キャンバスの女神



 イーゼルの前に腰を下ろし、西山陽一は深く息をついた。
 周りは談笑にふけっていて、どこにも緊張感など感じられない。恐らく、この室内で落ち着いていないのは自分一人だろう。そのことがわかっているからこそ、陽一は自分の動揺を覚られないよう、呼吸を整えていた。
 この日、陽一は隣町で行われる絵画講座に初めて参加した。講座といっても、リタイア層をターゲットにした絵手紙教室だの、趣味のお絵描き教室だのといったものではない。美術系の学校を目指す生徒が中心の、かなり本格的な講座である。
 環境のせいで幼い頃から美術に触れていた陽一にとって、美術の勉強自体は決して珍しいものではない。にも関わらず、デッサン用の木炭を握る手にやたらと汗がにじみ出てくるのは、真夏の暑さばかりではなく、本日の課題のせいだった。

 教室のドアが開き、潮が引くようにざわめきが止んだ。受講生たちの視線は、講師の後に続いて入ってきた人物に注がれる。
 均整のとれた肢体に、ピンク色のガウンを一枚羽織った女性。彼女こそが本日の主役――デッサンのモデルである。
 講師とモデルの挨拶が短く行われたが、陽一の耳には自身の鼓動以外は入ってこなかった。彼の視線は、モデルの次の動作に注がれていたのだ。
 モデルの女性は慣れた手つきでガウンの結び目をほどくと、何のためらいもなくその場に脱ぎ捨てた。ガウンが床に落ちる、ぱさりという音は、息を飲む音に掻き消されて聞こえなかった。いっそう早くなる鼓動も、とても抑えられそうにない。カァッと頬が熱くなるのを感じながら、陽一は彼女の裸身をじっと見つめていた。
 ヌードデッサンは、美術を学ぶ者にとって基本中の基本。ヌードモデルに向ける目は、よこしまなものではなく、被写体を捉えるカメラに徹しなければならない。
 それは充分すぎるほど頭で理解している。それでも衝動を抑えることは、弱冠十八歳の陽一には難しいことだった。

 一方、受講生たちの視線を感じているはずなのに、一糸まとわぬモデルは実に堂々としたものだった。講師の指示を受け、彼女は椅子に腰を下ろすと、おもむろに足を組んでポーズを取った。
 いよいよデッサンの始まりである。受講生たちも口を閉ざし、室内には外から漏れくる蝉の声と、木炭のこすれる音だけが響く。
 しかし、陽一はまだ手を動かすことができずにいた。デッサン講座は一ポーズ二十分。一分でも無駄にしたくないはずなのに、彼はぼうっとしたままモデルを見つめることしかできずにいた。
 抑えきれない高揚感は、初めて裸婦を目にしたせいなのは間違いない。写真や映像や――ましてや絵画では、女性の裸など飽きるほど見ていたはずだった。しかし、生身となると今日が初めて。

 だが、本当にそれだけが理由なのだろうか?

 手を止めたまま、陽一はモデルから目を離せずにいた。
 光が拡散しないよう、照明を消した薄暗い教室。その中央で、まるで光源のように浮き出る白い肌。カーテンを閉め切った室内は蒸し暑いはずなのに、そのなめらかな皮膚には汗一つ見られない。ファッションモデルとは違い、細すぎず、柔らかで程よく締まった肢体。
 実に理想的な、完璧な体だ。だからだろうか? 初めて目にする裸身なのに、どことなく見覚えがある気がするのは。
 それはまるで、絵の中から抜け出てきたかのような――
 そんなことを考えていた時、陽一の脳裏に突如、一枚の絵が浮かび上がった。
 まさに、その時。
 ふと、モデルの女性と目が合った。そういえば裸身ばかりに気を取られて、まともに顔を見たのはこの時が初めてだった。
 ポーズを取っている最中に、プロのモデルが表情を崩すことはない。だが、ほんの少し――見ている陽一だけにわかるほどかすかな笑みを、瞳に浮かべた。

「な……っ」

 思わず、陽一は小さくうめいた。近くに座っていた生徒が二人ほどその声に気づき、彼の方をちらりと見やったが、すぐにまたデッサンに戻る。しかし、陽一はその視線に気づく余裕すらなかった。

(どうして、ここに――)

 頭の中で、その言葉だけがぐるぐると回り続ける。
 あんなふうに微笑みかけてきたということは、人違いではないだろう。何より、あの体を自分が見間違えるはずもない。初めてのヌードデッサンだというのに、どこか既視感を覚えた自分の感覚は正しかったのだ。陽一は、彼女の裸身を目に焼き付くほど見ていたのだから。

(七美さん……)

 その名を、彼は心の中でつぶやいた。
 どれだけ会っていなくても、決して忘れることはできないだろう。少なくとも、陽一にとってはそうだった。だが、まさかこんな形で再会するだなんて――
 力をこめすぎた右手の中で、木炭が乾いた音を立てて、折れた。



 この日の課題は、クロッキーデッサン。一ポーズ二十分で、間に十分の休憩を挟み、ポーズを変えてこれを六回行う。 全体で三時間という構成だ。
 しかし、陽一の一枚目のデッサンは形にすらなっていなかった。あまりにも動揺してしまい、輪郭線をなぞるのが精一杯で、二十分が過ぎてしまった。
 そして、息をつく余裕もないまま二回目のデッサンが始まったのだが、これは別の意味でいっそう動揺した。
 講師がモデルに指示したのは、台の上で両膝を抱え、丸くなるというポーズだったのだ。ちょうど陽一の座っている角度からは――狙ったわけでもないのに、見てはいけないところまでほとんど見えてしまう。一回目よりもまして、顔が真っ赤になっていた。
 しかし、モデルは恥じらいをつゆとも見せず、他の受講生たちも淡々とデッサンを進めている中、自分一人だけ過剰反応しているのも恥ずかしい。それどころか、芸術を志す者らしからぬと軽蔑されかねない。だから顔を見られないよう下を向くしかなかったが、そのせいでまったくデッサンにはならなかった。

