青い軌跡 



 望遠カメラのシャッターが、かちりと音を立てた。
 これから先は夜を徹しての戦いになる。白い息を吐き出し、私は草むらの上に座り込んだ。
 天体写真にもいろいろあるが、その中でも星の日周運動を追う写真は、かなりの根気が必要になる。
 星は時が経つにつれ、円を描くように夜空を移動する。カメラの露出時間を長くしてその動きを捉えれば、その星の軌跡を撮ることができるのだ。
 作業自体はそれほど難しくはない。だが、特に冬はレンズに夜露がつかないよう注意しなければならないし、撮影中に長い間カメラを無人のまま放置しておくわけにもいかない。寒さの中、野外でじっと眠気と戦うのは容易ではないのだ。また、途中で空が曇ってこないか、撮影範囲内を飛行機が通過しないかなど、事前に入念な下調べも必要になる。

 天体写真の撮影は趣味で続けていたが、日周運動の星景写真は面倒なので、ここ何年も撮らずにいた。それなのに、わざわざ見晴らしのいい町外れの平地まで出向いて、星の軌跡を撮ろうと思い立ったのは、一通の葉書のせいだった。
 私は草の上からおもむろに、その元凶を引っ張り出す。星明かりの下ではうっすらとしか見えないが、何が記されているかは目をつぶっていてもわかる。
 それは星の軌跡を捉えた天体写真のポストカード。下のほうには小さく母校の名前と、天文研究会謹製という白抜きの文字が書かれている。かつて高校の文化祭で販売した内の一枚だった。
 写真の中央で、青白い光の軌跡を描くのはシリウス。文化祭のために、十年前の私が一晩かけて撮影したものだ。その撮影地点がちょうど今、私のいるこの草地。十年経っても、田舎の片隅は時を止めたように変わっていない。もっとも、昼間に見れば多少は違っているのかもしれないが。
 私はポストカードを無造作に裏返す。月明かりでは読めないが、そこには無骨な字でこう書いてあるはずだ。

 ――十七日の朝、日本を発ちます。

 十七日まで、あとわずかな時間しかない。この葉書が届いたのが今朝なのだから、どれだけ連絡が遅いかわかろうというものだ。まったく、筆無精は何年経っても直らないらしい。
 いまさら見送りになど行く気にもならなかった。そもそも明日は予定が入っている。だからせめて――というわけでもないが、久々に昔を懐かしんで星景写真など撮ってみようかと思ったのだ。
 昔とまったく変わらない光を放つシリウスを見上げていると、不意に背後から草を踏み分ける足音が聞こえてきた。こんな人気のない場所にいったい誰が――と訝しげに私が振り返ると、その人影は足を止めた。

「おっと、気づかれちまったか。後ろから驚かそうかと思ったのに」
「野田!? どうしてここに?」
 月光の下にたたずむその姿を見て、私は思わず頓狂な声を上げた。
「おまえの居場所訊いたら、ここにいるって言われたからさ。相変わらず星撮ってんだな」
「そうじゃなくて――何でこんなとこに来てんのよ? 明日、日本を発つんじゃなかったの!?」
 野田の間延びした答えに、私はつい声を荒げてしまう。それというのも、明日の出国を知らせてきた人物こそが、今目の前にいるこの男だからだ。明朝出発だというのに、国際空港まで片道何時間もかかるような片田舎に帰郷してくるとは思いも寄らなかった。余裕綽々なのか――はたまた単に考えなしなだけなのか。
 しかし野田は、私の詰問など気にしたふうもなく、相好を崩した。
「あー、久しぶりだな。由宇子のその怒鳴り声」
「ばかたれめ」
 実を言えば、直接顔を合わせるのは何年か前の同級会が最後になる。だが今、互いに交わす言葉は旧交を温めるというより、まるきり高校時代の延長だった。
「ほんと、懐かしいよな。ここは何も変わってねえや。あれから十年にもなるのに、今でも夜の部会の続きをやってるみたいな気がする」
 野田は満天の星空を見上げながら呟いた。吐き出した息が、月明かりの下で夜の一部を白く染める。その姿は、私の中の記憶と重なって見えた。

