翌日、僕は痛む頭を抱えて登校するはめになった。
前夜の無理がたたって自業自得の権化となった僕を、父さんは顔色一つ変えずに送り出したのだ。――いや、叩き出したと言ったほうが正確かもしれない。
あのワインは滅多に手に入らない、ひどく高価なものだったらしい。それを僕たちに残り全部飲まれてしまった恨みもあるのではないかと思う。
そんなわけで自分の席に突っ伏してうなっていると、
「情けないわね。二日酔いなんて」
目の前にはソニアが立っていた。よく通る彼女の声はこういう時、頭に恐ろしいほど響く。
「……静かに喋ってくれないか。頭が、がんがんするんだ」
「大して飲んでなかったのに。お酒に弱かったのね。悪いことしたわ」
「いや……いいよ。おいしかったから」
そのおいしさが仇になったのだ。いけるからとぐいぐい飲んで、この醜態。
それにしてもソニアは何ともないのだろうか。僕は痛む頭を押さえながら彼女を見上げた。しかし、彼女の表情はまったくいつも通りで、二日酔いの様子など微塵も感じられない。間違って飲み比べなどしたら、確実に僕のほうが先につぶれるだろう。何とも情けない話ではあるが。
「ねえ、リオ。あなたはいつまでここにいるの?」
机に突っ伏している僕に、ソニアは訊ねた。質問の意味を把握しかねて、僕は聞き返す。
「いつまでって?」
「もともと地球にはそう長くいないつもりなんでしょう? 昨日、お父さんたちが『そろそろだ』って言ってたのは、帰る日が近いってことかもしれないと思って。予定では、あとどのくらい地球にいられるの?」
ソニアは僕の机に両手をついて、じっと覗き込んでくる。だが、僕は正確な答えなど持ち合わせていなかった。
「わからないよ。父さんの仕事が終わるまでだろうけど――」
「でも、その仕事が何かも知らないんでしょう?」
「まあ、そうだけどね……」
僕は改めて気がついた。結局のところ、僕は何一つ知らないのだと。周りの人間を幼稚だと嘲笑う自分こそが、ただの無知な子供なのだと――
「火星に戻った後も、また地球に来る?」
「……地球に?」
「それとも、もう二度とこんな星になんて来たくない?」
「そ、そんなことないよ!」
僕は慌てて首を振った。急に頭を動かしたせいで平衡感覚が乱れてくらくらする。だが、これは酔いに任せて言うでたらめではない。
ついこの間までなら決して口にしなかっただろう。でも今ならはっきりと言える。たとえ他の誰にも歓迎されなくとも、ただ一人の笑顔が出迎えてくれるのなら、再び地球の土を踏むことをためらったりはしないと。
自分でも驚くほどの心境の変化だが。
「……私たちが生まれた年に、地球と火星が一番近づいたんだって知ってる?」
急な話題の転換に、僕は面食らった。
少し慣れてきてわかったのだが、ソニアはどうやら相手の意表を衝くのが好きらしい。そして、いつも翻弄されてばかりいる僕は、まさに格好の相手だろう。
「大接近って言うんだっけ。その年に生まれたとは知らなかったけど」
なるべく自分の無知をさらけ出さないよう、慎重に答える。そんな僕の心を見透かしているのか、ソニアはかすかな笑みを浮かべた。
「三年後の今日が、また大接近の日なのよ」
それは知らなかった。
確か火星の軌道が楕円を描くため、地球との距離にはかなりばらつきがあるのだ。そして二つの星が一番近づく「大接近」の周期は十五年から十七年。僕らが生まれてから十七年目に、再びその日がやって来るのだろう。
「その日にまた会いましょう。きっと地球の夜空には、火星がひときわ明るく見えるはずよ」
そう言えば、僕は地球に来てから夜空を眺めることもなかった。
