それからどうやって純の部屋に戻ってきたのか、記憶がなかった。
自分でも呆れるほど、ひどく衝撃を受けていたのだろう。畳に座り込んだまま、遥は跳ねる心臓を手で押さえ込もうとしていた。
忘れていた――いや、単に認めたくなかったのだ。
純が結局は女であるという事実に。たとえ普段は飾らない、朴訥とした口振りで話していようとも――
遥は重い首をめぐらせて、室内を見回した。
この部屋に、柏木はかつて純を招き入れたのだ。二人は何を語らったのだろう。長い夜をどのようにささめき合ったのだろう。そこに自分の入り込む隙間など、どこにもなかったのだ。
いつの間にこれほどの距離を隔ててしまったのだろうか。
純は、柏木の求めていたものが何であるかを知っていた。彼が消えた理由をおぼろげながらも感じ取っていたのだ。
遥は力なく座り込んだまま、しばらく動けなかった。何かを考えようとするだけで頭が重く、息苦しくなってくる。
(――大事なはずのものをすべて置いたまま、行ってしまった)
不意に、純の声が脳裏に蘇る。
大事なもの――大事だったはずの彼女さえ置いて、彼はなぜ行ってしまったのだろうか。そんなことばかりを繰り返し反芻する。
到底その夜は眠れるはずもなかった。
夜が明けても純は自分の部屋に戻ってこなかった。恐らく実験所にでも泊まったのだろう。ということはつまり、純はあの話をした後、もともと帰らないつもりでいたのだ。
遥は湖から少し離れたところに駐車し、岸辺まで徒歩で向かった。エンジン音で覚られないようにするためだ。
湖面には昨日と同じような霧がかかっていた。しかし朝霧は夕霧と違って冷たく、白い粒が肌の内部に凍み渡るような気がした。
遥は荒くなる息遣いを抑えながら、そこへ近づいた。古い木板で組まれた船繋り。ぼんやりとしていた影が、次第に人の輪郭を型どるようになってくる。
彼女は古い板が軋まないよう、細心の注意を払いながら一歩を踏み出す。
手が小刻みに震える。足がすくみ、気が遠くなりかける。
自分は何をしようとしているのだろう。
裏切りに対する報復?
抑えきれない感情の発露?
憎悪?
嫉妬?
どれも違う。そんな言葉では表せない。
ではなぜ自分は、
――自分は、何を失おうとしているのだろう?
思いがはじけた瞬間、遥は何かに縛りつけられたように身動きができなくなっていた。そして、凍りついた彼女を溶かしたのは、重みを持った声音だった。
「――なぜ、背中を押さなかったんだ?」
振り向いた純の顔に、表情らしいものは見当たらない。しかし、これが彼女の普段の顔なのだ。ただ、なぜかその声は残念がっているようにも思えた。
「……気づいて…たの……?」
消え入りそうな問いかけに、純は曖昧に頷いた。その仕草から、彼女が遥の出現だけを察していたのではないことが知れた。
恐らく彼女は気づいていたのだろう。ただ一人の友人の心に芽生えた、おぞましい感情にも。
「だったら……だったら、どうして黙って立ってたのよ!? まるで押してくださいと言わんばかりに、何でそんなに無防備でいられるのよ!! 私が何をしようとしてたのか、わかってたんでしょう!?」
遥は声の限りを尽くして叫んだ。湧き起こる激情が怒りによるものなのかさえ、彼女にはわからない。だが、抑えきれない感情をぶつけなければ、自分が壊れてしまいそうだったのだ。
対して、純は抑揚を欠いた声で呟くように答える。
「君の手で霧の向こうに行けるのなら、それでもよかった」
「……な…に……言ってるの……?」
しかし純は、その問いには答えない。
「さすがに自ら踏み出せるほどの勇気はなかった。だから、君にあの話をすれば激情に任せて背中を押してくれるんじゃないかと――そう思っていたんだ。君の感情を利用しようとしていたんだよ」
遥は血の気が引いてゆくのを感じた。
「そんな……そんなことって………」
否定するように喘ぎながらも、他のどんな説明を聞いたところで納得できないことを遥は知っていた。真か偽か、常に割り切って物事を捉える純の言うことは、恐らくすべて真なのだと。
「――自分はずっと、柏木さんの後を追っているような気がする」
純はぽつりと呟いた。その視線は、見えないはずの霧の向こうを泳いでいる。
「心理学も論理学の系譜も、すべてあの人の受け売りさ。自分のオリジナルなんかじゃない。そうして大学の講座まで同じところを選んで、結局ここまでたどり着いてしまった。もしかしたら、あの人は自分から逃げたかったのかもしれないと――ずっと思っていた。それでも、追わずにはいられなかったんだ。あの人が遠いところを見つめるたびに、どこかへ消えてしまうような気がして」
(――どうして水なんですか?)
