第一章 幻月


 わざとらしく垂れ下げられた御簾と向かい合うたび、悠遠は非常に暗鬱とした気分にさせられる。この日もまたそうだった。本来ならそんなくだらない茶番劇など、ごめんなのだが、任務遂行の報告とあっては逃げるわけにもいかない。
「ご苦労であった、《影》よ」
 御簾の奥から、わざとらしいほど重々しい声が上がった。すでに日は暮れ、宵闇が辺りを覆っているため、より暗い簾内の影を肉眼で把握することはできない。
 ねぎらいの言葉に合わせて、膝をついていた四人はその場に平伏した。
 御簾の向こうから、かちりと陶器の音が鳴る。つい先ほど悠遠たちが任務遂行の証として献上した香炉を、簾内の人影が指先で玩んでいるのだ。
 ここは宮中の一角。とはいえ、影の者たちが報告に使うような場所は、広大な宮城の中でもとりわけ人目につかないような、ひっそりとした空間である。
 彼ら以外に誰もいない室内の片隅に、陶器の音と不快げな声がほど良く響いた。
「まったく、呪詛に香など用いるとは芸のない……。どうせなら、あの腹の肉を削り取って供犠にでもして祈ればよかろう。そうすれば、この世で最も無駄なものを無駄な行為で消費できて、一挙両得だろうに」
 ふう、とわざとらしい溜息が御簾で囲まれた空間に吐き出される。そのまま充満した己の溜息で窒息してしまえ、と悠遠は心の中で毒づいた。
「まあ、このたびの任務はまずまずというところだな。影の者ならば、この程度の仕事はこなして当然だ」
「恐れ入ります」
 言葉だけは丁寧だが、叩頭する英俊の声はひんやりと冷たい。英俊もまた、悠遠以上にこの声の主を嫌い抜いていた。
「では次の指示があるまで、しばし待て」
「――承知いたしました」
 四人は声を揃えてもう一度平伏した。
 そこで解放された彼らは、すぐさま自分たちの部署に戻れるはずだった。だが。
「――悠遠。おぬしはここに残れ」
 回廊に足を踏み出そうとしたところで、彼女だけが呼び止められた。眉をぴくりとつり上げた悠遠を横目で見やりながら、怜悧は涼しげな表情で言い切った。
「では、わたくしたちはお先に失礼いたしますわね」
 冷たくそう言い放つと、怜悧はそそくさとその場を去った。やや困ったような顔つきの閃火と、興味深げな目つきの英俊も怜悧の後に続く。そうして人払いが済まされると、彼女を呼び止めた当人は、ようやく御簾を持ち上げて姿を現した。
 仄暗い宵闇の中、細長く切れた目元にうっすらと笑みが浮かび上がる。
 極上の笑顔。どうやら今夜もろくでもないことになるらしい。
「久々に顔を合わせたというのに、ずいぶんと浮かない顔をしているな」
「…………浮かない、ではなく腹を立てていることがわからないのか、この馬鹿兇星!」
 悠遠はついに怒りを爆発させた。普段はこれも仕事だと思ってこらえているが、怒りが最高潮に達すれば罵倒せずにはいられない。
「腹? ああ、また腹を空かせているのか、可哀想に。ならば今夜は任務完遂の褒美として是非、我が家の夕餉に招待しよう」
 くすくすと笑いながら、兇星はゆるやかな動作で手を差しのべた。年頃の普通の娘なら、黙ってその手を取ってしまうだろう。柔らかな微笑を浮かべる兇星は、薄闇の中でも息を呑むほどの端整な相貌の持ち主である。しかし、年頃でも普通ではない娘は、その秀麗な横顔をじろりとにらみ返した。
「……何でも飯で釣られると思うなよ。貴様の邸で夕飯なんか食ったら、その後どうなるか私がわからないとでも思っているのか」
「そう人を疑うのは良くない」
「疑われるような根性だろうが、貴様は!」
 先ほどから悠遠は貴様貴様と連呼しているが、これでも彼女はこの兇星の部下にあたるのだ。――ただし、非公式の。
