天使の風葬




 二十年前の二月十七日、天原由乃は鏡を抱いて生まれた。鏡の名は蓮見理乃。由乃の双子の姉にあたる。双子の姉妹なのに姓が異なるのは、幼い頃に離婚した両親に、別々に引き取られたからだ。天原由乃は五歳まで蓮見由乃として育てられたが、その後は実家に戻った母の旧姓を名乗ることになった。
 姉の理乃と暮らした記憶は、おぼろげにしか残っていない。階段の手すりをすべり降りる理乃の真似をして失敗し、三針縫う怪我をしたこと、かくれんぼで物置きに隠れているうちに眠ってしまい、目覚めて自分の居場所がわからなくなって大泣きしたこと、祖父の家で初めて直に触れた畳を珍しがり、二人がかりでむしり取って怒られたこと……。思い出すのはたわいもない記憶ばかりだ。
 しかし、一つだけ確かなことがある。
 由乃と理乃は、親でさえ時に間違えるほど瓜二つだったということだ。
 二人はいつも一緒に行動していた。それは、まるで等身大の鏡を常に持ち歩いているようなものだった。そのうえ、どういうわけかしょっちゅう仕草がシンクロしていたから、本当に鏡像と向かい合っている気がした。

 だが、その鏡はもうどこにもない。
 今から一か月前、二十歳を目前にして蓮見理乃はこの世を去ったのだ。

 すでに息絶えて冷たくなった理乃が発見された場所は、マンション裏の寂れた通りだった。七階の屋上から飛び降りたのだという。靴も揃えて置かれていたこともあり、理乃の死は自殺と断定された。遺書もなく、理由も特に見当たらなかったが、そのあたりのことはあまり深く追求されなかった。
 それは、この部屋にも原因があるのだろう。部屋中を鏡張りにするなどという気違いじみた内装を見れば、発作的に飛び降りたと見られても仕方ないのかもしれない。それに――理乃は飛び降りる際、鏡を抱いていたというからなおさらだ。
 鏡まみれの生活をして、鏡とともに死ぬ。発狂した人間ならありうることだと警察は思ったのだろうか。捜査はすぐに打ち切られた。

 理乃がなぜ死んだのか、由乃にはわからない。由乃のもとにも警察が訪ねてきたが、彼女には話すべきことがほとんどなかった。何しろ五歳の時に別れて以来、互いに行き合うことも言葉を交わすこともなかったのだ。そもそもこんなマンションで一人暮らしをしていることさえ初耳だった。飛び降りた理由など、とうていわかるはずもない。
 理乃は父親に引き取られたのだが、父の再婚によって家にいづらくなり、高校の時から一人で暮らしていたのだという。その父も、もう死んだ。大酒がたたって肝臓を傷めたせいだと、由乃は半年前に病床の祖母から聞かされた。「好き勝手やって、それでもあんたの母さんより長く生きたんだから本望だろうさ」という捨て台詞が祖母の遺言となった。

 きっと、自分は肉親との縁がひどく希薄なのだろう。由乃はそう思う。若くして母が死に、生き別れた父が死に、母代わりの祖母が死に、ついには双子の姉までも――。血のつながった人間が一人、また一人と欠けてゆく。もはや家族と呼べる者はこの世のどこにもいない。そして最後に残された自分もまた、そのうち墓標に名を連ねるのだろう。その思いは日一日と強まっていった。ちょうどそんな時だった。祖母の死後、一人ぼんやりと暮らしていた由乃のもとに、マンションの管理会社から蓮見理乃の住んでいた二O六号室を早く引き払うようにという連絡が入ったのは。
 住人がすでに亡い今、その手続きは遺族が行わなければならない。死んだ父親の再婚相手はすでに理乃と縁が切れていたのか、関わりを持ちたがらなかった。それで唯一生き残った肉親である由乃に連絡が来たのだ。

 だが、由乃はマンションを引き払わず、自分がこちらに移ろうと決めた。今まで祖母と暮らしていた家はずいぶん古くなっていたし、一人で住むには広すぎた。それに当面、家賃を払うぐらいの持ち合わせならある。そういうわけで由乃は二月半ば、このマンションに引っ越してきた。鏡に包囲された、天使の住処などということも知らずに――



