一
部室の入口の前で、私は大きく息をついた。
そのドアには、古びた木切れが看板代わりにかけられている。そこにペンキで書かれた文字は、「P.R.B」。それが、私たちのサークル名だ。
中に入ると、独特の油の臭いが鼻を刺激する。しかし、すでに慣れきった臭いに文句を言う部員は一人もいない。もちろん、私も含めて。
「野瀬君、まだ描いてたの。今日はこれから講義じゃない?」
先客にそう呼びかけると、彼はようやく私に気づいたように、手を止めた。
「ん? ああ、もうそんな時間か。さっきまで寝てたから頭が動いてなくてな。今日は休むよ」
「頭は動かなくても手は動いてるじゃない」
寝起きとは思えないほど、彼の手に握られた絵筆は素早く動いていた。
「展覧会まであんまし日もないからな。できるだけ早く仕上げたいんだよ」
その言葉に、私は再び溜息をつくよりなかった。
入口からはイーゼルの裏側しか見えないが、そのキャンバスに何が描かれているのか、私は知っている。それは淡い色合いの人物画だ。展覧会の直前となると、彼はいつもこんな調子なので、今回もこれ以上は何も言えなかった。
絵筆がキャンバスを走る音だけが、室内に響く。その静けさが破られたのは、次の瞬間だった。
「ねえ、大樹いるの!?」
駆けてきたのか、息を切らしながら入ってきたその声に、野瀬は驚いたようだった。
「里沙!? おまえ、講義はどうしたんだよ」
自分のことを棚に上げて、よく言うものだ。しかし、里沙はそんなことにはお構いなく、さらにまくしたてた。
「昨日の夜からずっと携帯にかけてるのに、何で電源切ってるのよ! 今日だって講義に出てこないし、心配するでしょ」
その台詞に、一瞬私はどきりとした。しかし、野瀬の方は何も感じていないのか、のんびりとした口調で返した。
「悪い悪い。電池切れてそのままにしててさ。後で充電しとくわ」
「まったく、人騒がせなんだから!」
「騒いでるのは里沙だけだろ」
「人の気も知らないで……おかげでまた寝れなかったわよ」
恨みがましい視線を向けられて、今度は野瀬も困った顔をした。
「おい、もしかしてまた薬飲んだのか? 癖になるからやめとけって言っただろうが」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
野瀬の言葉に、里沙の目がいっそう鋭くなる。
「それに、この前もらった薬がなくなっちゃったから、飲みたくたって飲めなかったわよ! 確か持ち帰ったはずなのに……」
「ちょうどいい機会じゃないか。これを機にすっぱりやめたらどうだ」
「他人事だと思って勝手なことを言わないでよ!」
里沙の怒声がさらに大きくなる。こうなると彼女はもう止まらない。どうしたものかと私も考えを巡らしていると、背後からまた別の声が上がった。
「おまえたち、外まで丸聞こえだぞ。痴話喧嘩をするならよそでやれ」
呆れたような顔で入ってきたのは、最後の部員となる優斗だった。我がサークルの構成員は、野瀬大樹、森優斗、橋田里沙、そしてこの私、羽田潤の四人だけなのだ。
普段、口数の少ない優斗が仲裁に入ると、ばつが悪いのか里沙も矛先を収めた。唇を引き結び、足早に部室を後にする。
バタンと強くドアを閉める音に、野瀬は背を向け、優斗は顔をしかめた。
感情の起伏の激しい里沙は、いつもこんな調子だ。男どももさすがに扱いに慣れてきたというところなのだろう。特に野瀬は、彼女とは長い付き合いなのだから――
「――潤」
気づいた時、いつの間にかそばまで来ていた優斗が、私の腕をつかんでいた。
思わずびくりとすると、その震えが伝わったのか、優斗は素早く手を離した。
「あ、ご、ごめん……」
私は反射的に謝った。これではまるで避けているみたいだと思ったのだが、優斗は特に表情を変えることもなかった。
「いや、別に。それで、潤はこの後どうする」
「私……は、今日はもう講義入ってないから、そろそろ帰るよ」
「そうか。じゃあ俺も次の講義終わったら、おまえんち行ってもいいか」
「う、うん、わかった。じゃあ待ってるね」
もうすぐ次の講義が始まるので、優斗も急いで部室を出て行った。私はその背に向けて、手を振るのが精一杯だった。
言動は不自然ではなかっただろうか?
きちんと笑顔を浮かべられただろうか?
短い会話でさえこうなのだから、これから先、私はうまく対応できるのだろうか――
ぐるぐるとそんな考えが頭をめぐっていると、不意に視界がぐらりと揺れた。
いつの間にか後ろから回された手が、私の体を仰向けに倒していたのだ。
「ちょ……ちょっと野瀬君! 何するのよ!」
部室の黴臭いソファに倒された衝撃で、もうもうと埃が舞い上がる。しかし、野瀬はそんなことなど気にする様子もなかった。
「何って、まあ昨日の続き?」
「続かない! あれはあれで完結!」
「そんなもったいない」
「続編に名作なし。てことで、ほら離れて」
近づいてくる野瀬の顔を、私は思いっきり押し返した。だが、その手を逆につかまれて、かえってソファに深く押し込まれてしまう。
「やめてって言ってるでしょ!」
「じゃあ何で昨日言わなかったんだ?」
その台詞に、私は返す言葉を失ってしまった。
確かにその通りなのだ。私がしっかりしていれば、こんな事態を招かずに済んだはずなのに――すべてはもう遅すぎる。
「……里沙がいるくせに」
「おまえも森がいるだろ」
唇の端にかすかな冷笑を浮かべると、野瀬はソファから降りた。
「早く帰ってやらないと、あいつが待ちくたびれるぜ?」
それは、さっきの優斗との会話を指しているのは明らかだった。それがわかっていて、こういうことをしてくるのだから、いっそう腹が立つ。
「待ちくたびれるも何も、さっき講義始まったばっかでしょ」
「それじゃ、あいつらが講義終わるまで、ここでご休憩してくか?」
「いい加減にしてよ!」
そう言い捨てると、私は大股で部室を出て行った。その際、ちらりと振り返ると、野瀬はすでに絵筆を握ってキャンバスに向かっている。その姿に、私は胸の奥がずしりと重くなるのを感じた。
キャンバスを埋める肖像は、目を閉じ、恍惚の表情を浮かべる――里沙の微笑だった。
|