雨 音

 その日もまた、空はどんよりと曇っていた。
 学校の屋上のフェンスにもたれながら、瀬古晴人は大きく息を吐き出した。溜息は、夏の熱気のこもった風に運ばれてゆく。
 風はある。そよぐ程度でも確かに吹いているのに、空を厚く覆う雲は微動だにしない。
 何しろ、今年の夏は「観測史上最悪の日照不足」なのだという。連日、テレビや新聞でその決まり文句が飛び交うのを見るたびに、晴人はいっそう気分が悪くなる。
 息の詰まりそうな空気を吸い込み、吐き出したところへ、背後から聞き慣れた声が上がった。
「ようやく見つけた、瀬古君! どういうことなのか説明してもらうわよ!」
 彼とは正反対に、薄暗い空の下でも元気な声を張り上げるのは、同級生の早川綾乃だった。普段、合唱部で鍛えている腹式呼吸は、こんなところでも絶大な効果を発揮する。
「……ちょっと、聞いてるの?」
 せっかく大声で現れたのに、晴人が無反応だったので綾乃は眉をひそめた。
 すると、晴人は灰色の空を仰ぎながら、ぼそりと呟いた。
「智恵子は東京には空がないといふ……」
「はあ? 誰よ、智恵子って」
「光太郎の奥さん」
 晴人が口にしたのは『智恵子抄』の一節だ。毎日空を厚く覆う黒々とした雲に嫌気が差して、著者の高村光太郎の妻、智恵子の言葉を借りてみたのだが、綾乃を感心させるどころか余計に腹を立たせてしまったらしい。
「何、馬鹿なこと言ってるのよ! だいたいここは東京どころか、山に囲まれた田舎でしょうが!」
「でも空はない」
「口答えするんじゃないの!」
 これ以上、火に油を注がないように晴人は口をつぐんだ。綾乃は怒りを鎮めるように大きく息を吐き出して、ようやく本題に入ることにした。
「そんなことより、今年の発表会はピアノ伴奏しないって聞いたけど、どうしてなの?」
 綾乃が言うのは、彼女たちの合唱部が毎年文化祭で開くコンサートのことだ。去年、一昨年と、ピアノの腕を見込まれて、部外の晴人が伴奏を務めてきたため、今年も担当するものと思われていた。
 その期待をあっさり裏切ったので、わざわざ綾乃は抗議にやってきたのだろう。合唱部長は「仕方ないな」と苦笑しただけだったが、彼女はそれでは気が済まなかったらしい。
「今年は同じ日にある、音楽会館のコンサートのピアノ演奏を頼まれてるんだ」
「音楽会館のって……確か深大交響楽団が毎年やってるやつでしょ。何で瀬古君が大学生に混じって演奏するのよ」
「ああ、本当は別の人が演奏することに決まってたらしいんだけど、そのピアノ奏者が手を怪我して、しばらく弾けなくなってさ。それで、オケにいる知り合いの先輩から代役を頼まれて、断れなくて……」
「文化祭と同じ日だってわかってるのに、何で断れないのよ。だいたい、大学には代役頼める人が他にいなかったの?」
「難しいだろうな。練習する期間もあまりないし」
 深大こと深府大学は音楽大学ではないし、交響楽団も音楽好きな有志が集って結成した程度のものだ。レベルはさほど高くないし、短期間でソリストを務められるような代役のピアノ奏者も、そう簡単には見つからないだろう。だからこそ外部の、しかも高校生の晴人に白羽の矢が当たったのだ。
 だが、綾乃はまだ納得できないらしく、恨みがましい視線を向ける。
「毎年、うちの部は瀬古君のピアノを楽しみにしてるのよ。それに、私たち三年は今年で最後なのに……」
「そうは言うけどな、早川。今年はまだ合唱部から正式に依頼されてたわけじゃないんだし、どう断れっていうんだよ。それに、伴奏ぐらいなら部員でもできる―――」
 しかし、晴人はそれ以上言葉を続けることができなかった。怒りに震える綾乃が、手にしていた楽譜を晴人の顔に投げつけたのだ。
 あまりのことに彼が声を失っていると、綾乃はビブラートを効かせた低い声を押し出した。
「……うちの弱小合唱部で、コーラスが一人減ったらどうなると思ってるの。おかげで今年は全曲アカペラよ」
 思わず身構えた晴人をにらみつけ、綾乃は声を張り上げた。
「よぉーくわかったわ。要するに、弱小合唱部のつまらない伴奏ぐらいよりも、自分の腕にふさわしい舞台を選んだってわけね、天才ピアニスト君は!」
 叩きつけるようにそう叫ぶなり、綾乃は踵を返して足早に歩き始めた。
「おい、早川!」
 晴人は慌てて呼び止めたが、それを拒絶するように、綾乃は屋上のドアを力任せに閉めて、彼の視界から消えた。
「何だよ、あいつ……」
 ぼやいて、晴人は顔に当たって落ちた楽譜を拾い上げる。軽く埃をはたきながら、彼は先程よりも深く、苦い溜息を吐き出した。