 国の裏側の仕事をこなす彼ら影の者の存在は、当然のこと公にはされていない。
 彼女自身、こんな仕事をしているのは非常に不本意なのだが、だからといって初めから上司を罵倒していたわけではない。原因は、兇星の悠遠に対する普段の態度だ。
「――まったく、相変わらず可愛げのない」
 溜息混じりの兇星の台詞に、ふざけるなと吐き捨て立ち去ろうとしたところで、悠遠の体は後ろから力強い腕でからめ取られた。
「お、おい……っ、兇星!」
 決して油断していたわけではない。それどころか、兇星と向き合う時は常に仕事の倍以上の緊張を必要とされる。だが、充分に警戒していても、兇星の手はいともたやすくその身を腕の中に収めてしまう。
「悠遠。おまえはいつまで影鬼を続けるつもりだ?」
「い、いつまでも何も、貴様がこんなくだらない仕事に引きずり込んだくせに……!」
 思い返すのも忌々しいことだが、悠遠を宮中の暗部に引き込んだのが、この兇星なのだ。
 影鬼――通称《影》が、実際にどれだけ存在するかはわからない。少なくとも悠遠は、自分を含めた四人一隊しか知らなかった。というのも、仲間以外では直接指示を与えるこの兇星くらいしか普段、接触する人間がいないためだ。
 兇つ星、などという不吉でふざけた名は当然、偽名に決まっている。実際には宮中に仕える官吏の一人だそうだが、所属する部署も役職も一切不明。末端である彼らに、表の顔は見せないということなのだろう。対面を御簾越しに行うのもそのためで、例外的に素顔を見せる悠遠は特別な存在――と、そういうことらしい。
 そんなふざけた男に対し、心を開けようはずもない。それなのに、兇星はこうして戯れのごとく悠遠に近づいては睦言めいた台詞を耳元にささやくのだ。いまだに慣れず、むきになって抗う彼女の反応を面白がるかのように。
「――そう、私のせいだ。だから私のところに来れば、こんな仕事などやめられると何度言わせる? いつまで強情を張るつもりだ」
 甘いささやきが耳元をくすぐる。肌をかすめる熱い吐息に、悠遠は総毛立った。
「き、貴様のものになるくらいなら、裏の仕事を続けたほうが何百倍もましだ!」
 ほとんど恐慌状態に陥った悠遠の叫びにも動じず、兇星は彼女の両頬に手を当て、朱に染まった顔を自分のほうに向かせる。そうして、闇よりも濃い漆黒の瞳で、抗う彼女をのぞき込んだ。
「本当に?」
「だ、だからそう言ってる……! だあっ、それ以上顔を近づけるなー!」
 兇星の顔は、少し身動きしただけで触れてしまいそうなほど、近くまで迫っている。
 そして、端麗な眉目にこの上もないほど嬉しげな笑みを浮かべてみせた。
「なるほど。ならば君がそこまで愛する仕事をたっぷり与えてあげよう。明朝一番で指示を出すから、心して待つがいい」
「な……っ、明朝一番だと!?」
 不眠不休で任務を終えて帰ってきたところで、またも立て続けに指令を与えるなど、鬼畜としか言えない所業だ。
 要するに、これは兇星の嫌がらせなのだ。
「何百倍も仕事をしても耐えられると豪語するほどなら、さぞ腕が鳴って嬉しかろう。ああ、何と部下思いなのだろうな、私は」
 はっはっは、とわざとらしい高笑いとともに、兇星は悠遠からするりと手を離して去ってゆく。何百倍もましという捨て台詞の揚げ足を取られ、悠遠の怒りは最高潮に達した。
「こ、この悪逆卑劣変態男が――っ!!」
 腹いっぱいに上げられた罵声は、向けられた当人の耳を綺麗にすり抜けていった。





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