第三章 落月


 英俊はただじっと沈みゆく月を見上げていた。完全に満ちる直前の月――十四夜。

 何とか奪還に成功した怜悧と閃火の二人は、いまだ昏々と眠っている。いつ頃目覚めるのかは、今のところ見当のつけようもない。香や毒物に最も詳しい怜悧に訊けない以上、ただ待ち続けるしかなかった。
 英俊は小さく息をつく。暦は春でもいまだ寒さの厳しいこの季節、夜風はしみ入るほど冷たい。宥月の儀があった夜は宴もないので、こんな時に出歩くような物好きなどほとんどいない。そのため、宮城の屋根に上って月を眺める不審な影に気づく者はいなかった。

 ――影鬼一隊の長。

 普段軽んじていたその肩書きが、今はひどく重いものに感じられた。
 彼と行動を共にする三人は、それぞれ事細かに命じずとも動くことのできる柔軟性と、それを可能にする高い能力を持っていた。だから彼は今まで難なく仕事を終えてきたのだ。今日までは。

(――おまえは誰も信用していない。――たとえ仲間であってもな)

 あの、どこまでも冷えきった声が脳裏をよぎる。何もかも見抜いていて、高みから嘲笑ってみせるあの男。

「兇星……」

 真っ向から刃を交わし、完全に敗北を喫したのは、あの男が初めてだった。それまで英俊は、一度として他人に後れを取ったことがない。だから、たたき落とされた刃をどう拾えばよいのかもわからなかった。

 ――敗北は、すなわち死。

 それが彼の信念でもある。影鬼の性質上、敗れたままおめおめと生きていることはできない。常に余裕で構えているように見えて、英俊はいざとなれば自分の喉を突くことぐらい簡単にできてしまうのだ。
 だが。
 あの男は、曲がりなりにも彼ら影鬼の上司である。初めから命を懸けて戦う相手ではない。そう、兇星は完全に遊んでいたのだ。
 持って行きようのない怒りが、英俊の身の内を熱くする。完全に燃焼することもできないため、それは燻り続けるしかなかった。

(――いつものおまえなら、いちいち雑魚を相手になどしないだろう。今日はいったいどうしたんだ?)

 そんな心中を読んだかのように、悠遠は英俊のわずかな変化に気づいた。

「まだまだ甘いということだな……」

 あまり心の機微に聡くないはずの悠遠にさえ読まれるとは。
 英俊は、その手に抱きとめた悠遠の体の感触を思い出した。あれだけ大食いしてもまだ足りないのか、華奢な体つきをした小柄な少女。成長しきれていない体は、自分が少し力をこめれば簡単に折れてしまいそうだ。
 そんな彼女に、なぜか兇星は執着している。それは間違いない。いつもちょっかいを出しているのは、単なる気まぐれや遊び心だけではないだろう。どの程度本気かなど、目を見ればわかる。

 ――あの目。

 他人を見下すように嗤う、氷のように冷たい瞳。まるで血が通っていないかのような。
 あんな男に敗れた自分に苛立ち、その腹いせのように悠遠に当たってしまったのだろうか。

「まったく、度しがたい……」

 自分は決して色恋に溺れることも、執着することもない。彼はそう思っている。数々の徒花を夜ごと摘むのも、執着することで縛られたくないからだ。――あの男とは違って。

「……俊、英俊!」

 宮城の屋根に上ってきた悠遠が、不意に英俊の名を呼んだ。

「どうした、悠遠。独り寝が寂しくて一緒に月を眺めにでも来たか。どうせなら酒の一献でも酌み交わしたいところだが」

 あえてふざけた返事をすると、悠遠は生真面目に怒ってみせる。

「馬鹿なことを言っている場合か。閃火が目を覚ましたんだ。風流人ぶってないで、さっさと降りてこい」

「ほう、それは朗報だな」

 ひとまず閃火だけでも目覚めたのなら、まだ影鬼一隊は続けられるだろう。無事を喜ぶよりも組織の機能を優先して考えてしまうことに、英俊は自嘲の笑みを漏らす。悠遠には、吉報に喜んでいるように見えるだろうが。
 報告だけ済ますと悠遠は素早く屋根を降り、英俊もそれに続く。眠そうな目をした夜勤の衛士たちには、彼らの動きは木々のざわめき程度にしか感じられなかっただろう。
 人に気配を覚られず、幽鬼のごとく身軽な影――それが、「人」ではない影鬼なのだ。