 ぼふっという鈍い音と衝撃で、由乃は目を覚ました。
「ちょっ……何すんのよ……っ」
 顔の上のクッションを払いのけながら、由乃は緩慢な動作で体を起こす。目の前では天使が、寝癖だらけの由乃の顔を見て、くすくすと笑っていた。――鏡の中で。
「いい加減にしてよ!」
 由乃はクッションを天使に向かって投げつけた。しかし、天使に直接当たることはない。由乃と天使を隔てる鏡面によって阻まれてしまう。天使は鏡を通して自分に干渉できるのに、自分は天使に触れることさえできないなんて不公平だ。由乃は悔しさに歯噛みする。そもそも何だってベッドの周りまで鏡で埋め尽くされているのだろう。
 ベッドといっても昇降式のロフトなのだが、この部屋の壁は天井ぎりぎりまでびっしり鏡が張られている。どこにいても天使の監視と干渉からは逃れられない。――光がある限り。

 夜の間は光が届かないせいか、活動範囲が狭められていた天使だったが、朝になって部屋がいくらか明るくなると鏡の中を自由に飛び回り、由乃の顔にクッションを投げつけてくるほど元気になった。いくら窓を厚い遮光カーテンで覆っても、光は布地の細かい目をくぐって室内に差し込んでくる。だから部屋が否応なく明るみ、天使の動きが活発になる。
「だから朝なんか嫌いなのよ……」
 ぼやきながら、由乃はダイニングテーブルに着いてジャムの蓋をおもむろに開けた。
 起きたままのパジャマ姿。寝癖でぼさぼさの髪。食パンはトースターで焼かずにジャムを塗るだけで、他にメニューはない。
 あまりにだらしないという自覚はある。だが、わざわざ着替えたり料理したりするような気力は持ち合わせていない。別に拒食症ではないが、食事をとることが厭わしい。

 いったいこれまでの人生で食事に費やした時間はどれほどになるだろう。ただ消費されるだけのエネルギーを補給するために、何百……いや、何千時間と無駄にしてきたのだ。
 由乃は何かを食べたいという積極的な意思を持たない。それなのにこうして生命維持のために食事をすることが、何か自分以外のものに屈するような気がして、ますます食事が嫌になる。適当にパンをかじることさえ、敗北感のようなものを覚えるのだ。
 今日もまた空腹に屈し、パンをむりやり牛乳で流し込んでいると、目の前に皿が現れた。
「何、あんたも食べたいの?」
 羽をたたんだ天使は、皿の前に行儀よく正座して由乃を見上げた。もっと正確に言うと、由乃の右手の食べかけのパンを。
 ダイニングテーブルには由乃と向かい合うように、長方形の化粧鏡が置かれていた。天使は鏡に映ったテーブルの上で、由乃にパンをよこせと催促しているようだった。

「だったら勝手に持ってけばいいのに……」
 鏡には食パンの袋も映っている。昨晩、あれだけ好き勝手に花やら本やら、ばらまいたのだから、パンくらい自分で取ればいいだろうに。そう思って放っておいたのだが、天使は由乃を見つめたまま、朝食が出されるのをじっと待っている。
 ……由乃は折れた。
 ほら、と仕方なく食パンを一枚、皿に乗せてやる。何だか突然ペットを飼い始めたような気分だった。その、小鳥のように小さな天使は、由乃が瞬きしている間に食パンを鏡の中に引き込んでいた。やはり由乃が見ている前で、鏡の中に物体が吸い込まれるという現象は起きないらしい。だが、そこで食べ始めるのかと思いきや、天使は食パンを指差してから、続けてジャムの瓶を指した。
「まさか……塗れっていうの?」
 鏡の中に声が届いたのかどうかはわからない。それでも意思は通じたようで、天使はこくこくと大きく首を縦に振る。
「何、わがまま言ってるの? そのまま食べればいいでしょ」
 言い捨て、ついと横を向くと、テーブルの上で耳障りな音がする。見れば、ジャムの瓶が倒され、中身がいくらかこぼれ出ていた。
「何でそういうことするのよ、もう……っ」
 それ以上、言葉が出てこない。もともと慢性的に気力不足なせいか、怒りを突き抜けて深い虚脱に襲われる。

