序章


 暗闇を縫うように、大小四つの影が音もなく舞い降りた。
 気が遠くなりそうなほど広く、ややこしく入り組んだ邸内――それも闇の中を、しかし四つの影は迷うことなくまっすぐに目的の場所へと向かう。だがその途中で、先頭の最も大きな影がぴたりと動きを止めた。
「――散れ」
 低く小さなつぶやきに、四つの影は文字通り四方に散開した。その急激な変化に戸惑ったのは、息を殺して物陰にひそんでいた者たちのほうだった。
「な、何だ!? いったい何が……っ」
「急に消え――……」
「お、おい、どうし――……ぐっ」
 彼らは口に乗せようとした言葉を最後まで発することができなかった。いつの間に移動したものか、見張っていたはずの影に背後を取られ、そのことに気づく暇も与えられず一撃で昏倒させられてしまったのだ。
 最後の一人が崩れ落ちる、どさりという重い音に混じって、かすかな物音がした。それに反応したのは、指揮を執る最も大きな影だった。
「どうした、英俊」
「ここは俺に任せて、先に行け」
 英俊と呼ばれた影は短くそう答えると、他三つの影を送り出し、自らは後に残った。
 そして回廊の支柱にゆっくりと歩み寄る。鮮やかな朱塗りの円柱は、闇の中で色を失い、黒々と不気味な威容を示している。その陰からのぞく衣の端を見やりながら、英俊は薄い笑みを浮かべた唇をおもむろに開いた。
「若い娘が夜更かしをするのは感心しないな。第一、肌に悪い」
「あ……あ……」
 案の定、支柱の陰には一人の女が隠れていた。身なりから見るに、恐らくこの邸内に仕える侍女だろう。不寝番たちを易々と倒した侵入者の一人に間近に迫られ、闇の中でもわかるほど全身を震わせている。その娘に、彼は黒い手を伸ばした。
「――っ!!」
 まだ十代らしき侍女は、盛大な悲鳴を上げようとした。しかし、それが闇に響き渡るより早く、黒い手が彼女の口を塞いでいた。
「可愛い声を聞きたいのは山々だが、今は仕事中なんでね。しばらく我慢していてくれないかな」
 軽口をたたく彼の顔は、吐息がかかるほど近くまで迫っている。
 ちょうどその時、月を覆っていた厚い雲が切れ、にわかに白い光が闇夜を照らした。月光の中に浮かび上がる男の悠然とした笑みを目の当たりにし、はっと侍女は息を呑む。
 これまで見たこともない艶やかな微笑に目を奪われている隙に、彼は少女の口をふさいでいた手をそっと動かした。黒い手甲に覆われたその手は、月明かりの下で生身の指先だけが白々となまめかしく映える。
 彼女は眼前の男の顔から、目をそらせなかった。そのため、月明かりに照らされた侵入者の顔がすぐそばまで近づいても、身動きすらできなかったのだ。
 何か声を上げようとした彼女の唇は、開く前に塞がれる。抗う暇すら与えられなかった。
 しばしの沈黙の後、男が離した少女の細い肢体は、力なく崩れ落ちた。
 濡れた唇を指先で拭いながら、英俊は甘くささやく。
「――悪いが、しばらく夢を見てもらおうか」
 少女の白い首には、気道を突いた指の痕がうっすらと赤く残されていた。