三年後の大接近の夜、空には僕の故郷が鮮やかに輝くだろう。その星を、再会したソニアと一緒に見上げることができたなら――
「わかった。約束するよ」
僕が頷くと、ソニアは「きっとよ」などと念を押すようなことはせず、ふっと遠くを見やるような目をした。彼女に僕が見えていないような気がして――ほんの一瞬、どきりとする。
「その頃には、火星と地球が今よりもっと近づいてるといいわね。お互いに歩み寄って」
二日酔いの頭でも、その言外の意味を覚ることはできた。
本当に、僕もそう思う。火星と地球の距離がもっともっと縮まればいいのにと。
穏やかな時間が流れていた。このまま火星に戻る日など来なければいい、とさえ思えてしまうほどの。
そんなまどろみのような静寂は、突然現れた剥き出しの悪意によって破られた。
「おい、火星人。ちょっと来いよ」
陰湿そのものの顔をした奴が、なれなれしく僕を呼んだ。どうやら火星人というのが僕の通称になっているらしい。とはいえ、親しげに名前を呼んでほしいわけではないが。
「僕は別に用はないけど」
いまだに痛む頭を持ち上げて見ると、それは昨日の体育で悪辣なファウルを仕掛けてきた奴だった。背後には数人の仲間――というより恐らく手下――を従えている。自分一人では何もできないくせに、集団となるとやたら増長する人間の典型だ。
「少しつき合ってくれればいいんだよ。ほら、早く来いよ」
手下の一人が僕の腕をつかんだ。振り払おうとすると、今度は別の手が伸びてきて体ごと持ち上げられる。こんな時、もう少し丈夫で大きめで酒に強い体が欲しかったと思う。
「ちょっと、何してるの!? 馬鹿なことはやめなさいよ!」
ソニアの制止などまったく耳に入っていないように、奴らは僕を連行する。抵抗などこの際、無意味だ。
「別に集団リンチなんて野蛮なことはしねえよ。こいつが転校してきてから、まだ歓迎してないと思っただけさ」
ファウル野郎がにたりと笑う。ひどく歪んで不気味な微笑。
「まあ、心配すんなって」
この場合、僕が言うべき台詞を代わりに吐いて、奴は教室のドアを閉めた。肩越しに振り返ると、唇を引き結んだソニアの顔がちらりと見えて、すぐに消えた。
体育館裏、とはずいぶん時代錯誤なシチュエーションだと思う。他に挙げられるのは体育倉庫、屋上、トイレといったところか。いずれにせよ人目につきづらく、そのため伝統的に悪事が行われてきた場所だ。
「何の用だよ。こんなところで歓迎会でも開いてくれるのか?」
これから何をされるにしても、この程度のことは言っておかなければ気が済まない。しかし奴らは僕の虚勢など気にも留めず、周囲を固めたまま、にたにたと笑っていた。
「ああ、歓迎してやるよ。ようこそ火星人ってな!」
リーダーの合図で始まった。それはパーティーのクラッカーのように、僕に向かって勢いよく放出される。
「うわっ」
情けない声を上げて、僕は顔を覆った。
突然浴びせられたのはホースの水。放水量を最大にしたそれが、四方から僕に襲いかかってきた。
「何のつもりだ!? 直接殴ることもできないのかよ!」
水の鞭から顔を庇いながら僕は叫んだ。四本の水が縦横無尽に叩きつける。冷たい以上に痛い。だが、こんな奴らの前で悲鳴など上げたくはない。歯を食いしばって非情な攻撃に耐えた。
「検疫に決まってるだろ。最近じゃあ地球の検疫システムも杜撰になってるらしいからな。代わりに俺らがやってやるんだよ」
「地球に菌を持ち込まれちゃ困るしな」
「ほら、消毒だ」
誰かが何かを投げつけた。頭からそれを浴びせられ、僕はむせ返る。トイレの洗剤あたりだろう。刺激臭が目や鼻に入ってしみる。
なぜ。
どうして火星人というだけで、こんな目に遭わなければならない?