 そんな調子で二回目のデッサンも終わってしまい、陽一の動揺は収まるどころかいっそう強まるばかりだった。

(何で……七美さんのヌードなんて――……)

 予想外にも程がある。もともと、初体験のヌードデッサン自体に緊張していたというのに、まさかそのモデルがあの人だなんて、思いもしなかった。
 二度目の休憩で、彼女はガウンを羽織って教室を出ていったので、その間に陽一は少しでも落ち着きを取り戻そうと深呼吸した。
 受講生たちも、デッサン中の真剣な表情は和らぎ、再び談笑を始めている。室内には、講座の始まる前のざわめきが戻っていた。
 一方、講師は一人一人のデッサンを見て回りながら、それぞれにアドバイスをしているようだった。

(まずいな……)

 陽一はこの時ようやく、自分の四十分間のひどい有様に気づいた。こんなデッサンは、とても人に見せられるようなものではない。何しろ人間の形かどうかも怪しい状態なのだ。しかも、ここは趣味人の日曜画家たちではなく、真剣に美術を学ぼうという学生の集まり。これでは不真面目な態度としか思われないだろう。

「では次、君のを見せてもらおうか」

 その声に、陽一は思わず飛び上がりそうになった。
 振り返ると、すぐ後ろに初老の講師が立っている。美大出身の元美術教師だそうで、評判もなかなか良い。定年退職した後、美術講座を始めたようだが、教師らしい指導はなかなか厳しいとも聞く。そんな人に、このデッサンを見られたら――
 陽一は慌ててクロッキー帳を隠そうとした。が、あまりにも焦りすぎて、イーゼルごと引っ繰り返してしまった。
 硬い床に倒れたイーゼルの音は、必要以上に大きく響いた。談笑していた受講生たちの視線が、いっせいに陽一の方を向く。

(さ、最悪だ……!)

 それまで紅潮していた陽一の顔は、一瞬で真っ青になった。
 周囲のあちこちから、くすくすと忍び笑いが漏れる。それは、陽一のそそっかしい行動に対するものだけではないだろう。何しろ、彼のひどいデッサンが、床の上に堂々と放り出されていたのだから。
「うっわ。ひでえな、アレ」
 受講生の一人が、あまりにも率直すぎる言葉を口にした。しかしその通りなので、陽一は怒ることもできず、うつむくしかなかった。
 今さら遅いが、それでも拾い上げようと床に膝をついたところで、頭上からまた同じ声が降ってきた。
「おいおい、まさかヌードに興奮しちゃったんじゃねえだろうな」
 その台詞に、すぐ横から下卑た笑い声が上がった。
 さすがに、今度ばかりは聞き捨てならない。陽一は顔を上げ、声の主をにらみつけた。
 彼に嘲笑を浴びせているのは、どう見ても軽そうな少年たちだった。とても真面目に美術を志しているとは思えない。興味本位で参加したのだろうか。
「そりゃねえよなあ。お坊ちゃんは、ガキん時からヌードモデルなんて、さんざん見てるんだろうしさ」
「それどころか、一つ屋根の下で結構いい思いしてたんじゃねえの?」

 汚い言葉に呼応して、汚い笑い声が唱和した。
 その瞬間――陽一は、衝動のままに動いた。誰も止める暇もなかった。陽一は両目を怒りに燃やし、少年たちに殴りかかったのだ。
 しかし、もともと体を使うことが得意でない彼の拳は空を切り、勢い余って床に顔から突っ込んでしまった。
「てめえ、何のつもりだよ!」
 今度は少年たちの方が、陽一を取り囲む。あっという間に窮地に立たされ、床にへたり込んだまま身構えた、その時。

「――いい加減にしないか!」

 腹の底を打つような重い声が、室内に響き渡った。元教師らしい厳格な表情で、講師が彼らを叱り飛ばしたのだ。
「くだらないことで喧嘩するなら、全員出て行きなさい。ここは君たちのいるべき場所ではない」
 講師の目は、すでに現役時代に戻っていた。体格でも体力でも勝っているはずの少年たちも、その威厳に圧倒されて、すごすごと引き下がるよりなかった。
 その様子を半ば呆然と感心していたのも束の間、床に座ったままの陽一も、すぐに他人事ではいられなくなった。
「君もだ、西山君。早く片づけて君も帰りなさい」
「え……? で、でも――……」
 自分はむしろ被害者だという意識があったため、陽一は自分も出て行けと言われるとは思っていなかった。講師の言葉が飲み込めず、ぽかんとしていると、さらに厳格な声が降ってきた。

「西山先生の息子と聞いて期待していたんだが――残念だ」

 講師の伏せた目は、床に転がるデッサンに注がれていた。とてもデッサンとは呼べない、頼りない素描。これこそが、最も講師の不興を買った原因なのだろう。
 転がったクロッキー帳を拾い上げ、のろのろと立ち上がる。少し顔を上げた視界の中に、鮮やかな色を見つけて彼は凍りついた。
 教室の入り口で、不安そうにたたずんでいたのは、ピンク色のガウンを白い肌にまとった――彼女だったのだ。




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