終 章

 


 月台に、さやかな鈴の音が響き渡った。
 巫女が跳ね、舞うたびに、手首と足首にあしらわれた銀の鈴が鳴る。

 月に捧げられたそれは、宥月の舞。

 小柄な巫女は、時折そのまま倒れそうなほど大きく体を揺らした。ぐらりと小さな体が傾ぐたび、地上の観衆は、わっとどよめく。

 そうして最後の舞を終え、巫女が月台にひれ伏すように倒れ込むと、惜しみない拍手とひときわ大きな歓声が上がった――







「まさか代役を引き受けるとは思わなかったな」

 宥月の儀を終えた巫女をねぎらいながら、兇星は汗を拭う手巾を渡した。しかし、「巫女」は実に不機嫌そうな顔で答える。

「……命を救ってもらった礼だからな」

 宥月の舞を披露した巫女――それはすなわち悠遠である。

 突然の月蝕は大いなる凶兆とされ、すぐにも宥月の儀が必要だった。しかし本物の月の巫女はすでに月へ還っており、代役を立てねばならなかった。そこで月の巫女に次ぐ陰気を持つ悠遠が、巫女代理に選ばれたのだ。

 だが、舞など習ったこともない彼女が、そう簡単にできるはずがない。そこで、まさに半日漬けの猛特訓が仕込まれ、ほとんどふらふらの状態で月台に赴いたのだった。途中でぐらぐらと揺れていたのは演出ではなく、本当に倒れる寸前だったのだ。これでは不機嫌にもなろうというものである。

「だが! これで貸し借りなしだからな!!」

 怒鳴りつける悠遠をなだめるように、兇星は「わかったわかった」と肩を叩いた。実際、この先はもう「月の巫女」としての職務など滅多にないだろう。兇星はそのことを誰よりも知っていた。今、兇星は昼間でも自分の「体」を手にしている。彼が盈月鏡を割ったことにより洪瀾の魂は体から抜け出し、兇星の魂はそこに入り込むことができたのだ。

 そうして洪瀾と嫦娥はともに月へ昇り、ただ一人地上に残された兇星は、天子としての責務を果たさねばならなかった。

 玉座についた彼が真っ先にしたのは、太師の罷免と太后派の解散だった。鬼才は嫦娥から打ち捨てられた傷心と絶望を抱え、どこぞに消えてしまったので、この処断に反対できる者はいなかった。太后派も、首魁である阮少卿の亡き今、残った者たちにろくな力はなかったのである。

 まだ公に明かしてはいないが、兇星はこの後も人事の刷新を初めとして、親政による急速な改革を次々に打ち出すつもりでいた。反対があろうと勅令で断行する覚悟である。そうでなければ間に合わないのだから――

「おまえは、月の巫女になるつもりはないのだな」

 念を押すような兇星の問いに、悠遠はきっぱりと即答する。

「お断りだ!」

 叫んで拳を振るったが、いつもよりも体が重い。確かに彼女はまだ本調子ではない。だが、それを差し引いても鉛を全身に貼りつかせたかのような重さに、彼女は愕然とした。

 驚きに目を見開く悠遠の姿を見て、兇星はもっと驚かせるような注意を与えた。

「あまり無茶な行動はしないほうがいい。――おまえたちはもう《影》ではないのだから」








 静かに歩み去る背中を陰で見送りながら、兇星は自嘲気味につぶやいた。

「……まったく、柄にもないことをしたものだ」

 悠遠が巫女の代理で舞った以上に、らしくない行動を取ったものだと彼は苦笑した。まさか、この自分が人助けをすることになろうとは――
 あまりの似合わなさに苦笑すると、その後から短い問いが上がった。

「止めなくてよろしかったのですか?」

 そう訊ねるのは怜悧だった。引き留めるなら今しかない、本当にこれでいいのか――と、彼女の瞳は雄弁に語っていた。だが兇星はそれには答えず、逆に問い返した。

「おまえこそ閃火に付いてやらなくて良かったのか?」

 閃火、という一語が彼女の胸にずきりと突き刺さる。少しためらった後、彼女はうつむきながら答えた。

「……少し、時間をくださいと言ってありますの」

「そうだな……おまえたちにはまだ時間がある」

 兇星は、ふっと目を細めた。

 そう、彼女たちには多くの時間と限りない可能性が残されている。ならば、少しくらい迷ったり悩んだりして、回り道しながら答えを見つけるのも良いだろう。

 ――だが、兇星には時間がない。

 洪瀾の魂が月へ昇ったため、兇星はようやく体を得たが、その代わり彼は魂の半分を永久に失ってしまった。さらに月の女神も地上から消え、陰陽の均衡は完全に破綻している。突如起こった月蝕が、その合図。

 嫦娥はともに昇った我が子だけを慈しみ、地上から顔を背けてしまったのだ。月の加護を失ったこの国が、急速に傾いてゆくことはもはや必定。そして、巫女から陰気を得られない天子の命数は、あとわずかしか残されてはいない。

