第二章 宥月


 その日の夕方、渡月宮の月台周辺は驚くばかりの人混みであふれ返っていた。
「おい、押すな! もっと後ろに下がれ!」
「誰だ、人の足を踏んだ奴は! 顔を見せろ!」
「泥棒ーっ! あたしの財布をすった奴がいるよー!」
 喧騒は鳴り止むどころか、いっそう熱気を増してくるようだった。月台を眺め渡せる大路は、我先にと集まった民衆の群れでごった返している。
「……まったく、ひどい騒ぎだな」
「それはそうさ。これは一種の祭りだからな」
「人が一人死んでいても、か?」
「祭りには供犠が要る。取るに足りない人間の命なんぞ、これから始まる『見世物』に比べれば安いものさ」
「どいつもこいつも狂っているな。宮廷も、この城市(まち)も」
 お祭り騒ぎに浮かれる人々の群れを縫うように歩きながら、冷えた声で会話する一対の男女がいた。これだけの群衆の中でも、誰にもぶつからずに確かな足取りで進めるのは、もちろん《影》の者に他ならない。
「この城市、ねえ」
 英俊は肩をすくめてつぶやいた。

(――城市どころか)

 狂っているのは国そのものだ、と彼は思う。だが、あえてその台詞を吐き出すことはしなかった。
「どうした、英俊。急に黙り込んで」
 隣を歩く悠遠が怪訝そうな顔で尋ねたが、英俊はあえて何も答えなかった。たとえ言ったところで、この少女には決して理解できないだろう。闇に染まりきらない彼女には、まだ言う必要もないことだ。
「……っておい、悠遠。何してる」
 自分で問いかけておきながら、その答えを聞くより先に悠遠は英俊のそばから離れていた。糸の切れた凧のように、ふらふらと大路をさまよい、行き着く先は。
「おいおまえ、何食ってるんだ! 吝嗇な上司が経費として出してくれると思うのか!?」
 英俊は悠遠の襟首をつかみ、小声でそう叱咤した。が、もはや手遅れである。悠遠は右手に月餅と焼餅、左手に饅頭と燔肉を抱え込み、すでに半分以上が地上から消えていた。
「いい食いっぷりの娘さんだなあ。払いがいがあるってもんだろう、なあ色男さんよ」
 露天商の男たちの視線が、いっせいに英俊に向けられている。とても食い逃げなどさせてはもらえない雰囲気だ。
 もちろん、《影》の力を使えば逃走はたやすいが、それでは大路に無駄な混乱を招いてしまう。隠密の仕事なのに目立つわけにはいかない。いや、それよりも。
「……おまえ、本当に仕事中だとわかってるのか?」
 半分以上投げやりに英俊は訊ねた。その時、悠遠の胃袋は残りのほとんどを収めてしまっている。……化け物め。
「ここのところ働きずくめで腹が減ったんだ。おまえも遠慮せずに食べればいいだろう」
「遠慮の問題か」
 言い返す英俊の鼻に、肉の焼ける香ばしい匂いが届く。まったくこの女と来たら。色気は皆無でも食い気で誘惑するつもりか。
 その食い気たっぷりの少女は、無銭で拝借した食べ物をすべて腹に収めると、少ししおらしげにうつむいた。
「昨晩は鬼才に毒を盛られて食事どころじゃなかったんだ。このままだと行き倒れる」
「毒だあ?」
 発言の内容はかなり物騒だが、英俊はそんなことでうろたえたりしない。それどころか、彼は心の中で盛大な溜息をついたのである。またくだらないことをしているのか、あの爺は。そう思ったが、露天商たちの視線を釘づけにしている今はむやみに口に出せない。
「さあさ、そこの兄さん、その娘に一つ買ってやらんかい?」
 不意に、緊迫した雰囲気を破る声が別の露店から上げられた。英俊が振り向くと、どうやらその男は飴売りのようだった。粗末な台の上には、棒に刺さった琥珀色の飴がいくつも立てられている。
