花霞

第一章 周流

     一


 中原のやや北部に位置する都市の名を安都という。大陸に君臨する大帝国、華の都である。
 繁栄という一語では語り尽くせないほどに、安都は今、何百万とも知れない人々で賑わっていた。海を渡り、山を越え、髪や目や肌の色の違う異国の者たちが安都を目指してやって来る。そしてまた、河を下ってくる旅人も多い。河といっても対岸が見渡せないほどの大河だ。黄色く濁った広大な河は、冀水きすいと呼ばれる。
 その流域にえんというむらがあった。安都から少し離れた郊外に位置するこの邑は、都へ上る途中で休息と補給のために立ち寄る以外、あまり人が訪れることはない。
 一面に広がる荒涼とした野に民家が点在する景色は、見る者に寒村と言わしめるものだろう。
 その焔の邑に、一軒の茶屋があった。小さな邑の、狭い店。安都に向かう旅人がそこに腰を下ろし、一服するのに相応しい造りである。街道沿いに、ぽつんと建つその店先で一人の少女が水を撒いていた。
 齢の頃は十五、六。黒々としたつややかな髪を、帯と同じ鮮やかな赤布で高く結い上げている。整った顔立ちだが、その双眸には鋭い刃のような近寄りがたい色を宿していた。
 元店主、花朱叡しゅえいの娘。名を紅耀こうようという。
 黙々と水をまく紅耀の頭上に降り注いでいた陽光が、ふと蔭った。見上げて、彼女よりもはるかに大きく長い影が、その小さな体を覆ったことに気づく。
「おまえが朱叡の娘か」
 立派な頬髭と広い肩幅を持つ男が、第一声を発した。紅耀は男に一瞥をくれると、すぐに地面に視線を落とした。
「そうだ」
「――そして、十二代目の炎狼だな」
 もう一人の、小柄な男の問いに、紅耀の手はぴたりと止まった。それを見た男は満足げな笑みを浮かべる。
「先代には一人の遺児しかおらんと聞いている。それにしても驚いたな、次代の炎狼がこんな小娘とは」
「はん、こんな豎子がきに何ができる」
「なに、技倆うでさえよければ問題はないとの仰せだ」
 隣に立つ巨躯の持ち主を向きながら、男は少女に第三者の存在を匂わす。そのあからさまな態度に、彼女は著しく気分を害した。
「まず、これを渡しておこう」
 男は懐から取り出した袋を、紅耀に放った。その重みと感触から、中には銀子ぎんすがぎっしりと詰まっていることが自ずと知れる。
「……何の真似だ」
 紅耀は重い袋を握りしめながら、ようやく顔を上げた。だが、返ってきたのは侮蔑混じりの冷ややかな嘲笑だけだった。
「それは前金だ。どうした、しばらく休業しているうちにそんな慣習さえ忘れて――」
「断る」
 男が言い終わらぬうちに、紅耀は手にしていた袋を投げつけた。それは小男にぶつかる前に、隣の巨漢の払った手に当たって中身が地面にばらまかれた。
 だが、こぼれ落ちた銀子になど目もくれず、彼女は毅然と二人の男を見据える。
「もう、そちらのほうは店仕舞いだ。悪いが他をあたってくれ」
 言い捨て、踵を返しかけた少女の小さな肩を、大柄な男が掴んだ。
「冗談じゃねえぞ、おい。てめえが炎狼なんだろうが」
「私は単なる茶屋の跡継ぎにすぎない」
「それはどうかな」
 紅耀は、鋭い視線を発言者の小男に向けた。
「炎狼は代々その任と技を次代に遺すという。先代の朱叡も御多分に漏れず、先例に倣ったのではないか」
 その時、ついに紅耀の怒りは頂点に達した。
「しつこいぞ!」
 彼らは晴天にも関らず、全身ずぶ濡れになる羽目に陥った。紅耀は苛立った声とともに、水桶の中身を二人の男の頭から浴びせたのだ。
「てめえ、何しやがる!」
 大男が憤るのも無理はない。一方、紅耀は動じるどころか飄然と、そして完全無視をきめこんでいる。
「帰れ。店先で騒がれては商売の邪魔だ」
「何を、この豎子がき……っ!」
 大男はたくましい腕を振り上げた。だが、それが振り下ろされる時にはすでに、少女の体は移動していた。拳が空を切り、体勢を崩した男の鳩尾に、鋭い蹴りが撃ち込まれる。
 急所と意表を突かれた男は、思わず苦痛に顔を歪めた。
「かよわい女子供に手を上げるしか能のない権力者のいぬが、偉そうに人間並みの口をきくな!」
 かよわいとは誰のことだ、と傍観者となった小男は思ったが、余計な口は挟まないことにした。一方、大男のほうはそれどころではなかった。怒りと屈辱に顔面の血液をたぎらせて、「かよわい」少女に掴みかかる。
 紅耀は跳躍した。その敏捷さは常人のものではなかった。すれ違いざま、手刀を太い首に打ちつけて、着地と同時に男の両足を払う。
 巨漢を地に這わせておいて、紅耀は一つ息をついた。だが、呼吸の乱れはどこにもない。
 一瞬の間に倒された男は、再び立ち上がり、少女めがけて飛びかかろうとした。しかし、それを小男が制止した。
「そこまでだ。帰るぞ」
「何……!」
「むやみに争うは、あの方の望むところではない」
 その一言で男は広い肩をすくめ、萎縮してしまった。「あの方」という言葉を耳にしただけで。
「邪魔をした。若き炎狼の娘」
 そう言いおいて、男は隣の偉丈夫を促し、店を後にした。紅耀は、水を吸った地面に立ち尽くしたまま、その二つの影を見つめていた。
 妙な胸騒ぎを内に秘めたまま。