「……こんな、鏡があるから――……」

 すべてはこの、膨大な数の鏡のせいだ。これのせいで天使がどこからでも自分に干渉してくる。この部屋にいる限り、ずっと。
 由乃はテーブルの上の化粧鏡を払いのけた。倒れてガシャンと音が鳴る。割れたかもしれない。それでも構わなかった。どうせ天使は別の鏡に移ったろう。鏡に手を伸ばしてみても天使に触れることはできない。それなら鏡が割れたところで、天使には傷一つつかないだろう。気楽なものだ。人の気も知らないで。
 すでに食欲をなくして、由乃はのろのろと立ち上がった。テーブルには残ったパンがあったが、もう食べる気にはなれなかった。こぼれたジャムもそのままで、由乃は六畳間の床に座り込む。フローリングのひんやりとした感触がパジャマを通して伝わってきて、それで自分はまだ生きているのだと改めて思う。

 目を閉じ、じっと丸くなったまま息を殺していると、時折、自分が生きていることを忘れそうになる。もともと気鬱がちに暮らしていたのだが、半年前に祖母が死んで家に誰もいなくなると、その状態がますます進んだ。今では一日の大半が死体と変わらない。思考すら停止していることがしばしばだから、そのまま呼吸が止まって、本当の死体になっても気づかないかもしれない。それが由乃の日常だった。それなのに、この部屋に引っ越して天使に会ってからというもの、調子を狂わされてばかりいる。
 抱えた膝に額をこすりつけるように顔を埋めると、来客を告げるチャイムの音が聞こえてきた。いちいち立ち上がってインターホンに出る気にもならず、無視していたが、玄関に立つ人間は案外しぶとかった。

 再び鳴る。
 もう一度。
 さらに二度、三度。

 いい加減、煩わしくなって腰を上げかけた瞬間、何かが目の前を高速で駆け抜けた。
 鳥? 鳥は飼っていない。いるとすれば、わがままで好き勝手に部屋を飛び回る、
「――天使!?」
 あっと言う間に天使は玄関前の鏡に到達していた。止める暇もない。天使は鏡の中で玄関の鍵を開けてしまった。
「……どうして」
 由乃はうめくようにしてつぶやいた。
 誰に向けて言ったのか、実際に声になっていたのか、それさえもわからない。
 ガチャリとノブが回る音がして、ためらいもなく開いたドアの向こうには、昨晩に怒鳴り込んできたあの少年が立っていた。
「いきなり玄関の鍵を開けるのはどうかと思うぞ。不用心だろうが。変な奴が入ってきたらどうするんだ?」
「……自分はどうなの」
「俺は怪しい奴じゃないからな」
 平然とうそぶいて、少年は笑った。

 由乃は初めて少年の顔をまともに見た。昨晩は暗がりの中だったし、取り乱していてそれどころではなかったのだ。
 闊達そうに笑う、少し背の高いその少年は、だいたい十七、八――由乃より二つ三つ年下だろうと思われた。だが、それにしてはひどく落ち着き払った――軽い口振りとは裏腹に――勁い瞳に見つめられ、由乃は一瞬怯んだ。
「何を……しにきたの」
「確かめに来たんだ」
 ああ、と由乃は瞑目する。昨晩、少年は鏡を飛び回る天使を目撃した。すぐに追い出したものの、あれでごまかされるはずもないだろう。ひどく面倒なことになってしまった。
「何のこと? 昨日、天使がどうとか言ってたけど、わけのわからないことで人の家に上がり込んでこないで」
 冷たく言って、追い払おうとした。だが、少年はそれに気を悪くしたふうもなく、小さく笑ってコツコツと脇の壁を叩いた。
「それは、こいつのことか?」
 玄関の隣の板鏡。他の壁に張られたものより一回りだけ小さなその鏡には、映った少年に寄り添うように舞う天使の姿があった。

 由乃はもはや声を失った。昨日の暗がりならともかく、朝っぱらからそれは幻覚だと納得させることは不可能に近い。由乃が黙り込んでいると、少年が先に口を開いた。
「確かに、この変なもんも充分気になるけどな。でも、俺が確かめたいのは別のことだ」
「え……?」
 由乃は戸惑う。それを察しているように、少年はさらに言葉をつぐ。
「あんたは昨日、自分は幽霊じゃないと言ったな。あんたが理乃の幽霊じゃないなら何なのか、俺はそれが知りたい」
 その言葉は、由乃に息を呑ませるのに充分な効果があった。
「――あなたは……誰」
「いわゆるご近所さんだ。下の一O六号室の」
 からかうような答えに、由乃は眉をひそめる。それでも少年は、まったく気にした様子はない。
「名前は真崎渚。それとも理乃の知り合いと言ったほうがいいか。少なくとも生身の人間だ」
 少年の言葉に、由乃は息を呑む。
「理乃の……」
「そう。――中で話をしてもいいか?」
「……どうぞ」
 なぜ、そう言ってしまったのか。何か抗いがたいものを感じて、由乃は渚と名乗った少年を中へ招き入れた。
 鏡の中では天使が嬉しげに手を叩いていた。