 だんだんはっきりとしてきた視界に映ったのは、見慣れた低い天井だった。
 影鬼の房舎――人知れず宮城に棲まう彼らの詰所は、壁の隙間にあるためひどく狭い造りになっている。だから二つ並べられた夜具は、ほとんど密接して敷かれていた。
 ゆっくりと半身を起こした閃火は、まだ開ききらない瞳で隣を見やる。生気があるのかと疑いたくなるほど白い顔をした怜悧を。

「怜悧……」

 彼女がまだ目覚めていなくて良かったかもしれない。閃火はそんなことを考えた。今、彼女と顔を合わせても何と言葉をかければいいのかわからない。
 詫びることはたくさんある。またも弱点をさらし、昏倒してしまったこと。怜悧を逃がすどころか一緒に捕らえられてしまったこと。殺されかけても何の役にも立たなかったこと。そのどれもが自分を落ち込ませるのに充分な要素である。すでに閃火の自信は地を潜って地底にまで突き抜けそうな勢いだ。
 しかし、彼の思考を最も占めているのは別のことだった。

「……怜悧公女、か……」

 阮少卿が口にした呼び名は、閃火に大きな衝撃を与えた。確かに怜悧は、黙っていれば深窓の令嬢にしか見えない。上品な口ぶりや物腰も、上流家庭で育ったものと見て間違いないだろう。――それでも。

「公女が何でこんな仕事を……?」

 思わず疑問をつぶやいてしまう。公女ということは、皇族王族の係累の家柄であるはず。一般庶民からすれば雲の上の存在だ。なぜそんなお嬢様が、最も忌まれる影の者にまで身を落とすことになったのか。

「……誰にも事情というものがあるのですわ」

 その声に、閃火は縮み上がりそうなほど驚いた。心臓の体積が少し減ったかもしれない。

「れ、怜悧! 起きてたのか!?」

「つい先ほどですけれどね……」

 つぶやくように答えながら、怜悧は白くほっそりした手を自分の額に当てた。熱はどうやら下がったようだ。眠っている間に苦しんだらしく、脂汗のじっとり浮いた額に前髪が貼りついている。

「怜悧……ごめん、俺……」

 閃火は肩を落として「ごめん」を繰り返した。実際、謝っても謝りきれない。本当は自分が彼女を守らなければならなかったのに。
 しかし怜悧は彼の謝罪を聞いているのかどうか、別のことを口にした。

「……わたくしの家は六王家の傍流でしたの」

 六王家とは、帝室に連なる六親族を王に封じた家系である。その六王家の係累ならば、たとえ傍流でも身分は格段に高い。帝室に后妃として迎えても釣り合いがとれるほどだ。
 それが、なぜ。
 閃火は黙って続きを待った。

「けれどもわたくしの父が朝廷で罪を得て失脚し――我が家はあっという間に零落しましたわ。親族からは縁を切られ、使用人たちも次々に去り……誰もいなくなった家へわたくしを引き取りに来たのが、誰あろう羅太師でしたの」

 怜悧はなるべく多くを語ろうとしなかった。どのみち言っても詮ないことなのだ。要領の悪い父が罪を着せられて刑死し、母が発狂して邸に火をつけ、自殺したなどということは――

「そんな……今からでも抜けることはできないのか? 親族だって、一人くらい残ってるだろう?」

 無駄とは知りつつも、閃火はそう訊かずにいられなかった。だが怜悧は静かに首を振る。

「無理ですわね。わたくしはすでに身も心も奪われた、ただの影。人の手足となって動くことしか許されていませんわ」

 影鬼は人の形をした影。一度身を落とせば、二度と人に戻ることはできない。
 そして怜悧は首をめぐらす。同じように闇をさまようもう一人の影に向けて。

「あなたも――そうでしょう? 閃火」

 その言葉に、閃火は否と答えることはできなかった。彼もまた《影》となった身。いまさら引き返すことなどできないのだ。
 どうしようもない自分たちの立場に瞑目し、閃火は苦々しげに口を開く。

