「水辺のシンデレラ」
ほ、ほ、蛍来い――
子供たちの歌声が、夜の涼やかな空気に吸い込まれてゆく。
見上げた山も、見渡す田んぼも、せせらぐ小川も、夜の闇を背負いながら、今は無数の青白い光に照らし出されている。
ぬかるんだあぜ道を歩きながら、私は懐かしさに目を細めた。
大学進学と同時に上京し、そのまま東京で就職した私が、お盆前に里帰りするのは初めてのことだった。
例年より前倒しで戻ってきたのは、地元の同級生たちと一緒に蛍祭りに参加するため。しかし、今はその行動を少し後悔し始めていた。
「暑い! かゆい! 痛い!」
今晩、幾度めかの舌打ちを私は放った。
東京よりはるかに涼しいからと、つい調子に乗って浴衣で出てきたのがそもそもの間違いだった。歩いているうちに浴衣の下は汗ばみ、そこへ蚊の大群に襲われ、さらに履き慣れない草履で靴ずれができるという、三拍子そろった悪夢。
次第に足取りが重くなり、いつしか私は友人たちとはぐれてしまっていた。
仕方ない、と私は自分に言い聞かせた。
地元に残った同級生たちは、私が離れている間に、いつしかその中でいくつもカップルが誕生していた。お邪魔するのも無粋な話だろう。
久々に顔を合わせた母親からは、「彼氏ぐらい連れてきたら」などと言われたが、それも無理な話だ。大学時代に付き合っていた人は地元に戻って就職し、今ではすっかり連絡も途絶えてしまった――
痛む足を止め、暗がりの中で見てみると、草履の鼻緒が取れかかっていた。運が悪いにもほどがある。
来るべきではなかったのだろうか。そんなことをふと思う。
都会で一人取り残され、ぼんやりと空虚な日々を過ごしている内に、私は昔訪れた、この蛍祭りのことを思い出したのだ。そうしたら居ても立ってもいられず、つい地元に戻ってきてしまった。
青白い光が、いくつも夜の闇を飛びちがう。その様子をぼうっと眺めていると、淡い灯に浮かび上がる手が、すっと目の前に差しのべられた。
「大丈夫か?」
手を差し出したのは、同級生の一人の広瀬だった。彼とは小学校から一緒の割には、ろくに話したこともない。
面食らって、何と返したものかとためらっていると、彼は私の足下に視線を落とした。
「ああ、鼻緒が切れかかってるな」
ちょっと貸せ、と言って彼は私の返事も待たずに、脱げた草履を持ち上げていじり始めた。
「直せるの?」
私は意外さに目を丸くした。時代劇のナンパの手口じゃあるまいし、草履の鼻緒を直すなんて芸当、一般人は持ち合わせていないはず。しかし彼は短くこう答えた。
「昔、直せなくて悔しかったことがあったからな」
その言葉に私は、ざあっと記憶の波が押し寄せるのを感じた。
――淡い光の飛び交う中、幼い私は川辺で一人泣いていた。
初めて着せてもらった浴衣が嬉しくて、はしゃぎ回った末に転び、草履の鼻緒がぷっつりと切れてしまったのだ。
親とはぐれ、あの時の私も一人で途方に暮れていた――
そんな時だった。目の前に黄色い物が二つ、放り込まれたのは。
それは、履き古したビーチサンダルだった。
いったい誰がと、辺りを見回していると、あぜ道を走り去る少年の後ろ姿を見つけた。蛍の群れに消えゆくその影は、なぜか裸足だった――
「もしかして、あの時の――」
黙々と手を動かす広瀬の顔を、私はまじまじと見つめた。
そう、久しぶりに蛍祭りに来ようと思ったのは、ちょうどあの日のことを思い出したから。いつしかしまい込んでいた記憶をたどるため、私はここへ来たのだった。
そして、あの日の少年が今、私の目の前にいる。
「今度はちゃんと直せたからな」
差し出された草履のつま先が、不意に光を放った。羽を休めに来た蛍が、青白い灯で私たちを照らし始めたのだ。
小川のせせらぎを聞きながら、私は探し求めていた人の手で、淡く輝く和製シンデレラの靴をそっと履いた。
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