第四章 盈月


 すべての発端は、月の女神が気まぐれを起こしたことだった。

 今より二百年ほど前――当時はまだ小国の領主に過ぎなかった初代皇帝泰祖は、北方の蛮族を打ち倒し、周辺の部族を併呑して、一つの大国を築き上げるという野心に燃えていた。しかしその野望に比べ、彼の持てる力は脆弱なものだった。版図は狭く、土地は痩せ、さして大きくもない軍勢を食べさせるのに精一杯な有様だった。

 生産力が低い原因は、周囲の国々の中でも群を抜く日当たりの悪さだった。国土の大半が急峻な山地で、一日の日照量が足りず、また平地も水はけの悪い地質のため、作物がなかなか実りにくかったのである。

 彼らの国は、周囲から「翳(えい)」と呼ばれていた。翳とは、すなわち陰翳(かげ)。山野の陰にひそむ者よと、彼らは嘲弄されていたのだ。だが、それを黙らせるには圧倒的な力が必要となる。だからこそ泰祖は力を欲し、そして月に願ったのだ。

夜の長い「翳」の国にとって、月は太陽よりもなじみ深いものだった。それゆえに、かの国では月神を称える風習が古来よりあった。そして泰祖も、月に供物を捧げて毎夜祈り続けた。新月から、弓を引き絞ったような望月になるまでの十五日間、彼は夜の間中ずっと一睡もせず、ひたすら祈った。

 その声は、月に住まう女神の耳にも届いていた。常ならば聞き入れるはずもない、ちっぽけな人間の願いだったが、珍しく女神は好奇心をくすぐられた。たかだか小国の主が、どこまでできるか興味を持ったということもあるだろう。千年に一度あるかないかの気まぐれを起こしたのだ。

 そうして月の加護を得た泰祖は、女神の予想以上の力を発揮し、ついに大国を築いた。そして国号を「盈」と改める。満ちた月を表すその文字は、国の力が充足したことを物語っていた。月は彼と彼の国に大いなる力をもたらした。だが、もちろん無償での取引ではない。月に加護を請う代わり、彼が告げた「己の子孫は末代まで月を崇める」という誓約を守り通さねばならなかった。

 しかし、月に頼って命脈を保ってきた国は、長い歳月を経るうちに変質してきた。月からの陰気を受けすぎたため、陰陽の均衡を失ってしまったのである。そうして十一代皇帝の御代には、こごりすぎた陰の気質により、女児ばかりが四十三人も生まれるという異常事態に陥った。

 地上に充ち満ちた陰の気が、世の理を乱していることを、天上から見守る月の女神も覚っていた。そうして、ついに女神は地上に降りた。――自らが力を授けた国の、その行く末を見届けるために。

 女神の地上での位は、月の巫女。地上で直に月の力を与えるため、あえて彼女はその座に就いた。だが、彼女も誤算だっただろう。陰気に餓えた天子が、月の巫女を求めるに至るなどとは。

 いったん地上に降りた以上、その身は人と変わらない。それゆえに退けられなかったのか。それとも――またもや気まぐれを起こしたのか。彼女は求められるまま、皇后の座に収まった。こうして月の力を得た天子は四十四番目にようやく男児をもうけ、世の人々は快哉(かいさい)を叫んだ。これで帝室は安泰になると、誰もが思った。だが。

「私は生まれ落ちた時から、地上に命を繋ぎ止めることが難しかったのだ」

 兇星の語る話を、悠遠は無言のままじっと聞いていた。というより、口を挟む余地もなかったのだ。彼女の想像もできないような物語が、この国の起こりから連綿と受け継がれていたことに、ただ無言で驚くことしかできなかった。

「それは……病弱だったとか、そういうことか……?」

 ようやく口を開いた悠遠が言えたのは、そんな言葉だった。自分もすでに人ではなくなっているにも関わらず、彼女は闇の世界事情にひどく疎い。そのことが充分窺える台詞に、兇星もかすかな苦笑を浮かべる。

「いや、そうではない。ちょうど今のように、現世に姿をとどめていることができなかったのだ」

 そう言いながら、兇星は食卓に置かれたままの箸を持ち上げようとした。だが、彼の手はするりとすり抜け、卓すらも通ってしまう。つい先程、悠遠に触れようとしてできなかったのと同じ現象だ。

