風砂の旅へ

 旅帰りなのだとその男は言った。
 身なりは見るからにひどいものだった。ぼろとも見紛うほどの褪(あ)せてやつれた外套にくるまり、うつむき加減にじっと座っていた。足元には細かい砂が撒(ま)かれたように散らばっている。
 外に広がる砂原を渡ってきたのだろうと私は思った。そうであれば、男のすすけたさまも納得できる。
「この村もそろそろだな」
 男は渇ききった喉から、ひび割れた声を押し出した。まるで老人のようにしわがれてはいるが、その体躯からはまだ老境には入っていないだろうと思われた。
 とはいえ、外套の頭巾に隠れて顔は見えない。恐らくは身体を蝕む疲労が病魔のように取り憑いて、この男を老け込ませているのだろう。
 男はその動作さえも億劫そうに、再び口を開いた。
「砂はすぐそこまで迫っている。この村が呑み込まれるのも時間の問題だ」


 世界は砂に覆われていた。
 かつては多くの人々が行き交い、栄えた街も、砂の海に沈んで久しい。母なる海は砂漠に没し、水に餓えた大地が大半を占めていた。
 人は砂を怖れ、砂を運ぶ風を畏れた。
 風を鎮め、砂を打ち払えと祈りを込めて、石に神を模した像を刻んで崇めた。迫り来る砂を食い止めるため、どの集落の入り口にも石像が群立した。
 しかし風は止むことを知らず、世界を覆すように吹き荒れ、砂の災いを連れてくる。大地が震え、轟き、一瞬にして全てを喰らい尽くす。


「洪砂というやつを知っているか?」
 噂でしか聞いたことはない。普段はおとなしく沈んでいるだけの砂が、嵐に乗って津波のように押し寄せるのだと。だが、この村はまだ被害にあったことがない。そのために住民たちもどこか安穏としていられるのだろう。
「一つ先の村が呑まれたな。これで堤は切られたも同然だ」
 人は砂に対し為すすべを持たない。陸続きである以上、いくら高低差をつけたところで砂の微細な粒子は地を這い上がって浸食する。集落自体が防波堤となるしかないのだ。


「砂の果てを見たことがあるか?」
 男はそう問いかけてから、自嘲気味に苦笑した。
「……いや、おまえが見られるはずもないな」
 その通りだ。私はここで人の話を聞くことしかできないのだから。しかし、それについては初耳だった。
「俺は砂には限りがあると思っていたのさ。こんな赤茶けたような世界には終わりがあって、その境界線の向こうには別世界があるんだと。だから、そいつを探しに旅に出たんだ」
 すると男は低く喉を鳴らし、乾いた片頬を引きつらせた。
「だが、その先には何もなかった。ただ白いんだよ、世界が。果てしない白があるだけだ。ここもいずれはそうなるんだろう。洪砂に呑まれ、風に運ばれて、次第に白に染まってゆくのさ」
 果てしない白とはどんな世界だろう。
 荒涼とした白い海。そこには生きるものの影はなく、時折風が乾いた肌を撫でてさらってゆくだけ――私はそんな世界を想像してみる。だが、精緻な情景を思い描くことはできなかった。
 この男はそこで何を思ったのだろう。蕭々と吹き荒ぶ風の音を聴き、限りなき白を瞳に灼きつけた、その時に。
 私はひどく男が羨ましくなった。砂にまみれながら、果てしなく白き世界に辿り着いたその男を。


 不意に、男の足元から顔を覗かせるものがあった。男は気だるそうにそれをつまみ上げる。節くれだった指の先で、甲殻のつなぎ目がかさかさと乾いた音を立てた。
「この蟲はな、水のない世界でも生きていけるのさ。こいつらには洪砂なんてものは関係ないんだろう。砂に呑まれたって、そこが住処なんだからな」
 乾いた蟲は男の手の中でもがき、体を軋ませる。
「砂の中はこんな奴らばかりだ。思うんだが、地上にはもう生物の住む場所なんかないんだろうよ。砂の中で、砂と共存できるものだけが生き残る。これだけ水のない今、身体のほとんどが水でできた動物は適合できない。環境に合わせて進化できなければ死滅するしかないのさ。水の世界から砂の世界へ――新たな生態系が始まったって、ちっともおかしくはない」
 男の手の中で蟲が抗い、身じろぎすると、砂がこぼれ落ちた。まるで砂岩が風化されて崩れるように。
 一見、蟲の体内から排出されているようだが、実のところ砂を滴らせているのは男のほうなのだ。


