影法師




 山端に差しかかる夕日が、空を赤く染め上げる。たなびく雲は緋衣のように山を覆う。鮮やかに燃える紅日に向かって、一人の男が歩いていた。
 赤い光に映える、墨染めの袈裟衣。その手には鐶をかけた錫杖。有髪ではあるが、明らかに僧形だった。
 もしその法師が僧衣でなければ、夕日に向かって歩く彼を誰かが呼び止めたかもしれない。黄昏時、長く伸びた影を背にするのは危険だと、今や知らぬ者はないのだから。だが、実際にはすれ違う者もなく、たとえいたところで誰も堂々と歩む法師を咎めようとはしなかっただろう。
 その法師の足取りが、ぴたりと止まった。――正確には止められたのだ。
 彼の足下に伸びる、長身の影。その頭頂部あたりが、何者かの足によって地面に縫いつけられていた。

「影に背を向けて歩くとは、不用心にも程があるぞ」
 その声は幾分幼い印象を与えた。法師がわずかに首を動かして顧みると、彼の胸ほどの背丈の少年が、頭の後ろで手を組み、小馬鹿にしたような顔で彼を見上げていた。
「黄昏に影を捕えられた者は、鬼に食われると知らなかったのか?」
 にい、と笑う少年の口から白い歯がこぼれた。ただの歯ではない。鋭く尖った獣のようなそれは、牙と呼ぶべきものだった。
 あどけない顔に不釣り合いな牙が、夕日を浴びて血の色に染まる。彼がそのまま獲物に食らいつけば、ただちに本物の血で染まるはずだった。――だが。
 法師はなめらかな動作で振り返り、小鬼に正面から向き合った。

「ば……馬鹿な……っ」
 小鬼は一瞬たじろいだ。鬼に影を捕まえられた者は、決して動くことができないはずなのだ。しかし、それはただの人間の場合に限る。
 法師が錫杖を持たない右手をかざす。
 ぽう、と空中に炎が浮かんだ。
 錫杖を鳴らすと、さらに二つ、三つと炎が生まれる。
 その瞬間、小鬼は体の自由を奪われた。
「――く……っ」
 悶える小鬼にとどめを刺すように、法師は首から数珠を外し、鬼に向かって放り投げた。
 少年姿の小鬼は、牙を剥いた口から絶叫を放った。法力を込めた数珠は、悪鬼にとって身を焼かれるほどの苦痛を与えると言われる。
 法師は苦悶する小鬼を冷然と見下ろしながら、言い捨てた。
「何も、影をなすのは夕日ばかりではない。光がなければ自ら作るまで」
 法師の足は、小鬼の影を踏みつけていた。鬼の背後に浮かぶ火が、夕日とは逆の方向に影を生み出したのだ。
 そうして法師は一つ息をつき、木陰に視線をめぐらした。

「もう危険はない。この通り捕えたから出てきてもよいぞ」
 すると、その言葉に応じて、木陰から二人の男がそろそろと這い出てきた。
「いやはや、さすがは法師様ですな。その法力の素晴らしさ、恐れ入りました」
「まったく、実に見事なお手並みでした」
 村の男たちは、今にも拍手喝采を浴びせかねないほどの喜色を浮かべていた。実際、いくら誉め上げても惜しいことはないだろう。たまたま村を通りがかっただけの法師に鬼退治を頼んだところで、こうもたやすくやってのけるとは思わなかったに違いない。
 しかし法師は大げさな賛辞にも顔色一つ変えず、鷹揚に答える。
「なに、当然のことをしたまでだ。悪鬼が跋扈するのを見過ごすわけにはゆかぬからな。礼を言われるほどのことではない」
 ということは謝礼をはずむ必要はないな、と一人の男の顔に打算がよぎった。法師はそうした思惑に気づいていたが、別に構わなかった。そのようなことは、彼にとって少しも問題ではなかったのだ。

