浦島異聞

二 絵にも描けない凄まじさ


 案の定、俺は寝不足になった。
 徹夜で呑み明かすぐらいのことは何ともなかったはずだが、精神的疲労というのは、ずいぶんと体力を奪うものらしい。そして、ふらふらと覚束ない足取りで大学にたどり着いた俺を、さらに打ちのめしたのが――

「ねえ! 時任君、聞いた!? 昨日行った水族館から亀がいなくなったんだって!」
「ほー……」
 その一報を聞いた瞬間、何だか俺は気が遠くなった。
「それがね、警備員の人が何者かに襲われて身ぐるみ剥がされたんだって。その犯人が警備員になりすまして亀を盗んだのね、きっと」
 刺激があれば猟奇事件でも凶悪犯罪でも喜ぶ丹羽は、朝からやけに機嫌がいい。今の俺とは対極にある。
「でも変よねえ。何であんな亀をわざわざ盗み出す必要があるのかしら。スッポンなら生き血でも肉でも売り物になりそうだけど……あ、甲羅剥ぐのかな。確か青海亀も鼈甲べっこうの代用になるし」
 でも中身はどう始末するんだろう、と丹羽は真剣に首を傾げた。
 こいつは、その顔からは想像もできないほど残酷なことを平気で口にする。スプラッタ映画を見ながら肉だって食えるし、理科の解剖実験など、率先だってメスを振りかざしていたものだ。史学科ではなく医学部か農学部で、解剖でも屠殺でも思う存分すればいいのに。
 そして、そんな丹羽の楽しそうな想像が不正解だと俺は知っている。
 なるほど、あのカメ男が着ていたのは警備員の服だったのか。脱いだやつが俺の部屋の畳に、まだ放置してあるはずだ。足がつかないように処分してしまわねば。
「なあ、丹羽。そういや浦島太郎ってさ、玉手箱開けて爺さんになって、その後どうなったんだ?」
 俺はふと思いつきを口にしたのだが、丹羽はきょとんとした顔を向けた。
「どうしたのよ、いきなり。亀からの連想?」
「ん、ああ、まあそんなとこかな」
 まさか昨日の晩にとんでもない話を聞かされたからとも言えない。
「うーん、そうねえ。御伽噺の『うらしまたろう』は確かにお爺さんになっておしまいなんだけど、『御伽草子』の『浦嶋太郎』だと鶴になって空へ飛んでいっちゃうのよ」
「鶴ぅ?」
 何だそいつは。初耳だぞ。
「何だ、藤本先生の本を読んだわけじゃないの」
「おいおい、何でここにフジさんが出てくるんだよ? ついでに言うと、俺はあの人の本は一冊も読んだことないぞ」

 藤本忠、通称フジさん。――といっても、本人の前ではそんな気安く呼んだりはできないが。
 フジさんは、我らが史学科日本史ゼミの担当教官だ。まだ四十代半ばだが、すでに何冊も著書を出していて、その道ではなかなかの有名人らしい。もちろん俺は未読だから詳しいことは知らないが。
「別に威張って言うようなことじゃないでしょ。まあとにかく、今月出た藤本先生の新刊、『浦島伝説の変容』っていうのよ」
 なんてタイムリーな。巡り合わせというやつは恐ろしい。
「そもそも『御伽草子』では、太郎が連れられていくのは海底じゃなくて海上なのよ。だから鶴になってそこを飛び回ってるっていう伝説もあるわね。あと、『日本書紀』だと釣り上げた亀が女の人になって、一緒に蓬莱山に行く、なんて記述もあるわ」
「蓬莱山ってあの、仙人が住んでる?」
「そうよ。今はずいぶんポピュラーな竜宮城も、実は後世の創作なの。本邦初の浦島伝説なんか、中国の神仙思想をかなり色濃く受け継いでるのよ」
「えっ、おい、ちょっと待てよ。本邦初って、浦島太郎はいつからあるんだよ?」
「一番最初に現れたのが『丹後國風土記』で、文武天皇の時代だから……確か七世紀末だったかな」
 驚いた。単なる子供向けの御伽噺だと思っていたのに、実は千三百年も前から存在していたとは。
「これ以上詳しいことは、本を読むか藤本先生に直接聞くか、どっちかにしてね。私もまだ初読なんだから」
「どっちも嫌だ」
「……あのねえ。ゼミ生なんだから、先生の本ぐらい読んだらどうなのよ。教科書さえ開かないから、いつも先生に集中攻撃されるんでしょうが」
「フジさんは学生いびるのが趣味なんだよ」
「だったら少しはいびられないように努力したら? それとも時任君、マゾ?」