 高校時代、天文研究会は部会と称して、真冬の野外に集まってはよく徹夜した。あの時もこんなふうに、見上げる夜空を吐息で白く濁らせていたものだ。もっとも、そこにジンギスカンの煙や鍋の湯気が混じることも多かったが。
 しかし、野田だけはいつも一人で輪から離れて星を眺めていた。寒いから火のそばに来ないかと訊いても、光が近くにあったら星が見えないからと答えるのが常だった。
 あの頃を思い出すと、途端に胃のあたりが締めつけられてくる。それが空腹によるものだったりすれば、いっそ気楽なのだが。
「……何を年寄りめいたこと言ってんのよ」
 茶化すように放った私の台詞には、やや自戒がこもっている。久々に過去を思い出して、感傷的な気分になってしまった。まったく柄でもない。
「由宇子も全然変わってねえな。てことは、老け込んだのは俺だけか」
 私の内心に気づいているのかどうか、野田もまた軽く笑って返す。こんな応酬を繰り返していると、十年前に戻ったような錯覚を抱いてしまう。
 それは、夜空の下で互いの顔がよく見えていないからかもしれない。星は昔から少しも褪せずに輝いているのだから。

 不意に、野田は地上に視線を落とし、私がさっき設置した望遠カメラを指差した。
「これ、何撮ってんだ?」
「シリウスとオリオンの日周。今、露出中だからレンズの前を横切らないでよ」
「横切ったら不吉だしな」
「あんたは黒猫か」
 このあたり、どうも漫才コンビと言われた高校時代の会話をいまだに引きずっているらしい。そんな呼び名を思い出したのかどうか、野田はわずかに苦笑を浮かべて、再び星空を仰いだ。
「シリウスか。そういや高校ん時も、ここで撮ったよな。何時間も粘って、何台もカメラ設置してさ。でも結局レンズが曇ったりして、ちゃんと撮れたのは一枚だけで」
 野田は懐かしそうに目を細める。彼が今、心に描いているであろう情景が、私の中にも鮮明に浮かぶ。

 ――あれは私が入部した年の冬だった。

 冬の代表星座であるオリオン座と、全天で最も明るい星シリウスの日周運動をカメラに収めようという話になって、私たちは天体望遠鏡やら一眼レフやら寝袋やらランタンやら、いろいろ持ち出して夜中に交代で写真撮影をしたのだった。
 多分、あの時だ。凍えそうなほど寒い高原地の真冬、焚火から離れて一人で星を見上げる野田に、初めて声をかけたのは。
『寒くない? こっち来て火に当たれば?』
 友人に誘われたのだったか、私は途中入部だった。だから最初に参加した部会が真冬の野外になったのだ。そこで私は、夜にしか顔を出さない、ある意味本当の幽霊部員・野田と初めて会話をした。
『まったく素人だな』
 そう――そうだった。善意をもって話しかけた私に対する答えは、失礼千万なものだったのだ。
 少年野田はそこでふう、とわざとらしく溜息をついて、
『火ってのは光だろ。光のそばで星なんか見られるかよ』
 これだから困るんだよ素人は、とまで付け加えたのだ。
 その時、私が何と答えたのか、今となっては思い出せない。考えてみればもう十年も前の話だ。その間に、指から砂がこぼれ落ちるように失われていった記憶もずいぶんあるのだろう。
 だが、いずれにせよ十年前のその時に、野田という部員に対して好印象を持ちようはずもない。それなのに、いまだ付き合いのある当時の人間といえば野田一人なのだから、人生は何が起こるか本当にわからないものだ。