くだらない。吐き気がする。何もかもが間違っている。
「っざけるなぁっ!」
僕は首謀者に殴りかかった。もう限界だ。たとえ叩きのめされたとしても、一発や二発この手で殴ってやらなければ気がすまない。
しかし庇っていた手を外した途端、一気に四匹の水蛇が僕の顔に噛みついてきた。目をやられては思うように動けない。
どうして、
どうしてこんな――
「――いい加減にしなさいっ!」
突如、鋭い声が上がった。と同時に四本の水の鞭が消え、スプリンクラーのような飛沫がまき散らされた。
「わっ、冷てえ!」
人にさんざん水を浴びせていた奴らが、情けないことを言う。にわかに崩れた包囲網の向こうに、小柄な人影があった。
「何を馬鹿なことしてるのよ! 停学にでもなりたいわけ!?」
顔を紅潮させ、怒りも露にするのはソニアだった。彼女の手には蛇口から外した四本のホースがある。にわかスプリンクラーは、蛇口の先を手で押さえて作ったのだろう。
「邪魔すんなよ、ソニア。俺らは検疫をやってるだけだぜ。変な病気でも伝染ったら困るからな」
「こんなことで検疫になるわけないでしょ!くだらないことはやめなさい!」
ソニアはよく通る声で叫ぶ。しかし、奴らの耳にはうまく入らないようだった。
「火星人なんかに肩入れすんなよ。こいつは汚ねえんだぞ。だいたい地球に入ってこれるような身分じゃねえんだ」
リーダーの男が僕をにらむ。まるでそれが合図のように、他の奴らも口々に罵り始めた。
「そうだ、出てけよ」
「出てけよ火星人」
「生意気なんだよ。地球の学校になんか来やがって」
「火星人のくせに」
声が唱和する。頭の中でこだまする。繰り返し繰り返し、火星人と責め続けられる。
「やめなさい! リオが可哀想よ! 火星人なのはリオの責任じゃないでしょう!?」
ソニアは校舎の端まで届きそうな声で叫んだ。その剣幕に、他の奴らは口をつぐむ。
一人の女子に対してずいぶん情けないが、ソニアには相手に有無を言わせない迫力が備わっているのだ。
ちょうどその時、チャイムが鳴った。引き時と思ったのだろう、いくぶん気を削がれた奴らは、ぞろぞろと体育館裏を後にした。去り際、汚い言葉と唾を吐く姿はあまりに見苦しい。
それを厳しい視線で見送っていたソニアは、奴らの姿が消えると思い出したように蛇口の水を止めた。
「災難だったわね。怪我は?」
振り返るソニアの顔にはいつもの表情が戻っていた。それを見た僕は、わずかに安堵の息を漏らしつつ、首を左右に振った。
理由はわからないが、何かが僕の中で引っかかっていたのだ。女の子に助けられてしまった情けなさや恥ずかしさとはまた別に。しかし、いつも通りの彼女を見て、僕は確証のない不安を振り払った。
ふと柔らかい感触が頬にあたった。いつの間にか、ソニアが自分のハンカチで僕の顔を拭い始めていたのだ。
「……あ、いいよ。自分でやるから」
これではあまりに恥ずかしい。ありがとう、と小さく呟いて、僕は彼女のハンカチで自分の顔を拭った。もちろん、全身ずぶ濡れなのでハンカチ一枚で拭き取れるはずもないが。
「これじゃあ、もう今日は授業に出られないわね」
「うん、まあ、ジャージで受けるしかないだろうね」
「でも今日はミス・グラントの授業もあるのよ。あの人は制服じゃないと受けさせてくれないわよ」
僕は眼鏡の奥の、あの鋭い視線を思い出す。ミス・グラントは、自分以上に他人に厳しい人なのだ。特に火星人に対する考え方はかなり保守的なので、僕がジャージ姿で授業に出れば、すぐさま教室から叩き出すだろう。
そう思ったら、だんだん憂鬱になってきた。朝方の二日酔いはさっきの冷水で醒めたが、じっとりとした感触が全身にまつわりついて気分が悪い。
すると、ソニアが手を打って提案した。
「ねえ、どうせなら今日はもう帰らない?」
「え!?」
「実はね、家で気になるものを見つけたの。リオにもぜひ見てほしくって。ちょうどいい機会だから、今のうちに出ましょ」
僕だけではなく、ソニアまで帰るつもりなのか? たった今、一限目が始まったばかりだというのに。
「そんな、だけどソニアまで学校さぼったらまずいじゃないか」
「いいのよ、別に。私は優等生だと思われてるから、一日くらい無断欠席したって大丈夫なの」
僕だってそう思っていた。――少なくとも昨日までは。
どうやら多くの人が、この小悪魔のような少女に騙されているらしい。その実態を知った僕は運がいいのか、それとも――……
先に歩き出したソニアが、不意に振り向いた。心を読まれたような気がしてやや動揺する僕に、彼女は人差し指を突きつけた。
「その代わり、ジャージでいいから着替えておいてね。ずぶ濡れのまま家に上がられても困るから」
まったく、彼女は抜け目がない。
ソニアの家に到着した時、僕は口をあんぐりと開けた。