 一方、他三つの影は、音も立てずに目的の場所へと足を速めていた。
「他に見張りは?」
「今のところ、近くには潜んでいませんわね。さ、こちらですわ」
 最も小さな影に、三つの中では最も長身な影が答える。おっとりした声音とは裏腹に、その目は鋭く周囲の気配を探っている。
 そして彼らは、ついに邸の深奥にたどり着いた。
「さあ、閃火の出番ですわよ」
「言われなくてもわかってら」
 閃火と呼ばれた最も小柄な少年は、懐から細い鈎針を取り出すと、大きな錠前の鍵穴に差し込んだ。ほんの数秒、彼が指先を動かしただけで、錠は難なく外れた。
「相変わらず小ずるい技が得意ですわね」
「…………それは誉められてるのか?」
「ささ、早くしないと人目につきますわよ。月も出てきたことですし」
 閃火の疑問を抹殺し、彼女は彼の背を押して室内へと追いやった。
 厚い扉に覆われたその房は、月光から遮断されて深い闇に沈んでいる。しかし闇に慣れた彼らにとって、この程度のことで仕事に支障が出るはずもなかった。
 その房には数多くの棚が並んでいたが、ほっそりした手は迷わず一つの棚に伸ばされた。
「おい怜悧、そいつがそうなのか?」
「誰に向かって物を言っているんですの? 相変わらず無粋な人ですわね」
 怜悧はわざとらしく、ついと閃火から顔を背け、自ら両手で取り上げたそれに鼻を近づけた。
「宵薫、冥泉、落淘――怨呪三種の香。間違いありませんわ。これが呪詛に使用されていた香炉ですわね」
「さすが鼻がきくなあ、相変わらず」
 怜悧が手にしているのは、手のひらほどの大きさの香炉である。中身は空でも、少し嗅いだだけで焚かれていた複数の香の名を挙げた彼女に感心した閃火だったが、逆に冷たい視線が返ってきた。
「何が言いたいんですの?」
 怜悧にじろりとにらまれ、閃火は亀のように首をすくめた。もともと小柄なので、そんな姿勢をとるといっそう縮んで見える。まあ、それだけ暗闇の中から発せられた鋭い眼光に、凄みがあったということにもなるが。いつだって閃火は怜悧にかなわないのだ。
 二人がたわいない言い合いをしている内に、にわかに周囲が騒がしくなった。
「まったく、皆さん懲りませんのね」
 香炉を素早く懐にしまいながら溜息をつく怜悧の隣で、閃火が慌てた。
「お、おい、悠長なことを言ってる場合じゃないぞ! ――悠遠が消えた!」
 周囲を見回しても、三つあったはずの影の一つが欠けている。しかし慌てふためく閃火とは違い、怜悧は落ち着き払っていた。
「消えたのではなく、初めから室内に入ってきていないのですわ。そんなこともわからないなんて、《影》失格ですわよ」
「あ、あのなあ――」
 腹を立てて閃火が言い返そうとしたところで、大勢がどっと房になだれ込んできた。無論、全員が武装している。
「いたぞ!」
「そこだ!」
「早う捕らえよ!」
 白刃を抜き放ち、衛士たちはいっせいに肉薄してくる。
 追い詰められた小さな影は、天を仰いだ。
「あああもうっ、こんな時に悠遠は何してるんだよ――!!」



 閃火が邸内の一角で雄叫びを上げていた頃、悠遠はぴくりと反応した。
「今、何か聞こえたような……いや気のせいか」
 閃火の必死の叫び声は、一瞬で意識から抹消された。何しろ悠遠は別のことで忙しかったのだ。
 悠遠が二人からひっそり離れ、寄り道していたのは厨房だった。そこには邸の主人のために作られたらしい夜食やら羹やらの残りがあった。その匂いを嗅ぎつけて、悠遠はふらふらと誘われるようにこの厨房に足を踏み入れたのだった。
「まったく、夜中にこんな滋養のあるものを食おうとするなんて……だからここの主人は贅肉ばかり増えるんだ」
 その主人の夜食を盗み食いしておきながら勝手な言い分だが、悠遠はまったく意に介していなかった。そして最後の点心を頬張ろうと大口を開けた時、ついに衛士たちは厨房にも踏み込んできた。
「ここにもいたぞ!」
「曲者め!」
「観念しろ!」
 どやどやと入ってきた衛士は五人。対する悠遠はただ一人だが、その体は恐怖以外の理由で震えていた。
「――乙女の楽しみを邪魔するなあッ!!」
 何が乙女だ、と衛士たちは叫びたかったに違いない。だが、その訴えが聞き届けられるよりも先に、彼らは次々に倒れていった。
 最後の一人の首筋に手刀を打ち込んで気絶させると、悠遠は手の埃をはたきながら鼻を鳴らした。
「食事の邪魔をするとは不届き千万だな」
 昏倒する男どもに捨て台詞を吐き、最後の点心にかぶりつく。――これでも自称「乙女」である。
「さて、つまみ食いはこのくらいにしておくか」
 そう呟いて立ち去った厨房には、空になった大鍋二つと大皿四枚による大量の「つまみ食い」の痕跡が残されていた。