あの時、遥は再び問うた。水を描くことで落ち着けるのだと答えた彼に。
(わからないんだ、本当に。――だから、描き続けているんだと思う)
(……わからないのに?)
(多分、描くことで知ろうとしているんだろう。繰り返すことでやがて昇華され、自分の本質に近づくかもしれないからね)
彼に欲があるとすれば、それは究明することにのみ費やされていた。そのため、どうしても解明できない心理学の分野を諦めたのだ。それは純の気質とよく似ていた。――遥はそう思っていた。だが、純のそれは結局、柏木の模倣に過ぎなかったのだろうか?
「だけど、ここへ来てようやくわかった。あの人は逃げたかったんじゃない。呼ばれていたんだ。自分の還るべきところを探し続けていたんだ」
純はわずかな微笑を浮かべた。それは求めていたものを手にした時の、晴れ晴れとした表情だった。
そうして彼女はゆっくりと告げる。長い間追い続け、ようやく得たその答えを。
「だから、自分もここで呼ばれる時を待とうと思う。夕霧の声に耳を傾けながら」
遥は吐息した。
白い溜息は霧の中に呑み込まれ、ゆるやかに溶けてゆく。まるで包み込むすべてのものを、白く染め上げてしまうかのように。
そうして彼女は踵を返し、無限の白を後にした。
※
遥が突然、卒論のテーマ変更を申し出た時、指導教官は困惑したものだった。
提出期限直前になっての変更ということもあるが、教授が難色を示したのはその研究対象だった。
何しろ桐立湖の研究に絞った学生が、相次いで二人も行方不明になっているのだから、その態度は当然と言えよう。
それでも遥は半ば強引に押し切って、住まいすら桐立市に移してしまったのだった。
そして今、遥はあの船繋りに立っていた。
まだ日暮れ前ということもあり、湖面に霧はかかっていない。湖には当然のこと干満がないため、風に撫でられた水面だけが穏やかな波を立てている。
(――自分はずっと、柏木さんの後を追っているような気がする)
不意に、懐かしい声が脳裏をよぎった。
純は柏木を追い続け、ついには霧の向こうへ行ってしまったのだろう。
最後に会話を交わした日――あの後、純は消息を絶った。同様にして行方不明になった前例との関連もささやかれたが、真相が闇の中という点もまた以前と同じだった。
「……同じだよ」
遥は小さく呟いた。以前ここへ来た時とは違って、すでに吐息が白く染まるような時季ではない。
――後を追っている。
それは遥も同様なのだ。彼女は柏木を追う純をこそ、ずっと追い続けていたのだから。
(――大事なはずのものをすべて置いたまま、行ってしまった)
純はどこか自嘲気味にそう言った。
あの時、遥は改めて気づいたのだ。純にとって大切なものは、自分ではなかったのだと。
柏木のことは確かに好きだったと思う。だが、あそこまで激情を掻き立てたのは、彼に対する想いだけではなかったはずだ。
(――なぜ、背中を押さなかったんだ?)
そのことに気づいてしまった瞬間、彼女は最後の一歩を踏みとどまった。だが、今ではそれでよかったと思う。あの時、自分の手で純を失わずに済んだのだから。純は、自らの意思で『あちら』へ行くことを選んだのだ。
柏木も、純も、彼らはともにこの世界に適合できない人間だった。そのため、遠いところからの呼び声を敏感に察知できたのだろう。論理的に突き詰めすぎて、結局その力の及ばないところへ行ってしまったのだろう。
そして、彼女はそんな彼らを羨ましく思うのだ。だからこそ、こうしていつまでも追い続けてしまう。たとえ彼方へ消えてしまった後だとしても。
人の気配のない水辺は、次第に暗み始める。
誰そ彼――空も水も境界を失う時、両者の間にかかる霧は、橋渡しの役目を果たす。
遥は目を閉じて、その気配を探る。
湿った風。肌に染み込む微細な粒。じわじわと、それは近づいてくる。
そうして耳を傾ける。
白い夕霧の中で、そっと。
――呼び声が聞こえる。
(了)
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