古めかしい煉瓦模様の壁は、左右に遠く伸びて視界に入り切らない。この長大な壁に囲まれた敷地内が、どうやらシェリー邸らしかった。
息を呑んで大きなアーチ状の門をくぐると、そこは花畑だった。足下には白いじゅうたんを敷きつめたかのような芝桜が一面に咲いている。その白いキャンバスを赤や黄色に彩るのが雛菊や金盞花。そして時季外れの雪を積もらせたような木々は、満開の雪柳だ。
一瞬、ここが人家だということを忘れそうになる。だが、これはシェリー邸内の庭なのだ。火星にある僕の自宅も一軒家だが、さすがにこんな豪邸ではない。
花の匂いにむせ返りそうになりながら、僕は遠い玄関まで延々と庭を歩き続けた。
「……すごい広さだね。家の中で迷いそうだよ」
ようやくたどり着いた玄関に入るなり、僕は溜息をついた。花園の向こうの屋敷の中は、迷宮のように複雑で広大だったのだ。
吹き抜けの天井や螺旋階段を珍しげにきょろきょろ見回す僕に、ソニアは素っ気なく返す。
「二人で暮らすにはもったいないわ。うちのお父さん、無駄が多いのよ」
何とも手厳しい。
こんな娘と二人暮らしの父親も、実は結構気苦労が多いのかもしれない。僕は心の中で少しだけ、シェリーさんに同情を寄せた。
玄関から何十メートルかエスコートされて、僕はその部屋に入った。
「濡れた服は今、乾かしてるから。帰る時に忘れないでね」
「ごめん、ありがとう」
もちろん忘れるつもりはない。家までジャージで帰るのはごめんだ。ソニアの家まで来る間も、平日の真っ昼間からジャージ姿で歩くのはかなり恥ずかしかったのだから。
「見てほしいのはこっちよ。お父さんの書斎の中」
ソニアの言葉に僕はまたも驚いた。彼女に連れられて入ったこの部屋は、ぐるりと書棚に囲まれていて、どう見ても書斎そのものだったからだ。そんな僕の心中を覚ったのか、彼女は僕が疑問を発する前に答えてくれた。
「ここは前室よ。本当の書斎は奥にあるの。すっごくレトロな隠し方だけど」
そう言ってソニアは書棚の一角に手を伸ばし、おもむろに開けた。レトロと言うのも頷ける。棚の奥からはドアのキーらしい文字盤が現れたのだ。要するにこの奥に隠し部屋があるというわけなのだろう。
ソニアはいかにも慣れた手つきで解除キーを打ち込んでゆく。
「パスワード、知ってるの?」
「直接教わったわけじゃないわ」
怪訝な顔をした僕に、ソニアは悪戯っぽい目をして答える。
「書棚の中に監視カメラを隠しておいたのよ。指先に載るくらいの小さなのをね。まさか自分の娘に仕掛けられるとは思ってなかったみたいで、すぐにわかったわ」
まるでスパイごっこのようなことをする。しかも、それでちゃっかりパスワードを盗んでいるのだから、これまた凄い。
その時、僕はできる限り彼女を敵に回したくないと思った。切に。
「パスはMARTIAN――『火星人』よ」
「え……?」
「どうしてなのかは、中を見ればわかるわ」
キーを打ち終えると、書棚がドアとなって自動的に開いた。その奥には物に埋もれた狭い部屋があった。
「ここにあるのはみんな火星の資料なのよ」
「これ全部?」
書棚にはディスクや旧時代のテープ、紙の本といったものがぎゅうぎゅうに押し込められていた。それでさえ間に合わず、デスクの上にも散乱しているありさまだ。データは膨大な量に上るだろう。これをすべてシェリーさん一人で集めたのだろうか。
だが、いったいなぜ? 地球人である彼が、どうしてこんなに火星のデータを必要とするのだろう。
「お父さんは昔、火星史の研究をしてたのよ。私がそのことを知ったのは、この部屋に入ってからだけど」
そう言いながら、ソニアはデスクに腰かけ、おもむろに足を組む。
「まあ、黙ってたのも無理ないわね。地球で火星史を研究する人なんてごく稀だし、偏見もあるから学会でもあまり認められてないんだって。ここにある資料はほとんど自費で集めたみたいよ。周りにはただの酔狂としか見えなかったでしょうけど」
何となく、僕は頷けた。学会がどうと言われてもいまいちピンと来ないが、この地球でほとんどタブー視されている火星を研究しようとすれば白い目で見られるということは、想像に難くない。
「お父さん、本当は研究を続けたかったみたい。だけど火星研究者なんて地球じゃほとんど需要がないから、身の置き場がないものね。それで――……ああ、これ見て。走り書きのメモみたいなのだけど」
ソニアはデスクの端末を操作し、その画面を開いた。日付は十年以上も前だ。もとは日記なのかもしれないが、前後していくつかの単語が無秩序に並んでいるのを見ると、恐らく雑記帳か何かだろう。
そこには、こう書かれていた。
『真実だ。それを伝えることができなければ、研究などただの自己満足に過ぎない。情報を握る人間は限られてはならないのだ』
――何のことだろう?