 食後とは思えないほど軽やかな足取りで回廊に向かった悠遠は、ちょうど忍び足で駆けてきた英俊と出くわした。
「お、悠遠。こんなところでさぼってたのか」
「さぼっていたわけではない。戦いの備えだ」
「ふうん。なるほどねえ」
 英俊は悠遠と彼女の出てきた戸口とを見比べながら、意味ありげな笑みを浮かべた。厨房で何をしていたのかなど、いまさら訊くまでもない。特に悠遠に限っては。
 すぐ隣でにやりと笑う英俊を無視して、悠遠は足を速めた。
「おまえこそ、どこで油を売っていたんだ? ずいぶんお楽しみだったようだが」
 憮然とした表情のまま、悠遠は反撃に出た。その視線は、英俊の薄く笑みを浮かべた口元に注がれている。そのことに気づいた英俊は、わざとらしく手の甲で唇をぬぐってみせた。
「妬くとはずいぶん女らしくなったものじゃないか」
「誰が妬くか、この変態男が!」
 悠遠は任務中ということも忘れて、思わず叫んだ。英俊の唇には、先ほど彼が眠らせた侍女の紅がついていたのである。彼のこうしたお遊びは今に始まったことではないが、場合が場合だけに、いっそう苛立たしい。
 憤然とする悠遠を見やって、英俊はまた火に油を注ぐようなことを口にした。
「変態とはひどいな。健全な男らしくふるまっているだけじゃないか」
「だからと言って、見境なく片っ端から女に手を出すのか」
「見境なくはないさ。事実、おまえにはちゃんと言い寄ったりしないだろう?」
「おーおー、それはそれはありがたいことで!」
 もはや隠密の任務すら完全に忘れ去り、悠遠が怒りに任せて叫んだその時、
「二人とも、こんなところで何をしているんですの!?」
 回廊の向こうから慌てて駆けてくる怜悧が、くだらない言い合いを続ける二人を叱咤した。そして、その彼女の後方からは多数の松明の灯が迫ってくる。またそればかりでなく、彼女の足元には、半死体のようなものが襟首をつかまれて引きずられていた。
 それをちらりと見やった英俊は、やや溜息がちに口を開く。
「今、たまたま行き会ったところさ。それより何だ、閃火はまた持病が再発したのか」
「いつものことですわ」
 怜悧に冷たく言い捨てられても、蒼ざめた閃火は「うう」だの「ああ」だのと唸ったきり、反論どころかまともな人語を発することさえできない。だが、今は最年少の仲間をいたわっているような場合ではなかった。
「いたぞ、あそこだ!」
「曲者め、観念しろ!」
「殺しても構わぬとの命だ、心してかかれ!」
 雷鳴のごとく大勢の足音が早急に近づいてくる。それも前後左右から同時に。このままでは確実に彼らは包囲され、なぶり殺しにされるだろう。刻一刻と命の危機が近づいているにも関わらず、しかし彼らの表情には少しの翳りもなかった。――「持病」により生気を失っている一人の少年を除いては。
 衛士たちの姿がついに間近に迫ってきた時、まるで頃合を見計らっていたかのように、影は宙を舞った。まるで闇夜を飛び交う四つの蝶――とまで言い切れないのは、一つだけが最も長身の影に背負われていたためである。
 軽々と空を飛んだ影たちは、難なく屋根に降り立ち、そのまま足早に邸の外を目指した。
 そのさまを呆気に取られて見送っていた衛士たちは、背後から上がった主人の罵声で我に返った。
「何をしている! さっさと曲者を追わんか!」
 いつの間に駆けつけたものか、邸の主はたっぷり脂の詰まった腹を揺らしながら、悲鳴じみた叫び声を上げた。
 だが衛士たちはすぐさま主命に従うわけにはいかなかった。当然のこと、彼らはしっかり武装しており、賊たちのように軽々と屋根に上ることなど不可能だったのだ。
 がちゃがちゃと無造作に鎧を解き始める衛士たちを見ながら、主人は暴食によって慢性的に高まった血圧をいっそう上げた。
「ええい、何をぐずぐずしておる! 曲者をみすみす見逃す気か!」
 その血管が浮き上がった主人の額に、闇の中から飛来した何かが見事に命中した。
「ぐぅっ、な、何を……っ!?」
 主人は打撃を受けた額を押さえてうめいた。かなり硬い、手のひら大の礫のようなそれは、間違いなく曲者たちが屋根の上から自分を馬鹿にして投げつけてきたものだ。
 腹を立てて投げ返してやろうと床を探った彼は、しかしそれを拾い上げた時、驚愕のために二重顎を落としそうになった。
「こ、ここここれは、あの香炉……っ!?」
 彼の額に投げつけられ、うっすら血までにじませたものは、彼が命と食事の次くらい大事にしていた香炉の蓋だったのだ。しかも今の衝撃のため、ぱっくり二つに割れている。
「命令ばかりせずに自分でここまで上ってきたらどうだ。ああ、でも、せめてその脂肪を七分の一くらいにまで削減しなければ無理かもしれないがね」
 あはははは、とわざとらしい笑い声を残して、屋根の上の影はひらりと舞った。
 その台詞に、氷塊を飲んだように冷や汗を噴出させた主人は、慌てて叫んだ。
「ま、待て……っ、香炉、香炉を返せぇぇぇぇぇぇっ!」
 絶叫は影の嘲笑とからみ合い、闇夜に不協和音を奏で出した。






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