「な…なぜだ……? だっておまえは、いつも――」

「いつもおまえに触っていたのに、か?」

「!! そういう言い方をするな!」

 からかうような口ぶりに、思わず悠遠は顔を紅潮させて叫んだ。そんな反応はいっそう兇星を喜ばせるだけなのだが、混乱している彼女にそこまで考える余裕などない。

「私は月のある夜だけ、姿をとどめていられるのだ。だからこうして月が雲に隠れている時は、箸一つ持ち上げることすらできぬ」

 悠遠は窓の外に目をやった。確かに夜空は厚い雲に覆われ、月はおろか星一つ見えない。
 彼女は再び視線を兇星に戻し、あえぐようにつぶやいた。

「どうして、そんな……」

「今の私は分かたれた魂のうち、陰の気質を持つ。本体を持ち、陽の魂を宿す天子と違って、陰気に満ちた夜しか生きられぬのだ」

 兇星は、陰気を求める先帝と陰気に満ちた月の巫女との間に生まれた。そのため、人並み外れた陰気を内包していた。だが、陰陽の均衡を大いに失いすぎた身では命すら危うい。そこで太后は我が子の魂を裂き、陽気を宿した本体を天子として生き長らえさせることにしたのだ。

「魂を裂くだなんて、そんなことができるのか?」

「おまえも覚えがあるだろう? あの鏡を使うのだ」

 鏡、の一語に悠遠は小さく息を呑んだ。そう、その記憶は忘れようとしてもできるものではない。あの時――彼女が人買いに連れ去られ、絶食後になぜか大量の食事を出された時、すべて平らげた彼女の元に現れたのが、この兇星と鬼才だった。そして満腹になった悠遠に、鬼才はあの鏡を向け――そして彼女の意識は闇に落ちた。やがて目を覚ました時、彼女は闇に縛られた《影》となっていたのである。

 そのように彼女の魂魄の一部を吸い取った鏡は半月形をしていたが、元は満月のような真円だった。その円鏡で太后は我が子の魂を陰陽に裂き、鏡を半分に割った。その後、陽魂を司る上弦鏡は太后が保管し、陰魂を収めた下弦鏡は地下深くに眠らせたのだ。

「だが、地下といってもおまえは今、ここにいるじゃないか……」

「地下で眠っていた私を、鬼才が呼び起こしたのだ。鏡の封印を破ってな」

 天子を生かすために裂いた魂の片割れは、太后にとって不要なものでしかなかった。そのため、地下に封じた後は顧みられることもなかった。

 だが、その鏡を鬼才は封印から解いた。そうして眠りから覚めた兇星は、まともな体も持たぬまま、鬼才によって使役される身となったのである。

「では、おまえも《影》と同じなのか……?」

「もっと悪いだろうな。何しろ影鬼と違って、月夜にしか動けぬ影なのだから」

 兇星は自嘲めいた笑みをこぼした。

 影鬼は人目にはただの人間と変わりないが、自分は違う。月夜以外は半透明の幽鬼姿をさらさねばならない。これまで兇星が影鬼との対面を御簾越しに行っていたのは、素顔を見せないためではなく、この事実を隠すためだったのだ。

「……鬼才はいったい何を企んでいる? この国を乗っ取ろうとしているのか?」

 ここまで来ると、さすがに悠遠も眉をひそめずにはいられなかった。しかし、対する兇星の返答は素っ気ない。

「奴は世俗の権益になど興味はなかろう。これまでにも国家を転覆させる機会など、いくらでもあったのに実行しなかったのだからな」

「だが――」

 悠遠は、なおも言いつのろうとした。鬼才が何かよからぬことを考えているのなら、そのとばっちりを受けるのは間違いなく自分たちなのだ。だからこそ兇星から聞き出そうとしたのだが、その目的を達することはできなかった。

「――!?」

 突如、強い痺れが彼女を襲った。手から力が抜け、思わず取り落とした皿が、中身を飛び散らせて床に転がる。それに数拍遅れて、彼女自身の体も椅子から転げ落ちた。

 小刻みに震えながら、彼女はわずかに首をめぐらし、視線を上に向けた。そこには、突然倒れ伏した少女を冷たく見下ろす闇の顔があった。

「ようやく効いてきたようだな。さすがは次代の巫女と目されるだけある。本来なら熊や虎でも、とうに動けなくなっている量の照絲を混ぜておいたのだがな」

「おまえ……っ!!」

 悠遠は一瞬で事態を覚った。

 鬼才(じじい)だけでなく兇星(おまえ)まで毒を盛るのか! 