「阿呆、誰がだ」
 これ以上話すのが馬鹿馬鹿しくなってきた。おまけに気が抜けたせいか、突然睡魔が襲ってきた。
 いかん。これはもう本能に従うしかない。
「ちょっと、時任君どこ行くのよ」
「帰る。寝る」
「はあ? 今来たばっかりじゃない。これから藤本先生の講義でしょう?」
「代返頼む」
「ばか、バレるってば。いい加減、単位足りなくなるわよ」
 丹羽の声に見送られて、俺は家路へと向かった。頭の中は、今詰め込んだばかりの情報がぐるぐると回っている。
 浦島太郎の話は千年以上も前からあった。あのカメは千年捜し回ったと言った。太郎は玉手箱を開けたら鶴になった。――鶴は千年。こじつけか? いや、それにしても何だか符号が合うような気がする。
 なぜだろう。とてつもなく嫌な予感がする。
 そして徒歩五分でたどり着いたアパートのドアを開けた時、予感的中の四字熟語が目の前に輝かしく現れた。

「あっ、浦島様!」
 カメがいた。座っていた。いや、人身だからカメ男か。とにかく不幸の元凶は、俺の煎餅布団を座布団にして、正座したまま出がらしの茶を啜っていたのだ。
「て、てめぇ、どこから入ってきやがった!?」
「不本意ながら」
 奴が指さした先、そこには窓枠だけになった窓があった。
「あああっ、どーすんだよ! このくそ寒い時期にこんな風通し良くなったら死ぬぞ! まじで!」
「そもそもあなたが身ぐるみ剥いで、私を外に打ち捨てるからいけないのです! 人目を避けて人身に変化し、ようやくの思いで衣に身を包んだのですよ! なぜ私がこのような盗人まがいのことばかりしなければならないのですか……っ」
 カメ男はふるふると震えながら涙ぐんでいた。
 だが、俺だって泣きたい。何でこんな不幸な目に遭わねばならんのだ。
「その上、この扱いは何ですか! 霊験あらたかな玉手箱に米粒はつくわ、生臭い匂いはするわで……」
 袖口を目に押し当てながら、奴が差し出したもの。それは、洗い桶に叩き込んでおいたはずの、
「あっ! それ、俺の弁当箱じゃねえか!」
「何と嘆かわしい!」
 奴は卒倒しそうになった。悪いが、気つけになるようなブランデーなんかないぞ。昏倒しても自力で覚醒しろよ。
 お、持ち直した。
「これこそが私の長年探し求めていた玉手箱……しかし、ああ……何ということか……こんなにも霊力が微弱になってしまうとは……」
 カメ男はまた意味不明なことをぶつぶつと言いながら布団に打ち伏した。いい加減泣き止めよ。ますます布団が湿気るだろうが。
「で、探しものは見つかったのか? 用が済んだらさっさと出てってくれよ。その弁当箱が欲しいんならやるからさ」
「何をおっしゃるのです! 私は浦島様をこそお捜し申し上げたのですよ! 乙姫様の元へいらして頂かなければ困ります!」
「だから俺は浦島じゃねえって。何度も言わせるなよ。だいたい、その弁当箱だって実家にあったやつを持ってきただけなんだぞ?」
「……は」
 カメ男は初めて正気に戻ったらしい。離れた二つの目が丸く見開かれた。こうしてみると、人身でもやっぱりカメに似ている。
「それは、あなたの持ち物ではないのですか」
「まあ、今は俺のだけど。でも昔は祖父さんが使ってたとか何とか言ってたな。だがな、それにしたって千年も昔のじゃないだろ? どう見たってこいつはそんな古くなんかないって」
「いえ、見た目など無意味です。それはそもそも霊玉を封じるための箱。玉と同様、霊力を籠められたものですから、たかが千年ぐらいで古びたりは致しません」
「ほーお。そいつは物持ちがいいことで」
「しかし、地上でいささか時を経すぎたようで、力がだいぶ失われております。私も、あなたが玉手箱を取り落とされなければ気づけたかどうか」
 要するに俺はあの時、自らの運命を決定づける大失態をしでかしたわけだ。不幸というのは案外、自分でこさえているものかもしれない。
「とはいえ、そのかすかな霊気を頼りに、ここまでたどり着くことができたのですが」
「……警察犬かよ、おまえは」
 しかも犬よりよっぽど鼻が利く。何しろあの時、こいつは水槽の中にいたのだから。