「……どうして……影鬼になったんだ? 鬼才に無理矢理させられたのか?」

 羅太師――すなわち鬼才が引き取りに来たということは、初めから影鬼にする目的だったはずだ。あの鬼才が、幼い少女の意思など考慮するわけがないだろう。しかし、怜悧は毅然と答える。

「他に道があったとしても、わたくしはきっと影鬼になっていたはずですわ。たとえ細い糸でも、陛下との繋がりが残されている以上」

 陛下、と聞いて閃火は目を見開いた。

「天子と知り合いなのか!?」

 驚く閃火に目も向けず、怜悧はゆっくりと話し始めた。

「小さい頃はよく一緒に遊んだものですわ。まだ男女の別のない幼少時でしたし、それに陛下も正式に太子として叙せられる前でしたから。今となっては懐かしい思い出ですわ」

 そう言うと、怜悧はかすかに目を細めた。甦るのは遠い記憶。幸も不幸も知らず、今日と同じ日が来ることを疑いもしなかったあの頃。
 四十三人の異母姉を持つ少年は、生まれた時から帝位につくことを約束されていた。四十四番目に初めて得た帝室の男児。彼の誕生は多くの祝福と、一部の憎悪を同時に産み落とした。
 天子が長年太子を得なかったことは、ごく薄い血縁の男たちに野望を抱かせるに充分な要素だった。傍系の傍系であろうと、一滴でも帝室の血が流れている者は、公主の花婿となれば帝位につける可能性があったのだ。しかも花嫁候補は四十三人もいる。多くの者たちが陰でその座を争っていた。
 しかし、彼らにとって不幸なことに、ついに太子が誕生した。彼らの野望はただそれだけで打ち砕かれてしまったのである。

『……ねえ怜悧、姉様たちはどうして僕を嫌うのかな』

 まだ幼かった太子は、震える声でいつも同じことを訊ねた。ほとんど歳の変わらない怜悧はその答えを知っていたが、教えてやることはできなかった。
 太子に対する敵意は、嫌がらせなどという程度のものではない。公主たちは未来の皇后になる夢を、一人の男子の誕生によって奪われてしまったのである。中には本気で暗殺を考えていた公主もいたかもしれない。
 大事な太子は厳重に警護されてはいたが、剥き出しの敵意や悪意は直接、幼い少年にぶつけられていたのだ。
 そんな太子に怜悧が近づけたのは、皮肉なことに彼女の父が朝廷で大した役職に就いていなかったためである。野心と無関係な人物だと誰からも思われており、特に危険視されなかった。だから少年は、自分の心情を歳の近い少女に吐露することができたのだ。

『大丈夫、私はいつもあなたの味方よ。――洪瀾』

 そう励ました時の、嬉しげな少年の顔を彼女は決して忘れることはないだろう。今でも目を閉じれば、鮮やかに甦る。

(――洪瀾)

 怜悧は、胸の中でそっと呼びかけた。
 今日までに、彼女は幾度も死と直面した。影鬼は常に危険と隣り合わせ。それでも生き延びてきたのは、たとえ細い糸でも繋がりが残されていると信じていたからだ。
 ……たとえ触れることができなくとも。

(――大丈夫。私はずっと待っているから)

 ようやく毒が抜けてきた怜悧の頬に、生気が戻ったようだった。その薄い唇には、ほんのり柔らかな笑みが浮かぶ。今の彼女は視界に閃火が映っていても、意識には入っていないだろう。彼女はかつての思い出に浸っている。そこに閃火が踏み込むことは不可能だ。
 閃火は決して埋まらない距離があることを、この時改めて気づいた。――嫌でも気づかされてしまった。
 どれだけそばにいても、決して届かないものがあるということに。



 怜悧と閃火の静かな会話を聞いていた二人は、しばらく口を閉ざしたままその場を動かなかった。

 ――怜悧が公女?