 そう叫びたくても、うまく声が出せなかった。鬼才から「毒が効かない」とお墨付きをもらった体だが、それでもやはり猛獣すら倒せるほどの量ではかなわないということか。痺れはもはや全身に回り、指先を曲げることすらできない。

「私が元の体に戻るには、強い陰気が必要なのだ。そう、月の巫女に匹敵するほどのな。おまえが素直に私のものになると言うなら、今すぐ苦痛から解放してやろう」

「ふ、ふざけるな……っ!!」

 悠遠は反射的に叫んだ。叫んだつもりだったが、舌も痺れてうまく呂律が回らない。しかも蛙のように倒れたままの姿ではまったく様にならないが、そんなことに構っていられるような場合ではなかった。

 ここまでされて唯々諾々と従えるはずもなく、悠遠は即時に拒絶した。
 だが、その一言が彼女の命運を分ける。

「――そうか。それは残念だ」

 ざあ、と木々がざわめいた。夜風が強さを増して吹き抜ける。

 床に倒れ伏したままの彼女は気づくはずもなかったが、厚い雲が風に流れ、いつの間にか天上には満月が再び顔をのぞかせていた。
 月は、「影」たる兇星に力を与える。

 箸さえつかむことのできなかった身が、今は悠遠の体を軽く持ち上げ、その腕にやすやすと収めてしまう。完全に麻痺した体では、抗うことなどできない。ただ兇星の行為を苦々しく見つめるしかなかった。

 兇星は、動けなくなった悠遠の体を腕に抱き止めると、首筋に唇をそわした。

 悠遠は総身に鳥肌が立つのを感じ、何とか力を振り絞って抵抗しようと試みた。だが、反抗は呆気なく鎮圧され、逆に指先が食い込むほど強く手首をつかまれてしまう。そのさなかにも、幽鬼にしては熱すぎる舌が彼女の首筋を撫でた。

 どくん、と心臓が跳ねる。
 熱い首筋が、それに鳴動するように脈打つ。

 憤怒と羞恥で、悠遠は全身に痺れとともに熱い血がたぎるのを感じた。毒で動きを封じられ、体の自由を奪われていなければ、間違いなく殴りかかっていただろう。それができないのが、ひどくもどかしい。

 顔を紅潮させ、何とかもがこうとする彼女の様子を見つめながら、兇星は赤くぬめった唇から嬉しげな声を発した。

「では、無理にでもいただくとしよう」

 その次に出た彼の行動は、しかし悠遠の予想をはるかに超えていた。

 ――ぷつり、と皮膚の切れる音が耳のすぐ下で聞こえた。

 痛みは遅れてやってきた。一瞬、何事が起こったのかわからなかったが、熱いものが流れ出る感触で、悠遠は自分が首筋を噛みつかれたのだと気づいた。

「や…やめ……」

 だが、小さくかすれた制止の声を兇星は聞き入れようとはしなかった。その代わり、首筋からあふれ出る熱い血を、ずるずるとすする嫌な音が続く。

 息が苦しい。声が出ない。

 強くつかまれた手首は力を失い、指先の感覚が次第に消え始めている。だんだん意識が薄れ、視界がかすむ。音すらも遠のいて――

「――そろそろ宴はお開きの時間だぞ」

 聞き覚えのありすぎる声に、悠遠は意識を覚醒させた。
 そして、何とか開いた目に映る姿に、彼女は仰天する。

「英俊……っ!?」

 腰に手を当て、偉そうな立ち姿で、英俊は大仰に溜息をつく。

「まったく、食い物に釣られるからこういう目に遭うんだぞ、全身胃袋娘」

「だっ」

 誰が全身胃袋だ、と言い返そうとしたが、鯉のように口をぱくぱくさせることしかできなかった。そんな悠遠から視線をずらし、英俊はわざと軽々しい口調で言い放つ。

「魂の片割れだか何だか知らんが、幽鬼(ゆうれい)にそう勝手な真似をされては、影鬼(かげ)も迷惑するんでね。この際、きれいさっぱり消えてもらうとしようか」

 それはもちろん、兇星の背中に向けて発せられたものである。そしてその台詞から、英俊が兇星の話を陰で聞いていたことが知れた。彼は最も効果的な時機を見計らって入ってきたのだろう。

 兇星は悠遠の体を放すと、ゆっくりと振り向いた。

「おまえにできるかな」

 兇星は薄く笑む。対する英俊も口の端で笑う。微笑を浮かべた二人の視線がぶつかり合ったその瞬間、彼らは同時に動いた。まるであらかじめ示し合わせたかのような身ごなしで、両者は素早く地を蹴った。

 そして目で追うのがやっとの速さで、彼らは窓から外へと飛び出していった。






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