「夕べは泥棒と格闘でもしてたのか?」
 渚はずかずかと六畳間に上がり込むと、呆気に取られたような顔をした。その部屋は昨晩、天使に荒らされたままのひどい状態で、足の踏み場もないほどだったのだ。
「違う……この天使が部屋のものを全部ひっくり返して、こうなったのよ」
 由乃は、頭上で旋回飛行する天使をにらみつけながら答えた。もともと引っ越しの荷物もそのままで、整理されているとはいいがたい部屋ではあったが、だからといって荒らされて嬉しいはずがない。余計なことを、と天使をつい恨みたくなる。
 一方、渚は床に転がった段ボール箱を押しやって、何とかできた足場に腰を下ろした。
「で? あんたは何者だって?」
 彼は当初の目的を忘れたわけではなかった。腰を落ち着けたのは話をじっくり聞くためだろう。ここまで来た以上、適当にあしらって追い返すこともできまい。由乃は小さく息をつき、自分もまた床に散らばった小物を一つ二つ拾い上げて、腰を下ろす。そうして自分と理乃の生い立ち、このマンションに来るまでの経緯などを話して聞かせた。

「へえ、生き別れた双子ねえ」
 ひとまず由乃の話を聞き終えた渚は、あっさりした口調でそれだけ言った。恐らくその程度の予想はしていたのだろう。かえって赤の他人だと聞かされたほうが驚いたかもしれない。また、渚のその口振りから見て、理乃も双子の妹のことを人に話していなかったのだと知れた。だいたいの事情を呑み込んだ渚は、一拍おいてから今度は別のことを訊いた。
「それで、あんたは何でこのマンションに引っ越してきたんだ? 一戸建ての家があったんだろ?」
 見知らぬ人間に対して少々不躾な質問だと由乃は思ったが、隠すことでもないので渋々答える。
「一人で住むには広すぎるし……それにこの部屋は、窓が西側にしかないって聞いたから」
「それって立地条件悪いんじゃないのか? 普通、西日が入る部屋って嫌がるだろ?」
「本当は窓なんていらないの。光が……嫌いだから」
 由乃は正直に告白した。なぜ、ここで見ず知らずの少年相手に話す気になったのか、自分でもわかりかねた。本当のことを打ち明けるのはひどく勇気がいる。特に、自分の性質が人とは大きく異なっているという自覚があるからこそ、余計に。だが、それでも話したことは、少しだけ事実と違う。由乃は光を嫌っているのではない。恐れているのだ。自分を優しく包む穏やかな闇を、激しく切り裂く――あの光が本当は身も凍るほど恐ろしい。

「光が、嫌いだあ?」
 今度こそ渚は目を丸くして驚いた。その反応は予想できていたので、由乃は彼の頓狂な声にも動じない。
「特に眩しい光が苦手なの。だから朝日が入らない西側の部屋のほうが、都合がいい」
「じゃあ夕べ取り乱してたのもそのせいだったわけか。確か、外でライトが光ってたしな」
 由乃はうなずき、カーテンに閉ざされた窓を見やりながら小さく吐息する。
「でも、この部屋は西向きなのに明るすぎる。本当はもっと南寄りなのかも――」
「いや、そうでもないぜ」
 言い差した由乃を遮って、急に立ち上がった渚は、なぜか目に笑みを浮かべてみせた。それがあまりに不敵に映って、由乃は少々嫌な予感に駆られる。