「いずれにせよ、時が迫っております。あなたが浦島様か否かは乙姫様に判断していただきましょう」
 宣告すると同時に、カメ男は俺の腕をむんずと掴んで引っ張っていった。
「おい、離せよ! どこ行くつもりだ!?」
 いったい、この細っこい身体のどこに、こんな力があるんだろうか。しかも俺は寝不足と精神的疲労でぼろぼろだ。ずるずるとだらしなく引きずられていった先は、何と浴室。
「何なんだよ! どうする気だ、てめえ!」
 カメ男は服のまま浴槽に押し込もうとする。俺は風呂の水なんか張った覚えはないぞ。この野郎、俺のいない間に準備しておいたのか。まさか今までのことを根に持って、溺死させようというんじゃないだろうな。
「乙姫様の待つ、竜宮城に参ります」
「ちょっと待て! 竜宮城って言ったら普通、海だろ、海! 風呂に入ってどうすんだよ!」
 わめき散らす俺に対し、こいつはしれっとしている。さっきまでの取り乱しようは何だったんだ。自分が優位に立っているからってほくそ笑んでるな、畜生。あ、そういやこいつ、本当に畜生だっけ。
「海も道の一つではあります。しかし、人の通れるほどの水と、呪の塩とがあれば、あちらとこちらを繋ぐことはできるのです。もちろん、霊力を持つ者でなければ道を開くことは叶いませんが」
「……おまえ、その霊力あんのかよ」
「海の眷属の中で、最も強い力を持つとされる霊獣ですよ、私は。変化へんげもまたその一つのしるしです」
 カメ男はむっとしたようだ。まあ、カメは万年というからには、確かにめでたい動物なんだろう。だが、こいつの風貌や言動からは、どうしても霊験あらたかな生き物という感じはしない。
 そんなことを考えているうちに、俺はカメに引きずられて風呂の中へ真っ逆さまに落ちていった。


 入った瞬間、しょっぱい味と臭いがした。まあ当然か。あの風呂の中は濃密な食塩水が満たしていたんだから。だが、それも瞬きをする程度の時間でしかなかった。
 確か「うらしまたろう」だと、たろうはカメの背に乗って海底旅行をしていたはずだが、俺はカメの化けた男に引っ張られて、一瞬でそこにたどり着いた。
 もちろん、こっちの世界では普通の海底とは違って呼吸も普通にできる。多分、風呂の塩水の入り口をくぐった時に一般的な常識の通じない、この異郷へと足を踏み入れてしまったのだろう。
 だが、問題は。
「……おい、カメ男。竜宮城はどこにあるんだよ」
「今、目の前にそびえ立っているでしょう」
「何がそびえてんだよ! どう見たってこいつはオンボロ屋敷だろうが!」
 そう、目の前にでかい建物はあった。だが、こいつは建築物の限界を超えたとしか思えないほど、老朽化していたのだ。
 普通、竜宮城といったら豪華絢爛な御殿みたいなところを指すんじゃないのか? それなのに、ここときたら朱塗りの欄干は剥げ放題、木材は腐り放題、穴は開き放題で、地上にあればミステリースポットとして有名になりそうな代物なのだ。
「仕方がないのです。浦島様が玉手箱を持ち去られて以来、この城の時は流れ続けて古びてゆく一方だったのです……」
 カメ男はまた、めそめそと泣いている。ああ、うっとうしい。なんて俺は不幸なんだ。
 そうして、板を踏み抜きそうな階段を恐る恐る昇り、中に入ってますます天然の文化財の凄まじさを目の当たりにした。
 歩くたびに床が鳴る。鶯張りならともかく、ギイギイという危険なシグナルだ。だだっ広い板の間には、発掘したてのような調度品。
 カビの臭いで腹いっぱいになりそうだ。おまけに埃や塵が乱舞する。
「乙姫様のご馳走は!? タイやヒラメの舞い踊りはっ!?」
「そのような贅沢ができるか、れ者!」
 一喝された。寺の和尚だって顔負けの腹式呼吸だ。だが、振り向くと華奢な体つきの女が胡散臭げな目つきで俺を見やっていた。
「おぬし、何をしに参った。見ての通り、ここは客をもてなす馳走も土産も出せぬぞ」
「お、乙姫様、この方は浦島様ではないのですか!?」
「だから初めから違うと言ってるだろうが」
 カメ男の脇腹を小突きながら、俺は首を傾げた。
 乙姫?
