キャンバスの女神



 陽一にとって美術とは、幼い頃から実に身近なものだった。
 彼の父は西山無限――二十世紀最後の巨匠と呼ばれた画家だった。無限というのはもちろん雅号で、本名は別にあるのだが、陽一はすでにそれさえ忘れかけるほど、父子の縁は希薄だった。
 それでも自邸は懇意の建築家が手がけた一級品で、家の中も古今東西の様々な美術品、骨董品であふれていた。たとえ父から美術を学ぶ機会が一度もなくても、画集が絵本代わりというような境遇で育ったのだ。

(――西山先生の息子と聞いて期待していたんだが――残念だ)

 先刻の、講師の言葉が陽一の脳裏に甦る。
 講座を申し込む時には何も言わなかったはずだが、講師の方はすでに知っていたようだ。だが、結局は落胆させるだけになってしまった。それというのも――

(まさか、七美さんにこんなところで会うなんて思わなかったから……)

 たとえまともに描いていたとしても、父には遠く及ばないことくらい、自分でも痛いほどわかっている。だが、ああも動揺しなければ、せめて形くらいはできていたはずだ。それなら、こんなふうにつまみ出されることもなかっただろうに。
 額から流れる汗を拭いながら、陽一は腕時計に目をやった。ようやく講座の全課程が終わった頃だ。計六回のデッサンの内、二回分しか参加できなかったため、こうして残り二時間たっぷり待つはめになってしまった。
 すっかりぬるくなったペットボトルのお茶の残りを飲み干したところで、ようやく待ち人が現れた。

「――陽一君」

 汗を流しながら木陰でたたずむ陽一を見て、彼女は驚いた顔をした。
 ピンクのガウンから着替え、白のワンピースに身を包んだ彼女は、実年齢よりもはるかに若く見えた。
 ――まるで、あの時から歳を取っていないかのように。

「まさか、あれからずっと待ってたの?」
 その問いに、陽一は小さく頷いた。
「……七美さんと話がしたかったんです。この後、時間ありますか?」

 陽一の額からは、とめどなく汗が流れ落ち、顔も暑熱で真っ赤になっている。いくら日陰とはいえ、真夏に二時間も立っていれば当然だ。だが、彼はそこまでしてでも彼女に会いたかったのだ。その熱意が通じたのか、彼女はゆるやかに微笑んだ。
「じゃあ、そこのファミレスでもいいかしら。すぐに涼んだ方がよさそうだものね」



 二人は歩いて五分のレストランに入ると、一番奥の席に向かい合って座った。
「あれからもう五年になるのね。ずいぶんと大きくなったわね、陽一君。すっかり大人びて、びっくりしたわ」
「そ、そんなことないです。七美さんは……あ、相変わらず綺麗で……」
 陽一がしどろもどろで答えると、彼女は小さく苦笑した。
「一丁前にお世辞なんて言わなくていいのよ。私だって、あれから五年も歳食っちゃったんだから」

 そんなことはない、と陽一は強く思ったが、それを口に出して言うことはできなかった。彼女に見つめられているだけで、デッサンの時以上に緊張してしまっているのだ。
 膝の上で拳を強く握りしめ、生唾を飲み込んでいる陽一に、彼女は優しい眼差しを向けた。

「それより、さっきは大丈夫だった? 怪我はしてない?」
「あ……だ、大丈夫です。あの、すみません。せっかくの講習を、あんなふうに台無しにしちゃって……」
「台無しになんてなってないわよ。あの後、講習は問題なく終わったし。それに、あんなことを言われれば、怒るのも無理ないわ。本当に、ああいう人たちが美術を学ぶなんて世も末よね」

 陽一は、自分を嘲った少年たちを思い出していた。いかにもコンビニの前でたむろしていそうな、見るからに軽そうな少年たち。あんなチャラチャラした奴らまで芸術を専攻するのかと思うと、彼もまた暗澹たる気分に陥る。

「それに、きっとあなたのことを妬んでいたのよ。西山先生の息子だからって」
 その名前に、陽一はハッと我に返った。
「……僕のこと、そんなに知られてるんですか。僕自身は、コンクールで賞を獲ったことがあるわけでもないのに……」
「地元だから、多少は知られていても無理はないでしょう。西山先生は有名人だったんだもの。今日の先生も、最初から知ってたみたいよ」
 彼女の言葉に、陽一は硬直した。

(――西山先生の息子と聞いて期待していたんだが――残念だ)

 自分に向けられた、苦い台詞が脳裏に再び甦る。
 そう、あの講師は知っていたのだ。自分が西山無限の息子だということを。そして、七美をモデルとして呼んだのも講師だ。と、いうことは――

「それじゃあ――まさか、それでわざわざ七美さんを?」
 もしそうだとしたら、何と悪趣味な人間なのだろう。そう思ったら、急に寒けすら覚えた。
 しかし、彼女は小さく笑って、少年の疑念を打ち消した。
「ううん、違うわ。私は登録してある会社から、今日たまたま派遣されてきただけ。会場に着いてから、参加者に西山先生の息子がいるって聞かされて、本当にびっくりしたわ」