 あまりに予想を超えた事実に、悠遠は言葉を失っていた。英俊とともに戻ってきた時にはすでに怜悧も目を覚ましていて、ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、まさかこんな会話を聞くことになろうとは。

(確かに、怜悧は見るからにお嬢様だ……だけど、まさか)

 貧乏育ちの粗野な自分と、怜悧は明らかに違う。そんなことはわかっていたが、公女という極めつけに高い身分の少女が影鬼になるなど、あまりに予想外だった。
 強い衝撃にとらわれて無言でいた悠遠に対し、英俊は不意に口を開いた。

「……怜悧も無事目を覚ましたようだな。心配もなくなったことだし、俺はちょっと外に出てくる」

「は? え、英俊?」

 英俊は今の会話を聞いて何とも思わなかったのか? そう思ったが、彼の行動は素早く、話しかけるよりも先に房舎を出てしまった。

「何なんだ本当に……」

 どうにも英俊の様子がおかしい。もはやそれは疑念ではなく確信に近い。今までまったく女扱いなどしたこともない自分に対し、急にべたべたと構ってくるようになったのも、異常行動としか思えない。――女としての自覚が全くない悠遠は、言い寄ってくる男などこの世に存在しないとさえ思っていた。
 怜悧たちに話しかけるのをやめ、そのまま自室に引き返した悠遠は、ぼそりとつぶやく。

「まったく、英俊にしろ兇星にしろ、本当にろくな男がいやしない……」

 自分にやたらとちょっかいを出してくる男の名を苦々しげに吐き捨てたところで、背後から不服そうな声が上がった。

「あんな男と同列に並べられるのは心外だな」

「――っ! き、兇星!」

 悠遠は飛び上がりそうなほど驚いた。見て確かめるまでもなかったが、振り向いて驚愕は衝撃に変わった。神出鬼没にもほどがある。なぜ、こんな場所にまで及んできたのだ。しかも気配を断ってまで。

「何をしに来た!? さっさと帰れ!」

「相変わらず冷たいな。別に取って食おうというわけではない」

 さらりと言ってのけた台詞に、悠遠は少し身構える。この狭く薄暗い室内に二人きりというのは、決して喜ばしい状況ではない。女の自覚に欠けてはいても、その程度の防衛本能くらいは残っている。

「……何の用だ」

 さりげなく下がって距離を取る悠遠に、兇星はかすかに笑ってみせる。彼女の心中などお見通しとでもいうように。だが、彼が口にしたのはまったく別のことだった。

「影の名に似合わず、ずいぶんと派手にやったようだな。阮邸から火が出たと、宮中でも騒ぎになっている」

 その言葉に、悠遠は黙り込む。兇星はさらに続けた。

「知っての通り失火は重罪。まして宮城の側近くではな。延焼がないだけましだが、今後は人目につくような行動は控えてもらおう」

「……すまない」

 案外素直に悠遠は謝った。もともとあまり深く考えるたちでない彼女は、火が宮城にまで及ぼす可能性に気づいていなかったのだ。

「まあ、どのみち阮少卿の命運は決まっている。先日の証拠品により、呪詛のかどで断罪されよう」

「阮少卿は本当に呪詛をしていたのか?」

 悠遠は「断罪」の言葉を聞きとがめた。
 確かに先日、悠遠たちは阮邸に潜入した時、命令通りに呪詛の香炉を押収した。だが、実際に呪詛を行っているところを目撃したわけではないし、その香炉が本当に呪詛用だと断定することは難しいだろう。香りを嗅ぎ分ける怜悧がそう言っているだけのことなのだ。阮少卿が弁明する余地はいくらでもある。
 そう思って聞き返したのだが、兇星は薄く笑った。

「真実など関係ない。だが証拠の品があって、実際に人死にも出ていれば、問答無用で処罰することができる」

「だが楊丞を殺したのは呪詛ではなく、毒香なんだろう?」

 今度こそ悠遠は驚いた。楊丞が殺されたのは、彼ら影鬼が香炉を奪った後のこと。呪詛で殺せるはずもない――と、彼女はそう思ったのだ。
 実は阮邸には他にも怪しげな道具が山ほどあるのだが、彼女はそれらを目にしていない。

