浦島異聞


序論――浦島伝説

 丹後の國の風土記に曰はく、与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人夫たみ日下部首等くさかべのおびとら先祖とおつみやは、名を筒川の嶼子しまこと云いき。人為ひととなり姿容秀美すがたかたちうるはしく、風流みやびなること類なかりき。こはいはゆる水江みずのえの浦の嶼子といふ者なり。

(『丹後國風土記逸文』)



 昔丹後國に、浦嶋といふもの侍りしに、その子に浦嶋太郎と申して、年の齡二十四五の男有りけり。

(『御伽草子』「浦嶋太郎」)



 ……このように『御伽草子』での主人公は浦嶋の子、浦嶋太郎とされる。一方、最古の浦島伝説を記す『丹後国風土記逸文』では主人公の名を「筒川の嶼子」と述べ、これは「水江の浦の嶼子」であると註される。すなわち、本来は「浦嶋の子」ではなく「浦の嶼子」だったものが幾度もの変遷を経て、「浦嶋太郎」という姓名を冠するまでに至ったのである。これは、人口を膾炙するうちに物語が変容したのだとするのが一般的な見解であろう。
 しかし私がここで指摘したいのは、『御伽草子』の作者による意図的な改変、創作という点である。読物、とりわけ大衆向けに作られている以上、人々に馴染みやすいよう、手が加えられるのは致し方ない。だが、古い伝承の形態をここまで歪めさせるには、他にも何らかの要因があったと見られる。
 何故、作者は既存の浦島伝説をベースに新たな物語に書き換えたのか。これから、その仮説を幾つかに分類して検討してゆく。

(藤本忠著『浦島伝説の変容』より)




一  出会った亀に尾行つけられて


 あれは有志の集う自主ゼミが終わった後、そのゼミの仲間同士で近場の水族館に繰り出した時のことだった。
「十一月も終わりの時期に水族館っていうのも何か季節感がないよな」
「あら、別に水族館はオールシーズンOKよ。暖房だってちゃんと効いてるんだし、冬に来ちゃいけないってことはないでしょ」
 俺の小さな呟きを耳聡く聞きつけたのは、丹羽だった。
「だいたい、息抜きしたいって一番わめいてたのは時任君だったじゃない」
 丹羽香澄。こいつは我が史学科日本史ゼミの仲間であると同時に、俺の長年に渡る同級生でもある。
 今、俺たちが通うのは地元の国立大。広い県のことで、さすがに自宅通学というわけにはいかないが、それでも経済的事情などにより、同じ高校出身の奴は割合多い。だが、丹羽に至っては話は別だ。それというのも、こいつとは小学校の四年生からずうっと同級生をし続けているためである。
 要するに俺、時任樹と丹羽香澄とは、強固な腐れ縁なのだ。
「時任たちは地元人だったよな。ここの水族館には来たことあるのか?」
 四年の先輩が振り返ってそう訊いた。どうやら本人はここに何度も通っているらしく、足取りにも慣れた感がある。
「いえ。初めてですよ、ここは。実家は山のほうなんで、県内でも海には滅多に来ませんから」
 すると、前から何やらはしゃいだ声が聞こえてきた。
「ね、ジンベイザメっていないのかな」
「まさか。こんな小さな水族館にそんな大物いるわけないでしょ。せいぜい頑張ってもウミガメぐらいのものよ」
「じゃあペンギンはー?」
「あとラッコとビーバーと白熊」
「ここは動物園じゃないってば!」
 女性陣は、和気相合というに相応しい空気を醸し出しながら回っている。いつも思うのだが、女というのは人が集まると口を閉じていられなくなるのは何故なのだろう。
 そんなことをぼうっと考えながら、俺はゆっくりと最後尾について歩いていた。その名の通り弱々しげな鰯の群れを横切ると、前方に空っぽの大きな水槽が見えた。

(え……?)

