夕 霧


 遥が久しぶりに純と再会したのは、まだどこかに肌寒さの残る四月のことだった。
「ご苦労様。ここまで車で来るのは大変だっただろう」
「距離的には大したことないんだけどね。視界が悪くて焦ったわよ」
「だろうな。だけど、これでも比較的いいほうなんだ」
 いぶかしむ遥をよそに、純は彼女の荷物を持って部屋に招き入れた。

 遥が桐立市を訪れるのはこれが初めてだった。今月からこちらに移り住んだ純に会うため、彼女は中古の軽自動車を駆って、山道を二時間かけてここまでやってきたのだ。
 二人はついこの前まで同じキャンパスで学んでいた。講座は違うが、今でも二人が理学部に所属していることに変わりはない。だが、純は四年に上がると同時に、キャンパスからずいぶんと離れたこの桐立市に引っ越した。卒論のテーマを湖沼の研究に決めたため、臨湖実験所のある桐立湖の近くに住居を移したのだ。

「湖畔とは聞いてたけど、実験所からは結構離れてるのね」
「そうでもないさ。原付きで三十分てとこだな。本当は中免を取りたいんだけど、さすがに教習所に通う暇がなくてね。さ、狭いけどその辺に座ってくつろいでくれ。今、お茶を淹れるから」
 純が狭い台所に消えると、遥は適当なところに腰を下ろし、ぐるりと室内を見回した。
 引っ越してから間もないためだろうが、段ボール箱がいくつか部屋の隅に積み上げられている。あとはテーブルにノートパソコンが置かれている程度の、無愛想なまでに飾り気のない殺風景な六畳間だった。
 この辺が高校時代からまったく変わっていない――そんなことを思いながら、ふと畳に視線を落とすと、厚い本が何冊か平積みされていた。
『水環境科学』『地球環境における化学像形成』といった専門書の中に、『究極の論理パズル』というタイトルを発見し、遥は眉をひそめた。

「あまり人の部屋を物色しないでほしいな。家宅捜索じゃあるまいし」
 ちょうどお茶を持ってきた純が、からかうような口調で遥の態度をたしなめた。だが、彼女はまったくそんなことを気にしている様子はなかった。
「純、ちっとも変わってないのね。こういうわけのわからない本ばっか読んでた高校時代から」
 『究極の論理パズル』を指して、遥はわざとらしく溜息をつく。すると、純はわずかに口角を上げた。
「別に小難しいものではないさ。じゃあ、一つ問題を出してやろうか」
「別にいいけど……」
 しかし純の表情は生き生きとしていて、どうにも断れるような状況ではなかった。この手の難問を出題しては他人を困らせるのが趣味なのだと熟知している遥は、もはや何も言わなかった。
「いいか。君はイエスかノーか、必ず正しく答えるんだ」
 遥が適当に頷くと、純は再び口を開く。
「君はこの質問にノーと答えるか、このカップを洗って片づけるか、どちらかをするね?」
「………ノー」
 少し考えてから答えたつもりだったのだが、純は首を左右に振った。
「それは論理的に正しくない答えだよ。ノーということは、そのどちらもしないはずだ。だけど、前半の『ノーと答える』を実行してしまっているだろう?」
「じゃあ、イエスしかないってこと?」
「そうさ。そして『イエス』と答えた以上、質問にノーと答えることはできないから、君に残された選択肢はこのカップを洗って片づけることだけってわけだ」
「何よそれ。全然質問になってないじゃない」
「まあね。これを『脅迫論理』というんだ。なかなか面白いだろう? こんなパズルがぎっしり詰まってるんだ。もしよかったら貸すけど」
「いりませんっ」
 それは残念、と純は微笑を浮かべながら熱い紅茶をすすった。
 純はいつもこういう奴なのだ。何を考えているのか、普通の人間にはなかなか理解しがたい。そのため、理解できずに翻弄されっぱなしでも付き合っている遥ぐらいしか、親しい人間はいなかった。
 そう、あと一人を除いては――

「ねえ、純。どうしてわざわざ桐立に越してきたの?」
 不意に放たれた問いかけに、純はカップを持つ手を止めた。
「卒論を桐立湖にしたからね。実験所に寝泊まりするより、アパートを借りたほうが何かと便利だし」
「そういうことじゃないわよ。どうして桐立湖を選んだのか訊いてるのよ」
 純は何も答えない。
「……やっぱり、先輩のこと?」
 すると、純は無造作にカップをテーブルに戻した。力の加減か、陶器がやや耳障りな音を立てる。
「そうだな。柏木さんのことがなければ、桐立湖を選んだりはしなかったかもな」
 純の視線はカップの中の小さな波に注がれている。思案している時の癖だ。付き合いの長い遥にはよくわかる。純は言葉を注意深く選んでいるのだ。
 ――だが、なぜ?