「多分これが動機なんだと思う。お父さんは今、報道の仕事をしてるのよ。真実を伝えることが自分の使命だと思ったのね、きっと」
「真実……?」
「それが何なのか、私にはわからないわ。もしかしたらリオのお父さんと仲良くなったのも、その真実とやらに関係あるのかもね」
「真実って? 父さんがそれを知ってるってわけ?」
シェリーさんが火星の『真実』とやらを求めていたことはわかる。だが、それが僕の父さんと何の関係があるのだろう。
「さあ。私ももっと詳しく知りたいんだけど、重要な資料には何重もプロテクトがかけられてるのよ。まったく、変なところで用心深くて嫌になるったら。まあ、たとえ読めても素人の私じゃ何のことかわからないでしょうけどね」
それもそうだ。いくら僕たちがここで論議を重ね、推理してみたところで、明らかになることなどたかが知れている。まだ子供でしかない僕たちには、親が握る情報のほんの一部しかわからないのだ。
「――でも、お父さんが火星に味方したくなる気持ちも、何となくわかるかな」
端末をシャットダウンしながら、ソニアはふと呟いた。
「……どうして」
「だって、地球の火星人に対する扱いはあまりに不当だもの。ひどいじゃない。生まれなんて自分じゃ選べないのに。火星の人たちが可哀想よ」
その台詞に僕はどきりとした。
ソニアの声が記憶の中から甦り、今の言葉とともに頭の中で再生される。
(――火星の人たちが可哀想よ)
(――リオが可哀想よ!)
僕は可哀想な人間なのだろうか。彼女が情けないと連呼するのも、僕を哀れんでいるからなのだろうか。
(――生まれなんて自分じゃ選べないのに)
(――火星人なのはリオの責任じゃないでしょう!?)
では誰の責任だというのだろう。そもそも火星人は責められるべき存在なのだろうか。
(――火星に味方したくなる気持ちも、何となくわかるかな)
彼女が僕に肩入れするのは、僕が火星人だからなのだろうか。僕が火星人でなければ、他の奴らのように見向きもされなかったのだろうか。鋭い声で、厳しい目で、僕もまた叱咤されていたのだろうか。
頭が痛い。眩暈がする。
疑問が怒濤のように押し寄せ、渦を巻く。
――もし、そうならば。
それもまた暖かくとも差別といえるのかもしれない――
「リオ、どうしたの?」
その呼びかけに、僕は我に返った。
見上げると心配そうなソニアの顔がある。いつの間にか僕の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
「……いや、何でもないよ」
ほんの少し、僕は嘘をついた。とは言え、今ここで本心を口にすることなどできない。
「そろそろ服が乾いたみたいね。取りに行ってくるわ」
不思議そうな顔をしていたソニアだったが、あっさりと追求をやめ、書斎を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、僕は大きく息をついて額の汗を拭った。
ソニアの言葉に疑問を抱くなんて、どうかしている。いつだって彼女はまっすぐに見つめていたのに。何もかも斜めからしか眺められない僕とは違うのに。
そういえば水をかぶったせいか、どことなく背筋が寒いような気がする。風邪のひき始めかもしれない。
そうだ、これはきっと体が本調子ではないからなのだ。信じるべきものを見失いそうになるなんて。きっとそうに決まっている。
自分にそう言い聞かせ、僕は深呼吸してソニアを待った。この後、いつもの調子で彼女を迎えられるように。
僕は帰ったら真っ先に父さんの書斎を調べようと決心していた。
シェリーさんがあれだけ火星の資料を集めていたということが気になっていたのだ。もしかしたら父さんの書斎にも、何か秘密が隠されているのかもしれない。さすがに賃貸だから隠し部屋まではないだろうけれど。