 炎狼、と呼ばれる者がいる。
 それは、代々その血脈を保ってきた一族の主となる者に与えられる称号である。
 古より密かに生き存えてきた「狼」。彼らの存在が表舞台に現れることはない。
 炎の如く熱き、血に飢えた獣。
 彼らの実体――それは刺客。
 帝室から庶民まで、その対象を択ぶことはない。――報酬が見合いさえすれば。
 炎狼を雇うには三つの条件がある。
 一つには、彼らの提示した額通りの報酬を払うこと。それがいかに高額であろうとも、依頼者は寸分違わず払わねばならない。その引き換えに、彼らは己の生命に懸けて、外すことなく標的を仕留める。だからこそ、どれだけ大金を積もうとも、依頼に訪れる客は絶えないのだ。
 二つには、彼らとの「取引」の内容をいっさい口外しないこと。彼らはどんな仕事でも引き受ける代わりに、どんな些事でも他者に漏らすことを許さない。もしその禁を破れば、その者は必ずや己の生命をもって償わねばならないだろう。
 いま一つには、依頼者が自らの身分を明かすこと。これは彼らの力を必要とする者を明確化するためと、二つ目の条件――口外してはならぬという禁を破った時、その者の口封じのためという二つの目的からなる。
 そして、彼らは誰の味方にもつくことはない。
 いかなる者にも屈しない心――それが「炎狼」の誇りなのだから。



 紅耀は無造作に茶碗を卓に置いた。客用ではなく、自分のために淹れたものである。だが、その中身はとうに冷め、すっかりぬるくなっている。
 紅耀は大きく溜息をついた。
「仕事、か……」
 すでに明言した通り、現在紅耀は「炎狼」としての活動はしていない。これから先、再開するつもりもない。だが、いつの世でも汚れた獣の手を必要とする者たちはいる。特に暇と金が余るほどその傾向は強い。
 今日現れた者は「あの方」と言っていた。その口ぶりと態度から見て、相当な権力を持つ人物に違いないだろう。今日のところは追い払ったが、同じ手が何度も通用するとは思えない。
「厄介なことだ」
 どうやら、場合によっては住まいを移動させる必要があるかもしれない。面倒臭げに呟いて、紅耀は頭を振る。
 ――もう忘れよう。
 いずれにしても、今の自分には関係のないこと。
 ――自分は「人」として生きてゆくことを決めたのだから。
 狼の一族の末裔は立ち上がり、ゆっくりと部屋の奥へと入っていった。