「遥。これから桐立湖に行ってみないか?」
 まるで重苦しい空気を断ち切るように、純は急に話題を変えた。
「今から?」
「そう。そろそろ夕暮れ時だから、ちょうどいい。車を出してくれないか」
「なるほど。人をアシに使うわけね。わざわざ車で来るように言ってたのも、初めからそういうつもりだったの」
 だが、遥の不平にも純はまったく動じない。
「君が電車で来たら湖岸まで歩かなければならないだろう。原付きに二人乗りはできないんだから。ああ、あとついでにカップも片づけておいてくれ」
「……は?」
 遥は呆れたような声を出した。しかし、純の返答はいたって明瞭だった。
「さっきの論理パズルの答えだよ」



 柏木は遥と純の高校時代からの先輩だった。とはいえ、柏木と純はそれよりも前からの知り合いだったらしい。遥は純との付き合いのうちに、自然と柏木とも親しくなったのだ。
「先輩は、どうして水の絵ばかり描くんですか?」
 遥はある時、柏木に尋ねたことがある。
 柏木は化学部と美術部という、共通性に乏しい二つの部活をかけ持ちしていた。その美術部が年に数回、展示会を開くたびに彼女は足を運んでいたのだ。そして、そこに飾られる彼の絵は、30号のキャンバスでもB2のパネルでも、必ず水辺の風景が描かれていたのだった。
「なぜだろうねえ。水が好きってわけでもないんだけど……ただ、描いていると落ち着くんだ。見たこともない、どこかの知らない風景をね」
「え? 想像で描いてるんですか?」
「そうだよ。この辺にはこんな風景なんて見られないだろう?」
 遥は思わず息を呑んだ。自分は写生会のたびに気が滅入るほど、絵心を持ち合わせていないということもある。だが、柏木の描き出す精緻な情景は、決して想像の産物とは思えないものだったのだ。
 その時に展示されていた絵は『夕霧』というタイトルがつけられていた。逆光でシルエットになった木立ちの向こう、黄昏の空が霧のかかった湖面に溶け込んでいる。わずかに揺れる波間に一日の最後の光が乱反射して、無数の煌めきをまき散らす。
 これを、本当にイメージだけで描ききってしまえるものなのだろうか? 遥はしばらく呆然と、キャンバスを食い入るように見つめていた。
 そして、そのことを純に話すと、思いもしない講釈を聞かされることになった。

「なるほど。柏木さんは水に固執しているんだね。水、それも穏やかな湖のような水辺を描くということは、恐らく母性を求めているんだよ」
「母性?」
「人は誰しも母親の胎内に立ち返りたいという衝動を持っているものなんだ。水は、要するにそこを満たす羊水のイメージというわけだな。外界から遮断され、穏やかな眠りを守ってくれる。何かから逃げ出したいと思う時に求めるようなところだ」
 このころ、純はよく精神分析だの深層心理だのという本を好んで読んでいた。そのまま続ければ行動科学の分野に進んでいただろう。しかし、結局のところ理学部に落ち着くことになるのだが、それは後の話である。
「じゃあ、先輩は何かから逃げたいって思ってるの?」
「そうとも限らないだろうよ。今挙げたのはあくまで一例さ。あの人は――もしかしたら、還りたいのかもしれない」
「帰る? どこへ?」
 それがわかれば苦労はしないけど、と言ってから、やがて純は思い直したように再び口を開いた。
「あの人の、本来の居場所へ」



 二人が桐立湖に着いた時、ちょうど空は黄昏色に染まるところだった。だが、鮮やかな落日を目にすることはできない。湖面一帯を霧が覆い隠してしまっていたのだ。
「すごい霧……向こう岸が何も見えないのね」
 遥は思わず感嘆の声を上げていた。
「桐立市はもともと濃霧の起きやすい土地なんだ。桐立の名前も本来は霧が立ち込める、つまり『霧立』と書いていたぐらいだ」
「ああ、だからここまで来る時も峠の辺りで霧が出てたのね。視界が悪くて運転するのに一苦労だったけど」
 車から降りた二人は、湖岸に沿ってゆっくりと歩いていた。ヨットハーバーのある向こう岸とは違って、この辺りはところどころ舗装もされていないような閑散とした所だ。しかも霧が出ているため、人通りは皆無と言っていい。こんな時にわざわざ散歩に出かけるような物好きが、地元にいるはずもないのだ。
 純に半ば連れられるような形でたどり着いたのは、古い木板でできた船繋りだった。漁に使う年期の入った小船がいくつか繋いであるその場所で、純はようやく足を止めた。
 遥は再び空を見上げた。
 黄みがかった空の色は、視界を覆う霧のためににじんで、湖の中に溶け込んでいるようだった。水面も湖岸も夕陽も、霧が介在することで境界線がぼやけてしまっている。確か前にもこんな風景を見たことがある――そう、あれは絵だった。水に焦がれ、描き続けたあの人の――

「柏木さんの捜索は桐立湖でも行われたよ。いくらさらっても何も出なかったけどね」
 はっと、遥は我に返った。
 純は霧で遮られた向こう岸を見つめたまま、船繋りに立っていた。その横顔を見ながら、遥はどこかで確信していた。
 ――恐らく、純はこの話を聞かせるために、ここまでやってきたのだ。