 これが?
 確かに気高そうな感じはするが、服は綻びだらけのボロだ。そして油をけちっているのか(明かりは裸電球でさえなく燈台だ)、薄暗く、顔もぼんやりしてよく見えない。
 すると、乙姫はまた腹いっぱいの罵声を飛ばした。
「ドン亀! どこに目をつけておる。こやつが本物の浦島ならば、玉の霊力を纏っておるはずではないか。こやつのどこに霊気がある!? 千年も捜し回ってこのざまか、おぬし!」
「で、でも、この方は玉手箱を持っていらっしゃったのですよ……ですから私は乙姫様に判断を仰ごうと……」
 すると、乙姫は目をすっと細めた。
「その箱はどこにある」
「あ……確かあちらにそのまま……」
「役立たず!」
 ひどい言いようだ。
 でも事実なのだから同情の余地さえない。
 このカメ野郎、ちっともろくな働きをしていないではないか。俺まで不幸の道連れにしやがって。だから人捜しに千年もかかるんだよ。
 とりあえず一通り罵倒し終えたためか、乙姫は巻き込まれた一般市民に視線を移した。
「おぬしもとんだ災難であったな。だが、玉手箱を持っているとあっては看過できぬ。事情を説明するゆえ、こちらへ参られよ」


 乙姫が淹れてくれたのは、なぜかコーヒーだった。インスタントとはいえ、ドリップ式の、その中でも特にうまいやつだ。
 奥の部屋は、まだ何とかこざっぱりしてはいた。だが、このボロさばかりは如何ともしがたい。
「おぬしも浦島の話ぐらいは知っておるだろう?」
 自分はティーパックの紅茶を啜りながら、乙姫はそう切り出した。
「ああ、まあな。助けたカメに竜宮城へ連れられて、乙姫様にもらったみやげの玉手箱を開けたら爺さんになった、ってやつのことだろ? でも何か、昔の話だと爺さんじゃなくて鶴になったとかいうらしいけど」
 俺は先刻、地上で丹羽から聞いた話を思い出していた。確か浦島伝説は歴史が長いという話だったが――
「ほう。おぬし、若いのに『御伽草子』を知っておるのか。まあ、ともかく世に流布しておるのはだいたいそのような話であろう? だが、実際には相当な齟齬があるのだ」
「――んあ?」
「あやつはこの城の伝承をどこかで聞きつけたらしくてな。うまいこと、この亀を言いくるめてここまで渡ってきたのだ。そして城の維持の要となる霊玉を、奉納してあった箱ごと奪って逃げおったのだ!」
 乙姫の剣幕は凄かった。握り締めていたマグカップの柄が取れるんじゃないかと、俺は気になった。
「……で、その霊玉とやらはどういう代物なんだ?」
 おずおずと訊ねると、乙姫は我に返ったようだった。
「時を操る力を持っておる。あの玉がある限り、城は時の流れから切り放された『場』となるのだ。だが、玉が失われてから千年。何もかもどんどんと古びてゆく一方でな。これまでは妾の霊力で何とか保たせてきたが、もうそろそろ限界であろう。タイもヒラメも歳を食ってくびにせざるを得なくてな、残ったのは寿命が長いだけの、役立たずの亀だけというありさまだ」
 乙姫の吐き出した溜息は、相当な疲れが見て取れた。千年も霊力とやらを消耗し続ければ、否が応でも厭世的になるだろう。そして、カメは長いこと乙姫のストレス発散の対象となっていたに違いない。
「でも、何だって浦島は玉手箱を奪って逃げたりしたんだ?」
 すると、乙姫は引き続き、疲れたような溜息をついた。
「……おぬしは、まだ若いな」
「は?」
「浦島はな、この城に来れば必ずや不死になれると思っておったのだ。地上にはそのような伝承がまかり通っておったしな。まあ確かに、霊玉には時を操る力がある。恐らく今も浦島は、玉の力で生き存えておるだろう。だが、あやつは一つ過ちをおかしておる」
「過ち?」
「あの霊玉は、海の中でこそ無限の力を引き出せる。しかしひとたび地上に出せば、効果は千年で切れるのだ」
 何だそれは。賞味期限というわけか。
 俺の脳裏に「開封後はお早めにお召し上がりください」という決まり文句がよぎった。
「今年がその千年だ。玉が力を失って困るのは妾も同じ。だからこそこうして、あやつの行方を追っておる」