 いくら貧弱な水族館とはいえ、何もない水槽をライトアップしたりはしないだろう。もしかしたら奥のほうに何かの生き物が隠れているのかもしれない。
 そう思い、俺はじっと目を凝らして、光の届きにくい薄暗いところを覗き込んだ。だからその分、周囲に対する注意力は大いに低下する計算になる。
「わっ」
 俺は思わず尻餅をついた。その際、さげていたショルダーバッグの中身が一斉に飛び出す。
「ああ、すまんすまん。大丈夫かね、君」
 無様な俺を見下ろして、気遣わしげに声を掛けてきたのは七十過ぎと思しき老人だった。
「あ、いえ、全然平気ですから」
 俺は少しばかり大げさに手を振った。まさか若干二十歳の若者が、七十の爺さんの手を借りて起き上がるわけにもいかない。たとえ向こうからぶつかってきたとしても、だ。
 そんな若僧の意地を見越してか、爺さんはそれじゃあと言い残して、すたすたと足早に去っていった。歳の割にはかなり颯爽とした足取りだ。
 そして、そんな俺を憐れむ声がした。
「やだ。時任君、何してるのよ。遅いと思ったら、こんなとこで転んでたの?」
「誰も好きで転んでなんかないわい。ほら、文句言うぐらいだったら拾うの手伝え」
「えっらそうに。言っておくけど、私を顎で使おうとしたら高くつくからね」
 ぶうぶうと文句を垂れながらも、丹羽も腰を屈めて床にぶちまけられたバッグの中身を拾い始めた。すると、
「何これ、お弁当箱? 時任君、自分で作ってるの?」
 丹羽がいきなりそんなことを言い出した。
「あ、こら! 人の弁当勝手に開けるな!」
「あーあ、やっぱり空か。お昼過ぎちゃったもんね。時任君が何作ってるのか気になったんだけど」
「気にせんでいい!」
 俺は丹羽の手から空の弁当箱をひったくった。一体何が悲しくて水族館の回廊で弁当箱争奪戦なんぞしなけりゃならないんだろう。本当に、他に大して客が入っていなくて良かった。
 しかし、そんな幼児レベルの争いを一部始終見ていた奴がいた。
「……カメ」
 空っぽだと思っていた水槽のど真ん中。そこでは大きな甲羅を背負った年代物のカメが、じいっとこちらを見つめていたのだ。
「へえ、これがここの大物の青海亀かあ。さて、これでだいたい見るもの見たし、そろそろ出よっか。先輩たち、多分待たせちゃってるからね」
「あ、ああ……」
 丹羽にせっつかれ、バッグに全て収納し終えた俺は慌ただしくその場を離れた。だが、俺はいつまでもカメの視線が追ってきているような気がしてならなかった。
 そして幾許いくばくもしないうちに、それが気のせいではなかったと知ることになるのである。



 その後、みんなで夕食にすることになり、そしてお決まりのように呑み会へとなだれ込み、結局家にたどり着いた時には日付が変わっていた。まあ、大学生の実態など所詮はこんなものなのだ。
 半分も覚醒していない頭で、とりあえず弁当箱を洗い桶の中に叩き込み、俺はすぐさま煎餅布団へと直行した。だから部屋の電気を消したかとか、鍵をしっかり掛けたかとかいうことは、あまりよく覚えていない。不用心もいいところである。だいたい貧乏と相場の決まっている学生アパートになど好んで忍び込む輩などいない。しかもここは男子専用だ。
 そう高を括っていたせいかもしれない。だが、こんな事態はあまりに非常識ではないだろうか。
 目を覚ましたのは、台所で気配を感じたからだった。俺はもともと眠りが浅い。神経質なのだ。だからたとえ酔っていても、物音を聞きつければ自然と眠りから覚めてしまう。
 ひたひたという足音。――ではない。これはぴたぴたという、水音だ。
 雫が床に滴る音。
 何だ? 初歩的に幽霊ということはないだろうか。いや、別に見たことはないが。
 さわさわと人の動く音。
 やっぱり、いる。誰かがここに侵入してきたんだ。何故だ? ここには盗むような金も、食材さえもないぞ。せいぜいが賞味期限も怪しいカップ麺ぐらいのものだ。
 俺は布団からそおっと手を伸ばした。何か武器になるものがないと。――あった! 
 この前、倉庫の傍で拾ってきたソフトボール用具一式。よし、少し運が傾いてきたぞ。
 硬い感触。俺はバットを握り締める。
 がたん、と大きな物音。――今だ。
「誰だ!?」
 叫んで、俺はドアを荒々しく開け放した。当然、来たるべき反撃に備えてバットを勇ましく構えたままだ。いや、どちらかというと木刀なんかのほうが様になるだろうが、今はそんな贅沢を言っている場合ではない。非常時なのだ。しかし、ドアを開けて飛び出した瞬間、俺は拍子抜けしてしまった。
「ああ……」
 そいつは、頭から水を被ったみたいにびしょ濡れで、しかもぶるぶると震えながら、怯えたように俺を上目遣いで見た。
「ええっとー……あの、どちらさんで……?」
 肩から力が抜けてしまった。どう見てもこいつは窃盗なんぞできるようなタマじゃない。俺は一目でそう感じた。
 濡れた髪は腰までだらしなく伸びていて、いっそう情けなさを醸し出すが、体つきから一応男なのだとはわかる。だが、ひょろ長く、何となく腺病質っぽいようにも見えてしまう。
 そいつはまた、ああだかおおだか呻いてから、今度は潤んだ眼差しを俺に向けてきた。
 そして、
「お捜ししました、浦島さまあっ!」
 絶叫して、そいつは俺に抱きついてきたのだった。