 それはこちらの台詞だと陽一は思った。部屋に入ってきた時は緊張しすぎてわからなかったが、裸身を露わにした彼女を見て、彼は仰天したのだ。
 だが、逆に彼女がデッサン中に自分を見て、かすかに微笑んできた理由もわかった。彼女の方は、あらかじめ陽一が受講者に含まれていることを知っていたのだ。

 少し息をつき、二人の間に短い沈黙が訪れた時、ちょうど注文していたジンジャーエールとウーロン茶がやってきた。
 喉がカラカラに渇いていた陽一は、一気にグラスの半分ほどを飲み干す。一方、彼女は優雅な動作でグラスを取り、少し飲み下すとゆっくり口を開いた。

「西山先生のことは――」
 急に低まった彼女の声音に、陽一はどきりとする。
「残念だったわ。あれだけの人を、こんなに早く失ってしまうなんて。日本の美術界にとっては大きな痛手ね」
「七美さん……」
「ごめんなさいね、陽一君。お世話になったのに、お通夜も葬儀も行けなくて。本来なら、真っ先に駆けつけなければいけなかったのに――」

 七美は、まるで少女のような顔を、ここで初めて曇らせた。その理由を痛いほど知っているからこそ、その表情が陽一の胸に深く突き刺さる。
「いえ……それは仕方ないです。家の中があんな状況で、もし来てもらっても、七美さんに迷惑をかけるだけだったろうし……」
「そうね。愛人が葬儀に顔を出したところで、本妻の怒りを買うだけだろうしね」
「――七美さん!」
 陽一は思わず声を荒げた。しかし、七美は目を伏せたまま、首を左右に振った。
「いいのよ、私に気を遣わなくて。奥様が怒るのは当然のことだもの」
「七美さん……」

 何と言えばよいのだろう。頭の中を総ざらいしてみても、陽一に答えは見つからなかった。
 こんな時、九つという年齢差が重くのしかかる。たかだか高校生でしかない陽一にとって、その差は埋めようのない溝として眼前に横たわっている。
 初めて出会った時、まだ中学に上がったばかりの陽一に対し、彼女はすでに大人の女だった。あれから五年――それだけの月日を経ても、自分はまだ未熟な子供のままだ。女性にかける言葉一つ、ろくに紡ぎ出すことができない。

「ねえ、陽一君。今日はこの後、何か予定ある?」
「え? い、いえ、特に何も」
 急な質問に、陽一は面食らった。慌てて首を振ると、彼女はくすりと笑みをこぼす。
「そう、良かった。じゃあこれから、講習の続きをしない?」
「続き?」
「だって、さっきの講習は私のせいで駄目になっちゃったんでしょう? せっかく参加したのに、もったいないじゃない」
 私のせいで、という言葉に陽一は突如、落ち着きを失った。

 まさか――ばれている?

 自分が、彼女の裸にひどく動揺していたことを、見抜かれているのだろうか。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。
 しかし、次の彼女の台詞は、陽一の想像とは違うものだった。
「陽一君があの子たちに殴りかかったのも、私のために怒ってくれたんでしょう?」
 途端に、陽一の脳裏にあの軽そうな少年たちの下卑た笑い声が甦る。

(――お坊ちゃんは、ガキん時からヌードモデルなんて、さんざん見てるんだろうしさ)
(――それどころか、一つ屋根の下で結構いい思いしてたんじゃねえの?)

 思い出したら、また怒りが沸いてきた。
 そう、確かにあの時陽一が殴りかかったのは、単に自分が蔑まれたからではない。あの少年たちの台詞は、明らかに父親のスキャンダルのことを指していたのだ。

 ――ひいては、彼女自身のことを。

 もちろん、彼らは今日のモデルが、その当人だなどとは知るよしもなかっただろう。だが、陽一は知っていた。だからこそ怒りを爆発させたのだ。
 うつむく陽一に、彼女は静かに語りかける。
「ごめんね、陽一君。だから、せめてお詫びをさせてくれる?」
 陽一は、小さく頷いた。
 そして同時に、同じ声音が記憶から呼び戻された。

(――ごめんね、陽一君)

 あの時、落ち着いた声とは裏腹に、憂いに濡れた睫毛を伏せて、彼女は同じ台詞を言ったのだ。白い頬に、疲れと憂いを浮かべたまま。
 それが五年前、彼が最後に見た彼女の姿だった。

(七美さん……)

 陽一はこの時、ようやくわかった。
 彼女がお詫びというのは、今日の一件に対するものではない。父亡き今、彼女の贖罪はこんな方法でしかできないのだと。
 五年前のあのことは、棘となって彼女の胸に今も深く突き刺さっているのだろう。
 ――そう、まさにあの「女神」のように。




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