       二


 紅耀の父、花朱叡は十一代目の炎狼だった。
 炎狼の一族、花家の修業は厳しい。幼い頃から繰り返される過酷な修業のうちに、生命を落とすことも珍しくない。だが、それ以上に多いのが、他者の手にかかる場合だった。
 それは身内を失った者の復讐であったり、同業者の干渉であったりもするが、権力者の伸ばした長い手によることも多い。炎狼の条件に従い、弱みを握られた者――それも権力中枢に近い者は、逆に彼らの口を封じようと試みる。
 しかし、決してしくじらぬ刺客の主が、そう簡単にたおれるはずもない。その代わり、身を守るに足る力なき者から順に姿を消していったのだ。
 そうして生き残った朱叡の代には、一族の者は全て失われていた。彼と、彼の子供以外。
 本来ならば、男児が跡を継ぐはずだった。しかし、そうなるべき炎狼の長男はすでにいなかった。繰り返される混乱と離散のうちに、その幼い姿は消え失せていた。当時七歳の童子。あざなをつける齢にも満たなかった。
 率いるべき一族を失くした「主」のもとに残されたのは、生まれて間もない女の赤子。その名を初めは小耀といった。だが、朱叡はただ一人生き残った我が子に改めて名を与えた。
 赤い光――紅耀、と。
 鮮血の色、「赤」を表す文字は、代々花家一族の主たる炎狼にのみ名づけられるもの。
 最後に残された幼い生命に、朱叡は一縷の望みを、一条の光を託したのだ。
 紅の名を戴いた瞬間、紅耀は炎狼として生きることを定められたのだった。

 紅耀は、それに気づいた。
 すでに夜は更け、辺りは闇に包まれている。
 いつもと変わらぬその空間で、拭いきれないわずかな違和感。
 ――誰かいる。
 常人には決して知りえぬだろう。しかし彼女は若くとも炎狼の名を受けた者であった。
 全身の肌にぴりぴりと感じる、複数の気配――そこから発する兇々しい空気。
 ――殺気。
 紅耀は蒲団の中で刀子とうすつかを握りしめた。彼女に合わせた小振りの刀。幼い時より慣れた感触。だが、それを人に向けてふるうことはなかった。とはいえ、今はそうも言っていられない。
 緊張を拭うように、彼女はもう一度柄を握り直した。