 この結果を導いたのは、紛れもなく自分なのだ。その思いが、兇星に再び自嘲の笑みを浮かべさせる。なぜ自分はこうも柄にもない行動に出てしまったのだろうか、と。

 あの時――盈月鏡が元に戻り、還月の儀が始まった時、すでに兇星はこの世のものではなかった。月明かりの下でも幽鬼のごとき朧(おぼろ)な影となっていたことが、その証。もはや地上に姿をとどめられなくなっていたのだ。

 だが、だからといって何も鏡を割る必要はなかった。もう一度魂を二つに裂けば、再び元に戻れたかもしれないのだ。それでも兇星はその可能性を捨ててまで、鏡を砕いた。

 これまで鬼才に利用されてきたことに対する意趣返しの気持ちもあったのかもしれない。事実、鏡と女神を失った老人は、傷心を抱えて逃げるように去ってしまった。嫦娥とともに月へ上るという彼の望みは、地上の盈月とともに打ち砕かれたのだ。

 しかし兇星の取った行動は、同時に悠遠と閃火の命を救うことにもなった。

 盈月鏡には、影鬼たちから抜き取った魂魄が収められている。だから鏡を割ったことにより、中から飛び出した魂魄が元の体に戻り、彼らは息を吹き返したのだ。

 ――自分は、なぜ鏡を割ったのだろう。

 長年の望みを捨ててまで、盈月を葬ろうと突き動かした感情は何だったのか。鬼才への復讐心か、それとも酔狂でしかない義侠心だったのか。自問しても答えは簡単には見つかりそうもなかった。

「巫女がいれば少しは命が延びるのでしょう? それでも求めないとおっしゃいますの?」

 怜悧はなおも食い下がる。たとえ命が延びたところで、運命までは変えられないとは知りつつも。だが、そんな彼女に、兇星は少し意地の悪い言葉を返す。

「おまえはそのほうが良いのではないか?」

 怜悧は悠遠を殺そうとした。それは、愛する男が他の女を求めていたからだ。たとえ情愛や恋情によって求めていたわけではないとしても、自分以外の女が選ばれることは我慢ならなかったのだ。しかし――

「わたくしは……あなたに生きていてほしいのですわ……」

 それは、怜悧の嘘偽りのない本音だった。たとえ求められるのが自分でなくとも、もはやそんなことに構ってなどいられなかった。

 ただ、生きてほしい。それだけが彼女の願いだった。それなのに。

「……すまぬ」

 兇星は目を伏せ、そうつぶやいた。自分はいつも怜悧の望みを聞いてやれないのだと、彼は思う。だが、どうにもならないのだ。たとえ彼女の想いを受け入れてやったとしても、今からではいっそう傷つけるだけと知っているからこそ。

「おまえも、自分の道を見つけるがいい。もう影の呪縛から解き放たれたのだからな」

 それは明白な別離の言葉だった。少しうらめしそうに、怜悧もまた別れを告げる。

「……最後まで……冷たい方ですのね」

 兇星は自らを嘲けるように笑む。

「それが、私の気質だからな」

 陰なる魂として生まれ落ちたがために、彼は人に歪められた生を嫌というほど味わわされた。だからこそ、彼らが自分の道を歩んでゆくことを願ってやまない。これまで人を想うことなどなかったにも関わらず、その願いは自然と心に湧いてきた。

 それは、たとえ残りの時間が短くとも、初めて自分の体を得たからなのだろうか。心身が一つになるとは、こういうことなのだろうか。だからこそ、洪瀾は母を思いやる心を持ち合わせていたのだろうか。

 洪瀾に是非とも訊いてみたいものだと、彼はふと思った。ほとんど言葉を交わすこともなかった、もう一人の自分。魂の半分はあの片割れが持っているのだ。

 そう遠くない将来、天へ上って対面できるとしたら、その時こそ答えを得ることができるだろう。生れ落ちた時から裂かれていた自分たちが、初めて一つの魂になれるのだから――







 月台から戻ってきた悠遠に、英俊は軽い口調で声をかけた。

「思いのほか、様になっているようだな」

「……悪かったな、先代のような色気がなくて」

「ないものをわざわざ求めたりしないさ」

 その言葉に、悠遠はいっそう顔をしかめる。いつもと変わらぬ応酬に、英俊は思わず苦笑をもらした。宥月の儀を執り行った悠遠は、当然のこと巫女装束をまとっている。激しい舞を終え、胸元や裾からは汗ばんだ素肌がのぞく。これが先代の巫女なら艶も倍増するところなのだが、彼女の場合はまだまだその域まで近づいてもいなかった。