 そんなことを思いながら私がくすりと苦笑を漏らすと、野田は少し首を傾げてから、私の設置した望遠カメラを指差した。
「なあ。この写真、現像したら送ってもらえるか?」
「いいけど、うまく撮れてるかわかんないよ」
 すると、野田は大げさに首を振った。
「いや、これがいいんだ。カナダじゃシリウスが見えないからさ」
 私の呼気が、瞬時に視界を白く染めた。
 そう、野田からの葉書には、仕事の関係でカナダ北部の地方都市に移ることになったと記されていた。ここよりもはるかに緯度が高く、北極点に近い地域では、星座の見え方もずいぶん変わる。もちろん北半球と南半球ほどの差異はないのだが、それでもシリウスを含むおおいぬ座は地表の下にもぐって見えなくなってしまう。
「向こうはずいぶん星も違って見えるんだろうね」
「ああ、前に行った時に見たけど、壮観だぞ。何せ山奥だから、まるで星が降ってくるみたいなんだ。それでもやっぱ、全天で一番明るいシリウスが見えないのは寂しいからさ。写真で日本を思い出して、時々こっそり泣くことにする」
 わざとらしい泣きまねの仕草に、私はただ苦笑を浮かべるよりほかない。
 軽く下唇を噛んだ、かすかな笑みを。
「何言ってんのよ。……これから甘い生活が待ってるんでしょ、新婚さんは」
 星の軌跡を描いた一通の絵葉書。その裏に記された無骨な文字が脳裏に浮かぶ。

 ――十七日の朝、日本を発ちます。
 そして。

 ――式は向こうで挙げます。
 と――そう書かれていた。
 詳しい日取りも何もなく、そっけないほど簡潔に。

「まあ、籍を入れるまでが長かったからな。いまさらどう変わるってわけでもないだろうけど」
 野田がぞんざいな物言いになる時は、照れ臭さを隠そうとしているのだと、十年来の付き合いで私は知っていた。いまさらいい歳をして何を照れているやらと思うと、無性におかしくなってくる。
 そこで私は、頭を掻いている新郎の背中を一発たたいてやった。
「大事にしなよ」
 それで気合が入ったのかどうか、野田はにやりといつもの笑みを返してみせた。
「決まってるだろ?」
 写真頼んだぞ、と言い置いて、野田はさっさと帰っていった。そもそも明日出国の身で、前夜にこんなところで油を売っている場合でもないはずなのだが。相変わらず行動に論理性のない男だ、と私は小さく溜息をついた。
 一緒に国外へ連れていくはずの新妻を放っておいて、わざわざ古い馴染みにひょっこり会いに来るとは何事だ。だいたいそれなら、出立を知らせる手紙を送ってくる意味がないではないか。こんな古びた十年も前の手作り絵葉書など――
 私は草の上に寝転んで、葉書を取り上げた。
 地上に大の字になって空を見上げると、星々の輝きが間近に迫ってくる。特に今夜は雲がない。その分、夜間は気温がぐっと下がるのだが、凍えそうになってでも満天の星空を肌で感じる魅力には勝てず、こうして外に出てきてしまう。
 降りそそぐような星の瞬きの中で、最も強い光輝を放つ青い星。
 私はじっとシリウスを見つめる。

『俺はシリウスが一番好きだな』
 十年前の声が耳の奥で聞こえる。

『やっぱさ、何でも一番がいいよな。全天で一番明るい星。それが見えるから冬が一番好きなんだ』
 いくら寒くってもな、と焚火に群がる他の部員を遠目で見やりながら、野田は言った。

 ――あの時から。

 私はずっと追い続けていた。最も明るく輝く、眩しいほどのその光を。
 私にとって一番の光は、悔しいけれどあいつだった。それがあまりに近かったせいで、手を伸ばせば届くのに触れようともしなかったのだ。
 もちろん純情な乙女でもあるまいし、第一そんな歳でもないし、少女時代の淡い想いだけを引きずって生きてきたわけではない。だから互いに行き会うこともなく、それぞれ別の人生を歩んできた。
 それでも心のどこか片隅で、いつもあの光の軌跡をずっと追い続けていたような気がする。そのことを認めるのが嫌で、無意識のうちに星景写真を撮らないようにしていたのかもしれない。
 だけど、それも今日でおしまい。
 空から星が姿を消したのに、いつまでもその跡を追うのはやめよう。夜が明けたからといって、星は光を失うわけではない。たとえ目には見えなくなっても、ずっと輝き続けているのだから。――決して、その光が自分を照らすことはないとしても。
 おもむろに私は草の上から体を起こした。冷たい夜気の中で、星だけが冴え冴えとした光を降りそそいでいる。
 私はそっと撮影中のカメラに手を伸ばす。
 そうしてシャッターを切り、青い星の軌跡を永遠に止めた。



  

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