「でも待てよ。何で俺んちに、その玉手箱があるんだよ? 浦島が盗んでったんなら、奴が持ってるはずだろ?」
「さて、妾にもわからぬ。だが、もしやするとおぬし、浦島の子孫なのではないか」
「はあ!? そんな馬鹿な……っ」
 すると、叫びかけた俺を、黙り込んでいたはずのカメが遮った。
「乙姫様に向かって馬鹿とは何事ですかっ!」
「うるさい、亀。おぬしは黙っておれ」
 乙姫よ、ちょっとカメに冷たすぎやしないかね。まあ同情する気にはなれないが。
「あのなあ、それにしたって子孫なんてのは――」
「妾にもわからぬと言っておるであろう。それともおぬしの祖先がどこぞで拾ったのかもしれぬ。だが、あやつも千年も生きておれば、あちこちに子孫を残してあっても不思議はなかろう」
 あちこちか。まあ、確かに千年も生きていれば、撒いた種がそこかしこに実っているものかもしれない。でも、何となく想像したくはないな。特に自分の血筋かと思うと。
「とにかく、玉手箱はおぬしの家にあるというわけなのだな?」
「……そうみたいだな」
 あれはただの弁当箱だという意識が抜けない。それに血統の証になるのも嫌だ。だから俺はあまり認めたくはなかった。
「では仕方がない。行くとするか」
「行くってどこに」
「おぬしの家に決まっておろう。それに、そろそろタイムリミットであるからな。そろそろ本拠地を地上に移したほうがよかろう」
 勝手なことを言うな。俺は招待した覚えはないぞ。まさかコーヒー代のつもりじゃないだろうな。
「……おい、地上って、まさか俺んちを根城にする気じゃないだろうな」
「何を言っておる。他に場所があるのか」
「何考えてんだよ!? 家ったって一部屋しかない、くそ狭いアパートだぞ!」
 だが、俺の抗議はあっさりと黙殺された。もはや乙姫は会話をする意思はなかったのだ。
「さあ行くぞ。亀! 出かける支度をせい!」
「相変わらず人使いが荒いんですから……ただでさえ他の雑用もみんな私がやらなければならないというのに……」
 カメはまたぶつぶつと恨み言を呟いている。しかし慣れたもので、乙姫はまったく聞いていない。
 そしてやけに意気揚々と立ち上がり、埃を撒き散らし、誇らしげに俺を振り返った。
「浦島捜しはおぬしにも協力してもらうぞ」
「あのなあ……」
 この女。どこまで自分本意なんだ。俺は地上の人間だぞ。そもそも事情を説明するだけじゃなかったのか。早いとこ退散すればよかった。どうやら俺は引き際を見誤ってしまったらしい。
「不幸だ……」
 俺の漏らした呟きは、誰の耳にも届かずに、はかなく消えていった。


 入った時と同様、出てくる時も俺のアパートの狭い浴槽からだった。相変わらず風呂水は塩辛い。ふと風呂場の片隅に目をやると、見覚えのある袋が転がっていた。どうやら台所で眠っていた食塩すべてが消費されたらしい。誰の仕業かは、いまさら言うまでもない。返す返すも勝手な奴らだと思う。
 それはともかく、俺はちゃんとした蛍光灯の明かりの下で初めて乙姫を見た。ボロ布のような着物は実にひどいありさまだったが、顔はノーメーク(推定)にも拘らず、息を呑むほどの造形美だった。
 肌だの目だのと一つ一つを取り上げてどうこう言うようなレベルじゃない。ファッション誌のモデルなんかよりもよっぽど綺麗だと思った。
 そんなうわべに(不本意ながら)見蕩れていたせいだろうか。すぐそばまで忍び足で近づいていた不幸に、俺は気づくのが遅れてしまった。
「おぬし。これは何だ」
 乙姫は世にも恐ろしい形相で詰め寄ってきた。手元からは水を滴らせている。それは見慣れた俺の――
「弁当箱、だな……」
 そうだ。ついさっきまでは弁当箱として機能していた俺の持ち物だ。だが、どうやらこれは、浦島太郎が千年前に竜宮城から強奪した玉手箱のなれの果てらしい。俺にとってはどうでもよいことだが、乙姫にはそうではなかったようだ。
「弁当だと!? この神聖な箱に飯粒だの漬物だの詰め込んでおったのか、貴様! 臭いが染みついて取れないではないか!」