「あんた、そこで何をしてるんだい!?」
 男の背後で、小柄な年輩の女が叫んだ。気を取られたのか、男が手を放すと蟲はせわしく地面を這う。
「――蟲!」
 足元を小さな黒い影が走り抜けるのを見て、女は嫌悪を露にする。蟲が砂に潜ると、今度は男を睨みつけた。
「あんたが連れてきたのかい!? この他所者が!!」
 女は憎悪にたぎった瞳を向ける。わめき散らす声に異変を覚り、村の者たちも集まってきた。
「おい、どうした?」
「この男が蟲を連れてきたんだよ!」
 村人たちはざわめいた。しかし男は腰を据えたまま、動じた様子を見せない。
「驚くことはないだろう。この村はもうすぐ砂に呑まれる。蟲はそのことを知っているのさ。きっとこの地面の下では無数の蟲たちが蠢いているはずだ」
「何だと!?」
「蟲が洪砂を呼ぶんじゃない。洪砂が来るから蟲が移り住むんだ。砂はもう目の前まで迫っている」
 男が静かに言い終えた時、明らかに空気が変わった。村人たちの敵意がその場を緊迫させただけではない。風が変わったのだ。
「――来るぞ!」
 誰かが叫ぶ。その声に突かれたように、他の者たちも我に返った。
「洪砂だ! 丘の避難所に移れ! 残った奴もなるべく高い所に逃げろ!」
 村人たちは慌ただしく散っていった。
 その中の一人が、男のほうを憎らしげに振り返る。
「他所者を避難させるような所はない。蟲と一緒に洪砂に呑まれるんだな」
 男は返事をする代わりに小さく喉を鳴らした。その音は、私以外の誰にも聞かれることはなかった。



 住民はみな避難してしまったのだろう。しんと静まり返った村の外れには、男と私だけが取り残された。
「見ろ、この手を」
 外套の中に仕舞い込んでいた手を、男は無造作に差し出した。
 硬く、乾ききった手からは、砂が止め処なく滴り落ちている。拳に砂を握りしめているわけではない。手指の先が、砂のように剥落しているのだ。
「手だけじゃない。全身がこんな具合さ」
 身体が礫(れき)のように硬くなり、表面から砂のように脆く崩れてゆく。
 砂礫化の症状――それもかなり進行している。
「これを人は忌まわしい病だと言うが、それは間違いだ。いや、きっと新たな世界の到来を恐れているんだろう。そこには古い生き物は住めないからな」
 男は砂礫と化した手で、地面の砂をつかんだ。
「俺はいずれこの砂と同化する。それは、新たな世界に溶け込むということだ」
 砂礫の手から、さらさらと小さな粒が滑り落ちる。その砂が大地から削り取られたものなのか、男の手から剥がれ落ちているものなのかは判らない。
「いつかはあの砂の果てに運ばれるのなら、それもいい……」
 砂をはらんだ風が吹く。嵐を呼び、洪砂を起こす――それは遠く砂の果てから吹く風。
 男は目を閉じ、乾いた風に砂礫の身を預けた。







 村は砂の中に埋没した。
 襲来した洪砂はひときわ大きく、貪るように全てのものを喰らい尽くした。今ではもう人の営みの跡など、原形すらとどめていない。
 あれからどれほどの時を経たのだろうか。私はそれを数えるだけのすべを持たない。人に崇められ、祀られて、尊い姿に彫られただけの石である私には。
 できたのは、ただ村の入り口に立ち尽くし、旅人の話に耳を傾ける程度のこと。砂の災いを鎮めよといくら祈られようとも、私には何の力もなかったのだ。

 砂を遮る堤を失くし、風はいっそう強くなった。
 広漠たる砂の海。そのただ中で、私は孤島のように取り残され、日々風砂にさらされている。
 あの男は、新たに砂の世界が来ると言った。生命の母は海から砂に代わるのだと。だからこそ、砂礫と化しゆく己をただ静かに受けとめることができたのだろう。砂の果てを目にし、そこへ運ばれることを願ったのだろう。

 私もまた、長い歳月をかけて緩やかに風化されてゆく。こうしていつかは砂の中に溶け込むのだろう。あの男の言う、砂の新たな生態系に取り込まれるのだ。
 その時が訪れるまで、砂の中に身を預けよう。風の音を聴き、砂の流れとともに眠ろう。やがては小さな粒となり、風に乗って旅をするのだ。
 まだ見ぬ果てしなき砂の世界へ。

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