「離さないで」
「ずっと、手を離さないでいてね」
それが彼女の口癖だった。だから僕たちはよく手を繋いだ。二人きりでも、人前でも、抱き合う時も、眠る時も。少し体温の低い彼女の手は冷たくて、この手を温めてあげるのが僕に課せられた使命なのだと思っていた。
そう、ほんの少し前までは。
「嘘つき! 離さないって言ったでしょ!」
荒げた声が僕の鼓膜を容赦なく叩く。その鋭さに僕は思わず顔をしかめた。
「そんなこと言っても……もう限界なんだ」
「ひどい……ひどいわ! 自分が可愛いからって、あたしを見捨てるのね!?」
何と罵られようと僕は心を決めていた。これ以上は、彼女を支えられない。
「嫌……お願い、離さないで……!」
涙声の懇願にも、僕は首を左右に振る。
「悪いな……もう、手に力が入らない」
彼女の顔が絶望の色に染まった瞬間、僕は手をぱっと離した。そうして絶叫とともに、彼女は深い谷底へと落ちていった。
『ロープウェイ事故。開いたドアから転落、一人死亡』
翌日の新聞にはそんな記事が載っていた。あの時僕が手を離さなければ、見出しは「二人死亡」になっていただろう。無造作に新聞を放ると、僕は大きく伸びをした。
一時間近く彼女を支えていたせいで、僕の腕は激しい筋肉痛に見舞われていたのだ。痛みをほぐすように、僕は右腕をもむ。あまりほぐしすぎてもいけないので、ゆっくりと。そうそう、そんな風に、優しく撫でるような感じで――
はっと我に返り僕は息を飲んだ。右腕の筋肉をもみほぐしていたのは僕の左手と――いつの間にか現れた、冷たい右手首だったのだ。
手首は僕の腕から下りてくると、右手をぎゅっと握りしめた。
(――ずっと、手を離さないでいてね)
なじみ深いささやきが、耳元で聞こえた気がした。
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