「英俊、竜だ! 凄い……虎に狗に孔雀、鳳凰まであるぞ」
 只飯食いの当人は、またふらふらと吸い込まれるように露店に向かった。
「お目が高いね、嬢ちゃん。そいつは金一両だよ」
 露天商にそう告げられ、悠遠は手にしていた竜の飴細工を取り落としそうになった。
「本当か!? 食べるのがもったいないな」
 この上まだ甘味まで所望するのかと、いささか辟易しながら英俊は暴走娘を引き戻そうとした。ちなみに金一両といえば、庶民の一家が一月は食べられるほどの値段である。うっかり涎でも垂らして弁償させられてはかなわない。悠遠の襟首に手を伸ばしたところで、しかし彼の目は別の飴細工に止まった。
「おい、この蛙はいくらだ。腹に何やら抱えているようだが?」
 英俊が示したのは、売り物ではなく見本として並べられていた、拳ほどの大きさの蛙だった。突然そう切り出された露天商は、目に見えて狼狽する。
「い、いや、そいつは売り物じゃないんで……」
「おい英俊、いきなりどうしたんだ? その蛙が欲しいのか?」
 悠遠が事態をすぐに理解できないのも無理はない。英俊が指差した蛙は、他の飴細工に比べて実に簡素な造りだったからだ。竜は鱗まで克明に、鳳凰は羽の流れまで繊細に、まるで彫刻のように見事な出来であるにも関わらず。しかし英俊はその問いに対し、口元に薄く笑みを浮かべてみせた。
「この蛙の腹には玉(ぎょく)が入ってるのさ。普段はこうして何気なく飴を売ってるが、その裏でやばい商品を隠して売買してるんだよ。まさか白昼堂々、道のど真ん中でそんなもんを売ってるとは誰も思わないからな」
 露天商はその時、相手がただ者ではないことを覚った。が、すでに手遅れだった。彼の首筋は、ひやりと冷たい刃の感触を押しつけられていたのだ。
「き、貴様は何者だ……!」
 顔色を失った男は低くうなった。ここで大声を上げようものなら、その瞬間に二度と喋れなくなるだろう。しかも英俊は刃物を巧妙に袖口に隠しているため、周りの露天商も通行人も誰一人異変に気づいていない。
「おまえさんと同じ、影に生きる者さ。だから手の内もよくわかるってわけだ」
 英俊の悠然とした笑みは、端で見ている悠遠の背筋をも寒くさせるほどだった。――すでに彼は一般人の仮面を脱ぎ、《影》の顔に戻っている。相手が男の時の、彼の悪い癖だ。
「別にお上に突き出そうっていうわけじゃない。ちょっと教えてほしいことがあるのさ。――こいつの出どころをな」
「なぜそんな……っ」
 しかし、露天商はそれ以上声を出すことができなかった。英俊が素早く手首を翻し、冷たい刃を閃かせたのだ。
 露天商が「ひっ」とつぶれたような悲鳴を上げると同時に、琥珀色の蛙の腹はぱっくりと裂けた。中からころりと転がってきたのは、飴よりも艶やかな光を放つ琥珀色の玉だった。
 それを無造作に拾い上げると、英俊は手の中で転がしながら値踏みをした。
「ふぅん、色も形もまあ上玉といったところだな。とてもその辺の市場に出回るような代物じゃない。もしや墓でも荒らしたか?」
 王侯の陵墓荒らしは重罪である。貴人の体に手をかけるのと同罪と見なされ、刑死は免れない。そんな嫌疑をかけられ、露天商は慌てて首を振った。
「だ、誰がそんな真似をするか! そいつは流れてきたんだよ!」
「ほう?」
 聞き返す英俊の瞳の奥に、鋭い光が閃いた。
「なるほど、じっくり聞かせてもらおうか。ついでにこの娘の食事代も出してもらうぞ」
 どうやら無銭飲食は回避できそうだった。