「……誠に失礼いたしました」
 そいつは馬鹿丁寧に深々と頭を下げた。
「まったくだな」
「ああ、怒ってらっしゃる……申し訳ありません……私が至らないばかりに、このようなことに……」
 しくしく、さめざめと泣き出したものだから堪らない。頭がイカレてるのかもしれない。とにかくなだめて、早いうちに追い出さなくては。
「ああもう、いいっていいって。それより何だって? 俺を捜してたとか言ってたけど、あいにく俺はあんたなんか知らないぞ。人違いじゃないのか?」
「いえ、そんなはずはございません。むしろ、あなたが私をお忘れになるのも無理はないのです。何しろ、あれからもう千年にもなるのですから」
「ほう、千年……」
 ―― 千年!?
 何を言ってるんだ、こいつは!? やっぱり脳味噌やられてるぞ!
「申し遅れました。私は千年前にあなたに救っていただいた亀、名を昴と申します。実は私は乙姫様の命により、あなたの持ち去った玉手箱をお返しいただきに参ったのです。本来ならば早いうちに竜宮城に戻さねばならなかったのですが、あなたの行方が杳として知れず、こんなにも長い年月をかけてしまいました。ですが、ここでようやく巡り逢えたのも海神様の思し召しでしょう。どうか玉手箱をお返しいただきますよう……」
「お、おい、ちょっと待てよ! いきなり何言ってんだ!? 俺は浦島太郎なんかじゃないぞ! 玉手箱なんか知るか!!」
「いいえ。あなたこそが私の捜し申し上げた浦島様。あなたは玉手箱をお持ちなのですから」
 俺は脱力した。もはやこいつには何を言っても無駄だろう。
「私がいみじくも人の手により、あの透明な檻の中に捕われておりましたところ、私は偶然にもあなたを――あなたが玉手箱を取り落とされるところを目にしたのです。そして、居ても立ってもいられず、こうして夜分遅くにあなたの元に馳せ参じたのでございます」
「――は? もしかして、水族館のことを言ってんのか?」
「ああ、こちらの世界では確かそのように申し上げるのでしたね。海の眷属を生かしたまま捕えて幽閉する、あの汚らわしい場所を」
 そういやあの水槽には、でかいウミガメがいた。俺が派手にバッグの中身をぶちまけた時、俺をじっと見下ろしていたカメだ。
 だが。
 だからって、こいつがそのカメだと?
 そんな馬鹿な話があるか。
「とにかく俺は浦島なんかじゃねえよ。俺の持ってんのは玉手箱じゃなくて、ただの弁当箱だ。それにな、だいたいおまえ、カメだってんなら何で人間の格好してんだよ? いい加減、くだらんこと言ってないで――」
「あの姿で里を徘徊すれば、すぐさま人に捕えられてしまいます。私が一度捕えられたのも、休息のためにと人の姿を解いたためでございます」
 あーそうかよ。
 どこまでもこの与太話を貫くつもりなわけか。いや、もしかしたら本当に信じているのかもしれない。この後、私は神の化身の何とかの生まれ変わりで、偉大な宇宙の力で世界征服を企てましょうなどと言い出しても驚かないぞ、絶対。
「――やはり、思い出してはいただけないのですね」
「だから俺は違うんだって」
「ならば致し方ありません。人前でみだりに変化することは禁じられておりますが、信じていただけないのであれば止むを得ないでしょう」
 人の話を聞けよこの野郎。
 そう言いかけた俺の口は、馬鹿みたいにあんぐりと開いたまま、声を出すことができなくなってしまった。
「お、おい……」
 これは夢だ。
 悪い夢なのだ。
 そう思いたかった。
 自称カメの身体の輪郭が、ピントがズレたみたいにぼんやりと、そして飴細工のように崩れてゆく。TVアニメの変身シーンのように派手な効果音も発光もない。静かに、ゆっくりとその貌を変える。
 ばさりと音がして、俺ははっと我に返った。奴が滴らせた水で湿った畳に、奴の着ていた服が落ちる。
 その上にはカメ。
 紛れもないウミガメ。
 体長一・五メートル以上のカメ。
 ぷんと潮の生っぽい臭いを漂わすカメ。
 暗緑色の甲羅からにょきっと首を出すカメ。
 その目が、じいっとこっちを見つめる。あの、さめざめと泣き喋っていた奴と同じ、潤んだ瞳で。
「――夢だあっ!」
 叫んで、俺はカメを持ち上げた。やはり重い。ミドリガメならともかく、特にでかいアオウミガメは相当の重量級だ。若くなければぎっくり腰になるかもしれない。
 窓を開けると冷たい夜風が吹き込んできた。そろそろ冬がやってくる季節。もともとストーブも点けずに冷えきった部屋だが、外気はそれ以上だ。
 その窓から、カメを捨てた。
 ここは一階だが、体重のせいでどさっと重い音がする。それを聞くと同時に俺は大急ぎで窓を閉め、カーテンを引いた。
「夢だ。夢なんだ、今のはっ」
 自分自身に言い聞かせ、俺は煎餅布団に潜り込んだ。だが、目が冴えて一向に眠れやしない。
 そして、潮臭い湿った畳と、そこに放置されたままの濡れた服が、この悪夢は現実なのだと無言で教えていた。

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