「つ、漬物なんか俺は入れねえよ! どうせ祖父さんあたりが詰めてたんだろ。だいたい何代も経ってんだから、臭いや何か染みついてたって仕方がないだろうが」
「おのれ浦島め。子々孫々まで妾を冒涜するか。千年もの間、霊玉に飽きたらず玉匳たまくしげまで穢し続けるとは……っ」
「だから俺は浦島なんか知らねえって……」
 もう乙姫は人の話なんか何も聞いていなかった。もともと自分本意な人間だから、激昂すればますます周りが見えなくなるのだろう。
 などと分析している余裕は、実のところない。
「ああっ、乙姫様、お、落ち着いてくださいぃ!」
 カメの中途半端な制止の声は、何の効果もなかった。
「わっ、ちょっ、離せって……っ」
「これが赦せるものか! 妾は千年もの間、辛酸を嘗め尽くしたのだぞ。その上、かような恥辱を与えられて、黙っておれるか!」
 だからって俺に当たるなよ。
 そう言いたかったのだが、残念ながら実行は不可能だった。完全に理性のぶっ飛んだ乙姫が、俺の胸倉を掴んでぎゅうぎゅうと締め上げているからだ。
 女相手に何を軟弱な、と思われるかもしれない。だがこのお姫さん、細腕の癖に並々ならぬ膂力の持ち主なのだ。これは恐らく霊力とかいうやつの仕業なんだろう。しかし、できればこの情熱を別のところに使ってもらいたい。
 まじで苦しいって。
 やばい。落ちるぞ。
 そんなことを半ば遠のきかけた意識の隅で考えていると――
 ピィ…ン……ポー…ン
 という、間延びした音が割り込んだ。安アパートのせいか、インターホンが壊れているのだ。
 ピィンピィンッ……ポポォー…ン
 ピンポンダッシュならぬピンポンラッシュ。いったい誰が?
 奇怪な音に、さすがの乙姫の手も緩む。
 そこへ、
「何よ、鍵開いてるじゃない。不用心ね。お邪魔するわよ!」
 立て付けの悪いドアを荒々しく開けて、勇ましく登場したのは――
「丹羽!?」
 だったのだ。
 その目は大きく開かれたまま、俺と乙姫とを交互に見やっている。
「時任君、何してるの……?」
 眉間には皺。無理もない。一瞬でこの状況を正確に読み取ることなど、どんな名探偵にだってできないだろう。
「おぬし、何者だ。こちらは取り込み中ゆえ、疾く去るがよい」
「おいっ、何言ってんだよ!?」
 あ、声が出た。いや、今はそんなことで喜んでいる場合ではなくて。
「ふうぅぅん」
 ひんやりと、まるで冷気が漂ってきそうな凍った視線。俺はぞくりと背筋が寒くなった。
「いや、丹羽、あのな。これには事情があってだな」
「別に聞きたくなんかないわよ。邪魔したわね。後はごゆっくりどーぞ」
 床に何かが放られると同時に、玄関のドアが耳障りな音を立てて閉められた。
 何をゆっくりするんだと冷静になって考えた時、俺はあまりのことに唖然とした。
 胸倉を掴んで締め上げられているという図式。しかもほとんど上にのしかかられているような構図だ。何も知らずにそのワンシーンだけ目撃すれば――かなりひどい誤解をされる可能性、大だ。
 確かに乙姫は絶世の美女というのに相応しいかもしれないが、今の状態では愛を語らうどころの話ではない。
「ひでえ冗談だ……」
 目の前が暗くなったような気がした。乙姫も気が削がれたらしく、締め上げていた手を放して、カメに弁当箱こと玉手箱を洗うよう命じている。
 一方俺は、玄関兼台所に丹羽が放り捨てていったものを拾い上げた。
 どうやらそれは、俺が今日休んだフジさんの講義ノートらしかった。何だか悪いような気がしながらもページをめくっているうちに、俺はそれに気がついた。
『時任へ』
 見覚えのありすぎる汚い字面。
『今回で出席数不足が確定したが、この特別レポートの出来が良ければ単位を出してやってもいいぞ。心して書くように。――藤本』
 フジさんからのプレゼント。課題は本人の著書五冊をまとめた原稿用紙三十枚の考察。
 俺の視界は一瞬で暗転した。

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