「ところで、本当にこの鬼に近づいてもよろしいのですか? 何やらわしらを睨みつけておるようですが……」
 もう一人の男が、おずおずと法師に尋ねた。彼らの足下には、法師によって捕われた小鬼がうずくまっている。絡みつく数珠のためか、苦痛に顔を歪めたままだ。しかし、もとは人を食らう獰猛な鬼である以上、そう易々と近寄るのはためらわれたのだった。
「大事ない。鬼といえども、法力で抑えてあれば動くことなどできぬ」
 法師の落ち着いた声音は、男たちを安堵させた。あれだけ鮮やかに鬼を捕えてみせた法師がそばにいれば、怯える必要もないと判断したのだろう。その法力を称える声にも、いっそう熱がこもる。
「さすが、徳の高い法師様というのは、不思議な力をお持ちになるのですな」
「そうそう、火を操って逆に鬼の影を捕えるなど、思いもよらんでしたわ」
 誉めるだけなら元手はいらないとばかりに、男たちはさらに賛辞を贈る。だが、法師は唇に薄く笑みを浮かべ、小さく首を振った。

「まさか。いくら徳を積んでもそのような芸当、できるはずがない」
「――は?」
 法師は戸惑う男たちを尻目に、くく、と喉を鳴らす。
「人間にさようなことができると思うたか? 高僧であれ名僧であれ、所詮は人の身。鬼にかなうはずもなかろう」
 その声には、先程までの柔らかさなど微塵も感じられなかった。まるで別人にすり替わってしまったかのような、見事なまでの変貌ぶりだった。
「あ……あんたは……」
 男たちは声を失う。冷たい汗がしきりに背中をつたうのを、止めることはできなかった。
 不意に、風向きが変わった。人肌のような生暖かい風が、脂汗の浮く男たちの顔を撫でる。
 法師はさらに低く笑い、右手をゆっくりとかざした。

「これは鬼火だ。文字通り――鬼の、火」
 法師の声に呼ばれるように、宙に炎が湧き起こった。五つ、六つと連なって、男たちの背後を囲む。
 いったい何を――と考えるだけの暇もない。背後の火によって生まれた影。その伸びた先には、先程までうずくまっていたはずの小鬼が待ち構えていた。自らを縛めていた数珠をおもむろに取り外し、小鬼はゆっくりと立ち上がる。男たちより二回りも小さな体で、彼らを完全に圧倒していた。
「あ…あ………」
 体の自由を奪われた人間たちは、恐怖に目を見開いたまま身をすくませる。それを嘲るように、少年の鬼は赤日に染まる牙を剥いて笑った。
「――やっと夕飯だ」



 太陽は今にも沈もうとしていた。一日の最後の光が、ただ雲と山際を濃赤色に照らし出す。
 黄昏が闇に変わろうとするこの時刻、道には大小二つの影だけがあった。
「まったく、たかが飯にありつくのに、いちいちこんな芝居を打たなけりゃならないなんて。嫌な時代になったもんだよな」
 小さなほうの影――見たところまだ幼い少年が、歳に似合わずしみじみと述懐した。すると、僧形のもう一つの影が、苦笑しながら答える。
「仕方あるまい。最近はみな用心深くなって、おいそれと影に近づくこともできぬのだからな」

 鬼に影を捕えられてはかなわぬと、近頃では滅多に夕暮れ時、行き交う人の姿がない。これではなかなか餌にありつけないため、面倒な罠を張らなければならなくなったのだ。
「それで、人助けのふりか? 悪知恵ばかりよく働くな」
「……生活の知恵と言ってもらいたい」
 揶揄されて、彼は隣の小さな同胞に憮然と返した。
 芝居など馬鹿馬鹿しいと自嘲しながらも、人に交じり、鬼退治の法師のふりをしなければならないのが現実だ。実に住みにくい世の中になったものだ、と思う。
 無論それは、彼らの側だけに限ったことではないのだろうが。

 並んだ二つの影が、残照に映し出されて長く伸びてゆく。逢魔が時、影に背を向けて歩くその姿を見る者は、ついになかった。