいいのにと碧は思う。四つの年齢差が埋められないように、それが決して叶わない願いだと知りながら。


 森崎碧が北高に入学してから三か月が経過した。その間、自分がどのように呼吸し、活動していたのか碧には実感がない。唯一、充実しているのは土曜の午前の二時間だけだ。
 森崎家は今年の三月に隣の県から引っ越してきた。そのため碧の通う北高には同じ中学の出身者がいない。見知った人間が一人もいないというのは、結構こたえるものだと碧は最近になってようやく気づいた。入学当初はみなよそよそしい感じがしていたが、七月ともなれば自ずとクラスに親しい人間ができる。碧は、その自然な流れに乗り損ねてしまった。
 もともと群れることに興味などなかったし、他人に気を遣うぐらいなら一人でいたほうがましだと考えていたせいもある。そして、そんな態度を特に女子は敏感に察知するものだ。
 だから碧はクラスで浮いている。浮いている自分を自覚しているが、いまさらどうしようもなかった。
 ショートホームルームを終えて、碧は教室を出た。他のクラスメートが和気藹々と過ごす中、一人ぽつんと教室の片隅で昼食にする気にはなれないからだ。
 幸い、碧はひっそりとして誰も来ない場所をすでに見つけていた。旧体育館と渡り廊下の間にある、小さな裏庭のようなところだ。
 碧は軒下の隅の埃を払い、腰を下ろした。
 濃い日差しから逃れれば、木陰で弁当を広げるのもそれなりに快適だった。一週間で最も憂鬱な月曜日でも、環境がそれなりに心を慰めてくれる。
 この裏庭は手入れが行き届いていないせいか、草木が繁茂していた。狭い空間を緑が埋める。目にも眩しい、瑞々しい色彩。
(――緑は錆の色だ)
 不意に、青木の声がよぎった。
 彼がそう言った時、碧はびくりと震えた。自分のことを言われたのかと思ったのだ。
 緑。みどり。碧。
 緑が錆なら自分も錆だ。そして、この裏庭を埋め尽くす緑もすべて錆びている。空虚と退屈に酸化されて、自分は日一日と錆びてゆくのだ。
 まるで自分自身を酸化させるような深い溜息をついた時、碧の視界にそれは侵入した。
「ど、どこから来たの?」
 碧は思わずどもってしまった。目の前に突如として現れたのは、六つか七つくらいの小さな男の子だった。いったいどこから入り込んできたのだろうといぶかしんでいると、子供は小さな口をゆっくり開いた。
「きみはみどりだね」
 たどたどしい発音で、抑揚のない喋り方のため、一瞬何を言われたのかわからなかった。そして、理解してからさらに驚く。
「……どうしてわかったの?」
 碧は驚いて、つい胸ポケットの位置を目で探ってしまう。しかし中学を卒業し、私服の高校に入学した碧の胸に、ネームプレートなど存在しない。
 不審も露に凝視する碧の目をのぞき込んで、少年は告げる。さも嬉しそうに。
「わかるよ。きみはさびているから」
「錆びる……?」
「そう。くすんで、さびて、みどりになる」
 雲間が切れる。七月の太陽が照りつける中、碧は背中を冷たいものがつたうのを感じた。
「あなたは……誰?」
 息を呑み、そう訊ねる。すると、少年はくすりと笑った。
「みどり」
 息ができない。眩暈がする。
 裏庭の木々が根こそぎ倒れて渦を巻く。そんなはずはない。これは自分の視界がぐるぐると回っているのだ。
 錆びる。錆びつく。錆びて、
「――森崎、大丈夫か!?」
 力強い声に揺り動かされ、碧は瞼を持ち上げた。目の前には幼児ではなく、同年代の少年の顔があった。
「日射病か? この暑いのに、外で飯なんか食ってたら倒れるぞ。特にこんな湿気のこもったような場所じゃ、不快指数も高いだろうしな。おい、聞いてるのか?」
 その顔には見覚えがある。どこで会っただろう。半ば朦朧とする頭では判別がつかない。
「ええと……あなたは……?」
「もしかしてそれは名前を訊いてるのか?」
 少年の憮然とした声に、碧はおずおずと頷く。すると彼はあからさまに顔をしかめた。
「あのなあ、失礼にもほどがあるぞ。同じクラスの人間の顔と名前ぐらい、七月にもなったらさすがに覚えないか?」
「……ごめんなさい」
 確かにひどく失礼だと碧は恥じ入った。実際、クラスの半分も名前を覚えていない。彼は碧の顔も名前も知っているというのに。
「ま、別にいいけどな。それより早く食ったほうがいいぞ。そろそろ三限始まるからな」
 そう言い置いて、彼はくるりと背を向けた。これ以上、関わる気はないというように。
 ようやく頭がはっきりしてきた碧は、その背に向かって慌てて呼びかけた。
「あ、待って! さっき、ここに小さな男の子がいたんだけど、見なかった?」
 ――みどり。
 あの子供。碧が意識を取り戻した時には消えていた。恐らく、そう時間は経っていないはずなのに。
「いや、俺は見てない。どっかに行ったんじゃないか?」
 そう言って、彼は今度こそ立ち去った。
 一人になった後、碧は恐る恐る辺りを見回した。この裏庭には一方向からしか入れない。彼がやってきた方向から。そして体育館と倉庫とフェンスに挟まれたこの場所に、人が隠れられるような隙間はどこにもない。
(――見える人にしか見えなくて、ある時忽然と現れる)
 忽然と目の前に現れた、あれ。
 あれが――ミドリだ。

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