 汗で貼りつく髪を無造作に掻き上げる彼女に、英俊は不意に訊ねた。

「悠遠、おまえはこれからどうするつもりだ?」

 悠遠は二、三度瞬きを繰り返した。突如、巫女代理を仰せつかり、その準備に大忙しだったため、そんなことを考えている余裕などなかったのだろう。

 きょとんとした表情の彼女に向かって、英俊はさらに注釈をつける。

「言っておくが影鬼は解散だぞ。となると、それだけ食費のかさむ穀(ごく)つぶしを宮廷がいつまでも置いておくとは思えんからな。今のうちに身の振り方を考えておいた方がいいぞ」

「……おまえな」

 悠遠は頬の筋肉を引きつらせた。いつもならここで罵声が飛んでくるはずなのだが、この時はなぜか彼女は憎まれ口を引っ込めてしまった。その代わり、別のことを訊いてくる。

「それで、おまえは?」

 質問に質問で返された英俊は、簡潔に答えた。

「旅に出ようかと思ってな」

 つぶやくようにそう告げると、英俊は自分の右手に視線を落とした。長年《影》として育てられ、幾度となく鮮血に染めたこの手。しかし、もう二度とかつてのような力をふるうことはできないだろう。その思いが彼の胸に去来する。

 ――突如として体に飛び込んできた、あの光。

 あれは、失ったはずの一魂三魄。それがなぜか彼の元へ還ってきたのだ。魂魄を取り戻し、再び人の身に戻れた代わりに、彼は闇に生きる力を失った。そして影鬼としての生しか与えられなかった彼が、それをなくした今、できることはいくらもない。それならば、せめて有意義に使ってやろうではないか。皮肉げに彼はそう考えた。

 幸いにも、これまで天子が行幸を繰り返したお蔭で、盈国は各州に大小様々な観月楼を持っている。それらをぐるりと周遊しながら、国の傾きゆく姿を、楼上から眺めやるのだ。影としての生を終えた自分のように、この国もまた命が潰える最期の時を――

「趣味の悪い奴だ」

 英俊の予定を聞いて、悠遠はそう断じた。冷たい言葉と相変わらずの口ぶりに、英俊は苦笑する。

「そうさ。悪食(あくじき)というやつでな」

 すっと目を細めて、彼は不機嫌そうに顔を背ける悠遠を見やった。

 ――彼女は、気づいているだろうか?

 自分が再び人として生きられるようになったことに。

 子供っぽさの抜けない仕草と、相変わらずの朴訥とした口調。顔を合わせれば始まる掛け合いのような応酬も、いつもと何も変わらない。だが、彼の中では確かに変わったのだ。一度失われた魂が、光を帯びて再び戻ってきたあの時に。

 ――大事なものが何か、はっきりと思い知らされた。

 己以外、何も信じていなかったはずの自分が。少し前ならありえないと一笑に付していただろうが、今は違う。
 だからこそ、彼は告げる。彼女もまた変わったことを願いながら。

「おまえも、一緒に来ないか」

 その言葉に、悠遠は一瞬息を呑んだようだった。いつもの調子なら反射的に断っていただろうが、この時の彼女はなぜか口ごもってしまった。

 この様子では、すぐに返事はないだろう。そう判断すると、英俊はくるりと踵を返した。去り際、一言だけを残して。

「――明朝、一番で待つ」




 静かに歩み去る背中を、悠遠はただ黙って見つめていた。

 ――何と答えればよいのか、わからなかった。

 英俊が求めているものが何か、わからなかったわけではない。実際、英俊と真正面から顔を合わせるのも、少なからずためらわれたのだ。あんなことがあった翌日に、よくもあいつは平然としていられるものだ、と思う。下手に意識しているのを見すかされるのが癪で、ついいつものような態度を取ってしまったが。

 望めるなら、今までのままでいたい。だが、それは決してかなわないのだ。半日ばかり舞を仕込まれただけで、全身に重く疲労がのしかかっていることが、その証。もはや自分は身軽な《影》ではないのだ。――そして、それは英俊もまた。

 闇の力を失った以上、この先は新たな道を選ばねばならない。それはわかっている。だが、その進むべき道を、これまで当たり前のようにそばにいたあの影と、ともにしてもよいのだろうか? 二人とも、すでに闇の呪縛から解き放たれているというのに――

 その思いが彼女をためらわせた。そして答えを迷っているうちに、英俊は背を向けてしまった。

 次第に小さくなる背中は、決して振り返らない。今を逃せば、もう二度と見ることもないだろう。そのことに気づいた時、悠遠は爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。そして、意を決したように、彼女は大きく口を開いた。



※※※



 後代の史書によれば、盈国ではその後も長く月蝕が続いたという。

 月に庇護され栄えた国は、月の力を失うと急速に衰えた。その原因は、月の巫女が忽然と姿を消したためだと言われる。

 次代の巫女の座を狙い、混乱の中で月の巫女を僭称する者は後を絶たなかった。だが、いずれも月を呼び戻すことができず、そのたびに首を刎ねられ、ついには巫女位に就く者はいなくなったという。

 闇の深い夜は幾度も繰り返され、月が再び姿を現すようになったのは、月の加護によらない新たな王朝が立った後のことである。


-了-





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