空蝉の夏
部屋の中にいても、じっとりと背中に汗が貼りつく昼下がりのことだった。
直射日光の下で洗濯物を干し終え、一息つこうと私は一階の和室でごろりと横になっていた。本来なら畳のひんやりした感触が心地いいはずなのに、午前のうちから気温三十度を超している日は、さすがに清涼感とは無縁のようだ。
レースのカーテンが風に揺れ、裸足の裏をさわさわと撫でる。横になったまま、ふと視線を窓際に向けると、縁側の端に小さな虫籠が置かれているのに気づいた。
恐らくこれを置いたのは、六歳になる息子だろう。子供の頃、私が使っていたものを去年にあげた記憶がある。
どうやら中には何かが入っている。何の虫を捕まえたのだろう。立ち上がるのも億劫で、畳の上を這っていって近づき、私は驚いた。
「これは……蝉の抜け殻?」
何と、虫籠の中には生きた虫ではなく、茶色い半透明の、蝉の脱ぎ捨てた衣があった。
それを見た瞬間、私は急に遠い記憶が、さざなみのように押し寄せてきた。
耳の奥で鳴り響く、蝉の大合唱。
降りしきる蝉しぐれの中で、あの日の光景が鮮やかに甦る。
※
真夏の太陽の下、私は元気にはしゃぎ回っていた。幼いあの頃は、今のように暑さに負けて自室でごろごろしているようなことはなかった。
蝉の鳴き声が洪水のように満ちる林の中で、私は目当てのものを見つけた。
子供の手には余るほど大きな、完全な形の蝉の抜け殻だった。夏の日差しを反射して、当時は触ったこともない宝石のように輝いていた。
女の子というものは、あまり虫で喜んだりはしないのかもしれない。――いや、本当は私だって普通の女の子と同じだったのだ。
そんなきれいな抜け殻を見つけて喜んだのは、別の理由があったからだ。
私は、捕りたての蝉の抜け殻を手に、小走りに林を抜けた。
息せき切ってたどり着いた時、背中は汗でびっしょりだった。それでも疲れなど知らず、満面の笑みすら浮かべていただろう。
インターホンを押すなんてもどかしいことはせず、勝手を知っている裏庭に回りこむ。そして、そこには目当ての人が立っていた。
名前を呼ぼうと口を大きく開けたところで、しかし突如、邪魔が入った。
「ほら見て見て。おっきいでしょー、このカブトムシ」
「うわー、すっげー! こんなのいるの!?」
興奮気味に上げられたのは、私が聞きたいと思っていたはずの声だった。でもそれは、私に向けられたものではない。彼は、まだ私には気づいていなかったのだから。代わりに気づいたのは、もう一人の少女だった。
「あら、あなたも来てたの?」
そう口にする彼女の顔は、子供でもわかるほどはっきりと、優越感に満ちていた。
そこでようやく私の訪問に気づいた彼は、嬉しさいっぱいの顔で振り返った。
「こっちおいでよ。すげーよ、これ。すっごいでっかいんだって」
彼が手にしていたのは、両手の面積よりも大きなカブトムシだった。当時は名前も知らなかったが、今思い返すと、恐らくヘラクレスと呼ばれる有名な種類だっただろう。
もちろん、その辺の林で捕れるはずもない。大きな農場を持っている彼女の家を考えれば、デパートあたりで買ってもらった高級品だろうと思う。
「……ううん」
やっとの思いで出た言葉は、ただそれだけだった。
ここまで胸はずませて走ってきたのは、彼のためだった。いわゆる「男の子」らしく、昆虫好きな彼のために、立派な蝉の抜け殻を見せてあげようと思ったのだ。その時に浮かべる、嬉しい表情を見たかったから。
でも、ここには先客がいた。そして、その手にはあまりにも立派すぎる戦利品があった。とてもかなうものではない。
さっきまで、あれほどきれいに輝いていた抜け殻が、急にみすぼらしく思えてしまった。だから私は踵を返すと、彼の家を足早に立ち去った。
そうして自宅の近くまで来た時、私は手の中に視線を落とした。
完全な形を残していた抜け殻は、すでに粉々に砕けていた。カツオ節のようになった破片が、汗ばんだ手に貼りついていた。
所詮、抜け殻は「空」なのだ。中身なんて何もない。私の手には、そんなものしか残らないのだ。
だんだんと大きくなる蝉の鳴き声に、小さな嗚咽が紛れ込んだ――
※
「――ねえねえ、お母さん。どうしたの?」
幼い声に、私はハッと我に返った。
いつの間にそばまで来ていたのか、縁側から不思議そうに私を見上げているのは、息子だった。
この炎天下にも、子供は元気に外遊びをしていたらしい。麦藁帽子の下から覗かせる顔は、鼻の頭がだいぶ赤くなっている。
私は、手にしていた蝉の抜け殻をそっと縁側に置いた。
「これ、蝉の抜け殻ね。籠に本物の虫は入れないの?」
抜け殻を見て、つい遠い思い出にふけってしまったが、よく考えれば少々奇妙ではある。虫籠に、虫を入れないなんて。所詮は中身のない「空」だというのに。
しかし、返ってきた言葉は予想もつかないものだった。
「だって、生きてる虫を閉じ込めたらかわいそうでしょ」
ごく自然に、それが当たり前とでもいうような口ぶりで、息子は答えた。
「お母さんが、蝉は一週間しか生きないんだよって言ってたじゃん。でも、抜け殻なら死んじゃったりしないでしょ」
――手の中で砕けた、あの抜け殻。
カサカサとした感触を、まるで昨日のことのように思い出す。
あの時は、何てみすぼらしいんだろうと私は思っていた。所詮は、脱ぎ捨てられた殻。だから、何の価値もないのだと。
でも、幼い息子は違った。この殻に、はかない命の尊さを見いだすことができたのだ。その小さな手で、握りつぶすことなく。
私はふと、口元をほころばせた。あの日の自分とは違う子供が、今、私の目の前にいる。
あどけない笑みを浮かべる息子の麦藁帽子を私はそっと持ち上げ、汗に濡れた頭をゆっくりと撫でた。
(了)
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