「あんたはまだ、ここから外を見てないからわからないんだ」
「え? ちょっと、何を」
 止める間もなかった。渚は大股で窓に歩み寄り――厚いカーテンを一気に開け放った。
「や……いや、やめて――!」
 由乃は恐惶状態に陥った。窓を厚く覆っていたカーテンが取り払われた今、次第に高くなりつつある朝日が容赦なく差し込んでくる。西側の窓にも関わらず、その光は強烈だった。
「ほら、よく見てみろよ。あの窓が鏡になって、朝日を反射してるんだ」
 渚が指差すのは、マンションと向かい合う十階建てのビルだった。そのビルのこちら側は、一面びっしりとガラス張りになっている。屋内が外から見えにくくなるよう加工されてらしく、外界の景色を鏡のように反射する。
 その巨大な鏡面は東を向いているので、差し込む朝日をこちらのマンションに跳ね返してくるのだ。
「やめて……早くカーテンを閉めて……!」
 由乃は頭を抱えてうずくまる。光を直視できない。激しい炎に焼かれ、鋭い刃で貫かれるような恐怖に全身が震える。それほどに、この光輝は強すぎた。
「本当に光が嫌いなんだな。高所恐怖症の奴が屋上に上ったみたいな反応だ」

「――いいから早く閉めて!」

 呆れたように見下ろしてくる渚に、由乃はついに憤った。
 言うのではなかった。光が嫌いだなどと。どのみち誰も自分を理解してくれるはずがないのに。いったい何を期待して、自分の弱みをさらけ出したのだろう。激しい自己嫌悪と後悔が襲ってきて、涙がこぼれそうになる。
 そんな由乃を見るに見かねたのか、渚は開けたばかりの厚いカーテンを再び閉め直した。
「別に閉めたっていいけどさ。でも克服しなきゃ、この先生きてくの大変だろ? 買い物だって行けねえじゃんか」
「……買い物には行かない。全部宅配で済ましてるから」
 渚が今度こそはっきりと、顎が落ちるほど呆れ返っているのがわかった。すでにカーテンが閉まっていたので、由乃はそれを直視することができた。
「はああ? じゃあ、まさか家から一歩も出ねえってのか!?」
「さすがに引っ越しの時は外に出たけど……。でも、それも夕方過ぎだったし。ゴミも、ここは敷地内にゴミステーションがあるから、光を浴びなくて済むの」
「そいつは……光恐怖症とかいう前の問題で、要するに引きこもりなんだな?」
 慎重に確かめるような、最後の言葉が胸を刺した。痛みを悟られないよう、さらに膝を抱えて丸くなって、由乃は渚に言い放つ。
「どうだっていいでしょ。もう帰ってよ」
「ああ、そのほうがよさそうだな」
 渚はそう答えた。いい加減、呆れるのにも疲れたのだろう。他人に理解されないことは重々承知している。いまさら相手に蔑まれたとしても、何も驚くことはない――

 そんなことを考えていると、今にも出ていこうとしていた渚が急に立ち止まり、うずくまる由乃を振り返った。
「そういやあんたの名前、まだ聞いてなかったな。何ていうんだ?」
 意外だった。自分に興味を覚える人間がいたことに。それで面食らって、由乃は思わずどもってしまった。
「あ、天原……由乃」
 由乃、と聞いたばかりの名を口の中で転がして、渚は部屋を後にした。



**


 万華鏡は、まさに魔法の筒だった。小さなレンズから覗いたそこには、鮮やかな煌めきが広がっている。筒を回すたびに赤い花が咲き、黄色い光がはじけ、青い飛沫が跳ねる。
 鏡が創り出す色とりどりの世界に、完全に魅了されるまでそう時間はかからなかった。そのうち毎日、鏡の世界に閉じ込もるようになった。来る日も来る日も万華鏡を眺めて過ごした。だが、やがてそれにも飽きた。つまらなくなったというより物足りなくなったのだ。いくら鏡の魅せる魔法とはいえ、その力は片手に乗るほど小さい。鏡同士が反射し合って、光彩がどこまでも広がるといっても、所詮その範囲には限界がある。小さな筒の内側は、人が閉じ込もるにはあまりに狭すぎた。

 もっとその世界を広げようと、自分で大きな鏡を切り、色ガラスの破片を散らして手製の万華鏡をこしらえもした。しかし、それだけではどうしても足りない。大きな万華鏡が欲しい。その思いは日増しに強まった。人が入るほど大きな万華鏡を覗き込んだ時、その快感はどれほどのものだろう。そんな途方もないことを夢想するのが日課となっていた。
 だが、想像に耽る日にも終わりが来た。
 あれは神の啓示と言うべきだろうか。偶然覗いたレンズの向こうに、求め続けた世界があった。

 ――見つけた。

 ついに出会った。鏡が織りなす光の魔法に。



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