乾いた制服で帰宅すると、僕はまっすぐに書斎に向かった。だが、ドアには鍵がかかっていた。大昔ならいざ知らず、ピッキングで開けられるような代物でもないし、中を覗く鍵穴もない。うすうすそんな予感はしていたが、あまりにお約束な結果に、僕は力が抜けてへたり込んでしまった。
しかし、同時にこれはおかしいと僕は考え始めていた。
いくら何でもこれはやりすぎではないだろうか。家族であるはずの僕に、いっさい仕事の内容を話さない。防音処理の施された書斎でこそこそと話し込む。その書斎には僕を一歩も踏み入れさせない。
列挙していくうちに、僕は何だか憂鬱になってきた。
父さんは僕に何も教えてくれなかった。その一方で、僕もまた父さんに何も訊こうとしなかったのだ。ソニアは父親の動向が気になって隠し部屋まで見つけ出していたというのに。僕は唯一の家族にさえ、無関心なままだったのだ。
「リオ? どうしてここにいるんだ?」
突如、降って湧いた声に僕は耳を疑った。
「と、父さん!?」
いったいこれはどういうことだ? 父さんは仕事が忙しくて帰宅が深夜になることも珍しくないはずなのに。なぜ今日に限って鉢合わせしなければならないんだ?
「今日は学校があったんじゃないのか。早退してきたのか?」
「……父さんこそ、何でこんな時間に」
僕は質問に答えなかった。代わりに問い返したが、父さんの耳には入らなかったようだ。
すれ違っている。多分、今までずっとこうだったのだろう。そのことにさえ気づかないほど、僕たちは互いに関心を持たずにいたのだ。
「まあいい。ちょうど学校に迎えをやるところだったんだ。これからすぐ火星に帰りなさい」
「な……何だよ、それ……っ」
あまりに唐突な言葉に、僕は声を失った。しかし父さんは、そんな僕にはお構いなく、端末で誰かを呼び出していた。
「待ってよ、父さん! 何で火星に帰らなきゃいけないんだよ!」
僕を無視して誰かと連絡を取っていた父さんは、端末を切ると僕に向き直った。
「地球に滞在するのは短期間だと言っただろう。学校にはもう届けてある。荷物は後で送るから、必要なものだけ持って出るんだ」
「そんなこと訊いてるんじゃない! 何で急に帰らなきゃならないんだって言ってるんだよ!」
僕はわめいた。こんなに感情的になったのは生まれて初めてのことかもしれない。僕は小さい頃から聞き分けのよい子供だと言われてきたのだから。
だが、今ならわかる。それは聞き分けがよいのではなく、主張すべき自己さえ持ち合わせていなかっただけだということが。何事にも無関心で、いちいち反発するほどの気力さえ起きなかったのだ。
そして、それは父さんも同じだ。子供と会話するのも面倒で、まともに向き合うことをずっと避けてきた。だから父さんは、珍しく反発する僕を見て戸惑った顔をしたのだ。
「父さんは勝手だよ! 何でも命令だけして、理由すら説明しないじゃないか! だいたいシェリーさんと何をこそこそ話し合ってるんだよ? 火星のことを調べ上げたりしてさ」
シェリーさんの名を出すと、父さんは明らかに動揺した。だが、説明などするはずもなく、面倒な会話を打ち切ろうとした。
「子供が立ち入るようなことじゃない。早く荷物をまとめろ」
「父さん!」
父さんが書斎のドアを閉めるのと、玄関のドアが開くのはほぼ同時だった。振り返ると若い男が二人、息を切らせて侵入してきた。一瞬、泥棒かと思って身を強ばらせたが、
「さあ坊ちゃん、急いでください」
そう言って手を差しのべた男には見覚えがあった。痩せ細った体に血色の悪い顔。名前は知らないが、確か父さんの部下の一人だ。
「出立まであまり時間がないんです。早く車に」
「え、ちょ、ちょっと……っ」
いきなり現れた男たちに半ば引きずられるようにして、僕は束の間の住居を後にした。 |