 静かに、闇が舞い降りた。
 否、それは夜陰に紛れた黒い人影に相違なかった。
 彼らは目ざとく「獲物」を見つけた。
 かけ声を上げるような愚は犯さない。無言のうちに、その一人が抜き身の大刀を振り下ろす。
 一刀で、蒲団とその下の寝台の半ばとを両断した。恐るべき膂力の持ち主だ。だが、彼の腕は本来あるはずの手応えを感じなかった。訝しむよりも先に蒲団を引き剥がすと、そこには腰斬された惨たらしい屍ではなく、真っ二つにされた藁の詰まった袋が横たわっていた。
「何!?」
 舌打ちする間もなく、男の背後で重い音がした。それが彼の片割れの倒れる音だと気づいた時には、彼は首筋に冷たく危険なものを感じていた。
「怪我をしたくなければ動かぬことだ」
 その声の主は、彼らが仕留めるべき相手であった。男は自分の失敗を悟った。
「殺ったのか」
 誰を、とは口にしない。紅耀は倒れ伏した男を軽く一瞥した。
「まさか。眠らせただけだ」
「ほう。天下の炎狼にしては手ぬるいことで」
 その声には揶揄するような響きがあった。紅耀は、自分が刃を突きつけている男を不快げに睨んだ。
「私は人殺しではない」
 断言したその時、紅耀の鼻先を鋭い風がかすめた。びいん、と音を立てて一本の矢が木壁に突き刺さる。
「甘えたことをぬかすでないわ。炎狼の名に臆したか、小娘」
 その声は、窓の外から発せられた。闇空に浮かぶ月の光が、その姿を照らし出す。背は六尺を越える長身。しなやかな、だが鍛えられた肢体を飾る容貌は不明だった。男の顔は目から下を黒布によって覆われていたのだ。
「貴様、何者だ!?」
 誰何の声も自然、厳しくなる。
 だが、対する男は、瞳に不気味な笑みを浮かべてみせた。闇に溶ける黒衣の隙間から、二つの眼光だけが妖しく光る。
「腑抜けの炎狼を始末しに来た者だ。名乗る必要もない」
 言うが早いか、覆面は弓を引き絞り、射放した。
 紅耀は咄嗟にかわしたが、彼女に羽交い締めにされていた大男は、そういうわけにもいかなかった。
 飛来した矢が、深々と男の喉元に突き刺さる。男は全ての力を失い、その場に崩れ落ちた。だが、紅耀にそれを見届ける暇はない。盾にするはずだった人質が無価値となった瞬間、彼女は踵を返して駆け出している。
 覆面に乗り込まれるより先に、紅耀は外へ飛び出した。一振りの刀子を握りしめたまま、街道とは逆方向に疾走する。
 しかし、闇に夜着の白布はあまりに映える。その背を追って再び矢が放たれた。
 弦音の響きと同時に紅耀は身をかわす。だが完全にはよけきれず、右袖の一部を剥ぎ取られた。威嚇であることは明白だった。
「まだ逃げるか。甘ったれの腰抜けめが」
 嘲るような声の主を紅耀は振り返る。覆面はさらに哄笑を浴びせた。
「やはり、おまえなど炎狼の称号を名乗れるような器ではない。ここで俺が葬り去ってくれるわ!」
「――私は人殺しではないと言っている!」
 紅耀は怒りにたぎらせた瞳を向けた。それでも男は怯む色すら見せない。
「それほど人殺しの呼び名とは価値あるものなのか? だったらそんなもの、おまえにくれてやる。仲間も平気で射殺せるような人間にはさぞ似合うだろうよ」
 言い終える暇も与えず、男は抜き身の太刀を構えて撃ち込んできた。
 刃と刃がこすれ、火花が飛び散る。
 噛み合う二本の刀身に、紅耀の白い顔が映る。
「何の真似だ……っ!?」
 太刀を受けた利き腕が衝撃で痺れる。だが、今は握りしめた刀を離すわけにはいかなかった。
「少しは骨があるかと思えば……やはり所詮は豎子がきに過ぎないか」
「何が言いたい!」
 紅耀は憤り、叫んだ。この男の目的は何なのだろう。自分には理解できぬことばかりを口走る。ただわかっていることは、この男の燃えるような殺意と、その技倆うでだった。
「知るまでもないことだ。おまえはここで冥府に送られるのだからな!」
 男は噛み合わせていた刃を外し、引き寄せた。
 刺突の構え――斬撃よりも殺傷力に優れた、一撃必殺の技。殺人を目的とした場合において多く使われる。
 しかし、その瞬間を待っていたのは紅耀のほうだったのだ。
 一瞬の間に鞘ばしらせた匕首を、闇空めがけて投げ上げる。
 男の繰り出す刺突を巧みによけながら、紅耀は飛びすさる。次の瞬間、男の頭上に黒い影がかぶさった。
「何!?」
 それは投網だった。炎狼の血を継ぐ者は、いつ狙われてもいいように至るところに罠を仕掛けておくもの。今回はたまたまその一つが効を奏したというわけだ。
 男がもがいているうちに、紅耀はその場を抜け出した。



 紅耀は走り続けた。次第に息が切れ、足が重くなる。
 ふと、紅耀の耳が水音を捉えた。
 小川のせせらぎなどではない。大量の水が押し寄せるように運ばれる河流の音。
 焔の脇を流れる大河――冀水。土壌のために黄色く濁ったその水面は、今は月光を反射して深い銀色に輝いていた。
 悠遠の象徴たる冀水の岸辺で、紅耀は深く息をついた。
 この河の滔々とした流れを目にし、耳にするたび、彼女の記憶は呼び覚まされる。慎ましくも穏やかだった日々を失ったことを。
 あの時も、冀水は変わらぬ姿で流れ続けていた。彼女の大切なものを呑み込んだにも拘らず――

 だが、今は感傷に浸るべき時ではない。紅耀はそのことを失念していた。
 一本の矢が、命運を分けた。
 肉眼では人も点にしか見えぬような位置から、唸りを上げて飛来する遠矢。それは彼女の背に突き立った。
 そのわずかな呻きは誰にも聞かれることはなかった。
 少女の小さな体は冀水の濁流に呑み込まれ、夜の地上から姿を消した。



序章次頁

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