 結局、大して締め上げることもせず、英俊はその飴売りを解放してやった。
「さんざん脅した割には、ずいぶんあっさりと放してやったんだな」
 何となく釈然としない悠遠がそう言うと、英俊は小さく笑った。
「別に小悪党を取り締まるのが目的じゃないからさ。それに、聞きたいこともわかったしな」
 あまり強く脅さなくても、露天商はぺらぺらと喋った。身の危険を充分に感じ取ったのだろう。さらに予想外の大食娘の食事代まで払わされ、人生でも指折りの厄日になったに違いない。
 その哀れな男の吐いたところによると、どうやら玉の出どころは宮中の太常府であるらしかった。
「宮中の官吏が御物を横流しとは、ずいぶんとお粗末な話だな」
 悠遠はそうつぶやいて溜息をついたが、英俊は別のことを考えていた。
 太常府は財貨や交易を司る部署であり、玉のような高級品も多く取り扱っている。しかし、だからといって官吏が私的に横流しできるはずはない。それが現実に行われているということは、それだけ宮中のたがが外れていることの証なのだ。

 ――そして。

 太常府は九府の一。阮少卿の属する太陰府もまたそこに含まれる。九府の筆頭に挙げられる太陰府は祭祀や儀礼、また卜占や医術をも統括する部署である。すでに御物も市場に流通するような現在、太陰府の官吏である阮少卿が、怨呪の香を手に入れるのは難しいことではないだろう。

 ――やはり、阮少卿に繋がるか。

 小者と侮るのはいささか危険かもしれない。英俊がそんなことを考え始めていた時、大路に集まった群衆から、わっと歓声が上がった。
「巫女様がおいでなすったぞお!」
「ああ、ありがたいありがたい」
「こらぁ、まっすぐに見るんじゃねえ! ひれ伏さねえと神罰が下るぞ!」
 群衆は口々に叫んでいる。中には涙を流す老人も、平伏して拝み始める青年も、熱気に気圧されて泣き始める子供もいる。その視線の先には、ひときわ高い渡月宮の月台があった。
「――いよいよお出ましかな」
 英俊はつぶやいて、にやりと笑った。相変わらず何か含むところのある笑顔だ、と隣の悠遠は思った。
 月台に現れたのは月の巫女。今上の生母にして祭事の最高位をも得る太后である。
「月の巫女は絶世の美女という話だが……こう遠くてはよく見えないな」
 影鬼の一員である悠遠は人よりはるかに目が良いとはいえ、豆粒ほどの大きさでは美醜まで判別することはできない。つま先立ちして遠くを眺める悠遠を横目で見やると、英俊は不意にこう口にした。
「それもそうだ。もうちょっと近くに寄るか」
「え? わっ、おい、英俊!?」
 次の瞬間、悠遠の両足は宙に浮いていた。
「こらーっ、英俊! 勝手に何をする!? 離せっ、下ろせーっ!」
 悠遠は足をばたつかせてわめいたが、英俊はまったく聞き入れる様子もない。何と英俊は、悠遠を抱きかかえたまま人家の屋根に上ったのである。
「食べ過ぎでろくに動けんだろう。おとなしくしていろ」
 軽く笑いながら、英俊はそのまま屋根づたいに駆けてゆく。
 人一人を抱えて屋根を次々飛び越えるなど、決してまともな人間のすることではない。というより、不可能だろう。しかし影鬼の中でも特にずば抜けた身体能力を持つ英俊にとって、この程度のことは修行よりも簡単だった。
 悠遠の制止も無視して、英俊はついに月台のすぐそばの屋根までやってきた。
「ほらどうだ。よく見えるだろう?」
「わ、わかった……わかったから、早く、下ろせ……っ!」
 悠遠はすでにぐったりしている。屋根をいくつも飛び越すなど、普段の彼女にとっては何でもない。今の急激な疲労は、英俊の腕の中で暴れ続けたせいである。男に抱きかかえられたことなど、これまでに一度もない。
「まあ、そう照れなくても」
「誰が照れるか! そもそも目立ってどうするんだ!?」
「どうせ誰も見ちゃいないさ」
 思いっきり突き飛ばすようにして離れた悠遠に、英俊は軽く肩をすくめてみせた。
 すでに儀式は始まっている。群衆の視線は月台に注がれていて、誰も屋根の上で言い合う男女になど目もくれていなかった。
 そして肩で息をする悠遠も、その時ようやく視認した。
「――あれが、月の巫女……」
 悠遠は呆然とつぶやくことしかできなかった。月台にかなり近づいたため、盛装で民衆の前に現れた太后の姿を、彼女ははっきりと目にしたのだ。