「その日も霧が出ていた。あの人はいつものように水質調査のために桐立湖に向かって、そのまま消息を絶った。誰でも湖に落ちた可能性を考えるだろうな。誤って足を滑らせたか、誰かに突き落とされたか、それとも――自ら身を投げたか」

 ちょうど一年前。大学院に進んだ柏木は研究テーマに据えた湖水調査のため、桐立湖付近にアパートを借りて暮らしていた。
 だが、ある日突然、彼は姿を消した。最後の目撃証言から、どうやら桐立湖に向かったらしいことが判明したが、杳として行方が知れない。そのうち捜索も打ち切られ、彼のことは講座の中でも帰らぬ人として扱われるようになったのだ。

「そんな。先輩が自殺なんてするはずないわよ。先輩はそんな人じゃないもの」
「するはずがないなんて、どうしてそんなことが言えるんだ?」
「だって……今までの先輩の言動を見てれば、そのぐらいわかるじゃない」
 しかし、純は小さく首を振った。
「君が今まで見てきた言動は有限個のものだろう? そこから規則を導き出して、それに当てはめるなんてことが整合性を持っていると思うのか?」
「……わかってるわよ、自分が先輩の一部しか見てないってことぐらい。でも……そんなことないって信じたいじゃない。純は、先輩が本当に自殺したとでも思ってるの?」
 確かに、論理的に突き詰めれば、柏木が自ら命を絶つという可能性を否定することはできないだろう。だが、そんなふうに割り切ってしまうことなどできない。少なくとも遥にとってはそうだった。
「可能性を示唆しただけさ。答えを出すすべはない」
 純はあえて明確な答えを出すことを避けているようだった。はぐらかされて、遥はそれ以上追求する気を削がれてしまった。
 すると、代わりに純が再び口を開いた。
「君は黄昏の意味を知っているか?」
 急な質問に、遥は面食らう。
「……え?」
「『誰そ彼(たそかれ)』――つまり、人の顔の見分けがつかなくなる夕暮れのことだ。そして逢魔が刻とも言う。昼と夜とが入れ替わる時、魔が姿を現し始めるんだ。要するに、夕方は『あちら』と『こちら』が入り混じる時ということになる」
 純はなぜ、いきなりこんなことを話し始めるのだろう。言動が突飛なのはいつものことだが、この時は何かが――ごくわずかな何かが違っているように、遥には思われた。
「そして、魔の降り立つ場所は水辺だ」
「水……?」
 遥はびくりと反応した。
「ああ。恐らく水が『あちら』と『こちら』を繋ぐ媒介となるんだろうな。だから古文書なんかで幽鬼の類が現れるのは、川辺のような場所が多い」
 ――水。
 ただその一語が遥の不安を煽る。
 あの人はいつも水を求め続けていたのだ。まるで癒されない渇きを潤そうとするように。
 そして、ここには水が――
「夕暮れの水辺に立ち込める霧は、まさに 『あちら』と『こちら』を繋ぐ回廊のようなものだろう。暗み始めた空と、水面の両方に溶け込む――そう、例えばこんな霧は」
 急激に周囲の温度が下がったかのように、遥はぞくりと寒気を覚えた。
 いつの間にか霧はいっそう濃さを増していた。薄紗のような白い幕が、四方を覆い尽くしている。
 息の詰まりそうな白。
 わずかな距離を隔てただけの純も、すでに輪郭がぼやけ始めている。このまま無限の白に呑み込まれてしまいそうで、遥は気が遠くなる。

「――夕霧が呼ぶんだ」

 その声は、透き通った白い世界に凜と響いた。
「あの人はそう言っていた。そして、その言葉を残したまま帰らなくなった。その時は何のことかわからなかったが、今ならわかる。あの人がずっと探し続けていたのはここだったんだ」
 純は遠くに視線をさまよわせた。白く覆われた、霧の向こうを眺めやるかのように。
「実を言えば、それを確かめたくて研究テーマを桐立湖に決めたんだよ。そうしてあの人の住んでいたアパートを借りて、同じ調査をして――同じものを見て、同じことをすれば何かがわかるんじゃないかと、そう思っていたんだ」
「純は……前にもここに来たことがあるの……? 先輩に、会いに来ていたの……?」
 遥はようやくの思いで声をしぼり出した。だが、対する純の口振りはいつもと大差なかった。少なくとも、表面上は。
「初めてあの部屋に泊まった翌日のことだよ、あの人がいなくなったのは。大事なはずのものをすべて置いたまま、行ってしまった」
 口を閉ざしたまま立ちすくむ遥を、純はこの時ようやく振り返った。
「遥。君は先に帰るといい。鍵は預けておくから」
 そうして手渡されたアパートの鍵を、遥は無意識のうちにきつく握りしめた。
 手のひらに深く食い込むほど、強く。

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