「宮中の意向というやつでな。呪詛ならば月の巫女が穢れを祓ったと言うことができる。民はそれで安堵し、巫女はいっそう権威を保つことができるのだ。それに照絲の製法は不出とされている。阮少卿程度の小者のために、証拠として人前に出すわけにはいかぬ」

 月台で行われた宥月の儀。あれが穢れを祓ってくれる――少なくとも民衆はそう信じている。なまじ毒殺されたなどと知れれば、宮中に不穏な空気を広めてしまう。そもそも阮少卿は太后派の筆頭。対立する清新派を抹殺したなどと言われれば、太后の立場が悪くなる。呪詛ならば、「国家転覆を謀った」と言えば楊丞を直接狙ったことにならない。楊丞の怪死も、月の加護厚い帝室の身代わりに忠烈なる官吏が犠牲になった、とでも言えば説明がつく。それが最も穏便に事を済ませる方法だ。
 だが兇星は、細かな説明はあえて省いた。この少女がそれを求めておらず、また知ったところで無意味であることをよくわかっていたのだ。

「それが……宮中のやり方か」

 悠遠はうめくようにつぶやいた。太后の元で出世していたはずの男。それを「宮中の意向」とやらは、こうもたやすく切り捨ててみせる。その冷酷さを目の当たりにして、悠遠はただ歯噛みするより他ない。自分もまた、使い捨ての道具であることを自覚しているからこそ。

「そうだ。――不服か?」

「……面白くは、ないな」

 苦々しげに吐き捨てると、兇星はどこか嬉しげな表情を浮かべた。

「おまえは正直で良い。それでこそ楽しみがいがあるというものだ」

 歌うように告げながら、兇星はいつものように悠遠に手を伸ばした。その素早さは相変わらず。悠遠は構えるのが一瞬遅れたが、なぜか兇星の手は触れようとする寸前に止められた。

「……?」

 訝しむ悠遠の前で、虚空をつかむように拳を開閉させると、兇星は何もしないまま手を引っ込めた。
 あまりに珍しい。かえって拍子抜けして、悠遠は幾度も瞬きした。いつもなら嫌がっても平気でべたべたしてくるのに、今日はいったいどうしたというのか。
 そう思った時、はっと悠遠は我に返った。――これではまるで、触ってほしがっているようではないか。冗談ではない。
 急に頬を紅潮させ、ぶんぶんと首を左右に振る悠遠を、まるで面白いものを見るように眺めやると、兇星はゆっくりと立ち上がる。
 まさに出て行く寸前、追い返そうとしていたはずの悠遠は、しかし兇星を呼び止めた。

「待て、兇星。――おまえ、阮少卿の邸にいたんじゃないか?」

 その問いかけに、立ち去りかけていた兇星はぴたりと足を止めた。

「……なぜ私がそんなことをする必要がある?」

 その時、兇星の声が一段低くなったように悠遠には感じられた。
 確かに、自分たち影鬼を操る兇星が、自ら現場に赴く必要はない。それはわかっている。それでも彼女は自分の疑念を消すことができなかった。

「おまえを……見た気がしたんだ。それで、追っていったら目の前で消えた」

 あの時――煙の向こうに現れた人影を、兇星だと彼女は思った。白くかすんだ視界の中では、確実にそうだと断定することは難しい。それでも遠目のきく自分が、身近な人間を見間違えたりするだろうか。
 しかし、兇星は彼女のそんな言葉に対し、かすかな笑みを浮かべてみせた。

「幻を見るほど私に会いたかったのか?」

「ば、馬鹿、違う!」

 結局、からかわれる材料を提供しただけに終わってしまった。くく、と喉を鳴らしながら、兇星は唇の端をつり上げて笑ってみせる。

「お楽しみは夜にとっておこう。もう日が昇るからな」

 それだけ言うと、音もなく兇星は房舎をすべり出た。黙ってそれを見送った悠遠は、漠然と感じていた。
 その「人」の気配を感じさせない身ごなしは、まるで《影》のようだということに――





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