 ――美しい、という言葉はありきたりすぎる。だが。

 さやけき月光のごとく、目にもまばゆい純白の巫女装束。月台で舞うたびに、その背で漆黒の髪が揺れる。
 宥月の舞――それは月に怒りを鎮めよと願う祈りの儀式。変事が起こったり、天災に見舞われたりした時に、唯一「月の巫女」だけが舞うことを許される。
 もちろんこの日も、宮中で起こった怪死事件の穢れを祓うために行われたのである。だがその舞は月に寛恕を請うというより、月をも魅了し籠絡できそうなほど濃艶な舞だった。

(あれが……本当に子持ちの太后なのか?)

 ぼうっと見入っていた悠遠は、やや不敬な感想を抱いた。
 月台で一心不乱に舞い続ける太后は、成熟した妖艶な女であった。

 ちりん。
 細い手首に嵌められた鈴が鳴る。
 ちりん。ちりん。
 うなじから胸元まで、白い素肌が透けて見える。
 ちりりん。
 陶器のような裸足の踝でも鈴が鳴る。
 ちりん。ちりりん。
 なまめかしく揺れる腰元にも銀の鈴。

 舞うたびに見える素肌の白さと、冷たく響く鈴の音が、その儀式をこの世のものとは思えなくさせていた。さらに、月をも蕩かすような相貌に蠱惑的な笑みを浮かべる。誰もが息を呑んで見入っていた。
 不意に、わっと歓声が沸き起こった。
 月への祈りを終えたのだろう、太后は月台に倒れ込むように平伏していた。――まるで、月と情を交わしでもしたかのような、濃密な艶と甘さをもって。
 その様をじっと見やりながら、英俊は隣で呆然と眺める悠遠に尋ねた。
「あれだけ浪費を重ね、国庫を傾けても太后を支持する人間が多い理由がわかるか」
「それは……?」
 ようやく我に返った悠遠は、瞬きしながら聞き返す。すると、英俊は小さく笑った。
「国を丸ごと籠絡したのさ、あの妖婦がな」
 大路にひしめき合う群衆は、割れんばかりの歓声を上げている。滂沱と涙を流す者、声を嗄らすまで太后を呼び続ける者、地面に額をすりつけてひれ伏す者が後を絶たない。
 太后は莫大な浪費のために、国を傾け続けている。その噂は民衆の耳にも当然届いているはずだ。それなのに、彼らは罵り憎むどころか、その姿に心奪われ、崇め奉っているのだ。
 ぞっと悠遠は背筋に寒気を感じた。

 ――太后は、単なる「絶世の美女」とは違うのではないか。

 そんな考えが彼女の脳裏によぎった。
 古来より、絶世と呼ばれた美貌の后妃は数多くいた。だが、傾国の美女は権力者以外からはとかく憎まれるものである。事実、その繊麗なること並ぶものなしと称えられた細首を誅戮者に刎ねられた美女も数多い。それなのに、この太后は完全に民心を掌握しているのだ。
 悠遠には国政に干渉する力などない。ただ宮中を縦横する影となり、権力者の意のままに動くことしか許されていない。だから普段は国情を思い憂えることなどなかった。

 ――だが、今は。

 急速に育ち始めた不安の芽に、悠遠は平静を失いつつあった。そんな彼女に不穏な種を植えつけた当人は、ただじっと鋭い視線を月台に向けていた。





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