 晴人のピアノ練習は帰宅後から夜遅くまで延々と続く。
 ここ連日弾いているのは音楽会館で演奏する予定の、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番。第五番「皇帝」に比べるとやや地味だが、優美さで定評のある曲だ。
 日夜の練習により、個人練習はだいたい仕上がっている。あとはオーケストラと合わせるだけで、来月の本番までには充分すぎるほどの余裕があるだろう。
 晴人は全国のコンクールでも常に上位を占め、県下ではそれなりに名が知れていた。地元に音楽高校がないため、近くの普通高校に通っているが、今年は音大の推薦入試を受けるつもりでいる。
 だからこそ高校OBの先輩の依頼を、即座に引き受けたのだ。県の開催する音楽会館創立記念コンサートは、地元大学のオーケストラだけでなく、プロを招いてのアンサンブル演奏も行われる。そのためチケットの売れ行きは毎年かなりの好評だ。自分の腕を振るうには絶好の舞台――依頼が来た時、そう思ったのは嘘ではない。
(――自分の腕にふさわしい舞台を選んだってわけね、天才ピアニスト君は!)
 不意に綾乃の声が脳裏をよぎり、晴人は唇を噛んだ。途中で演奏を止め、鍵盤から指を離して深く息をつく。
 彼女の言葉はまったく図星を突いていた。部員ではないのだからと自分に言い聞かせてみても、後ろめたい気分は抑えようがない。
 実を言えば、まさか彼女があれほど怒るとは思ってもみなかったのだ。
 たとえ部員の中から伴奏に人数を割けなくても、他にピアノを弾ける人間は校内にいくらでもいる。それなのに、今年は伴奏なしの全曲アカペラだという。後ろめたいのは、多分そのせいだ。綾乃からその話を聞かされたせいで、練習にも身が入らなくなってしまう。
 晴人は協奏曲の楽譜をたたみ、バッグにしまおうとした。こんな浮かない気持ちで弾いても、身が入らない。そればかりでなく、どうもこのところ、ピアノの調子が悪いようだ。この悪天候と湿気のせいで、調律が微妙に狂っているのかもしれない。本格的な練習に入る前に、一度しっかり調律しなおさなければいけないようだ。
 バッグに手を伸ばした晴人は、中から出てきた別の楽譜を見て、思わず動きを止めた。それは放課後に屋上で綾乃に叩きつけられ、そのまま返しそびれていたものだった。
 何となくぱらぱらとめくっていって、一つのタイトルで目が留まった。「虹の彼方に」――映画「オズの魔法使い」の主題歌として有名な曲だ。
 晴人は楽譜を見やって、かすかに苦笑する。

 Someday I'll wish upon a star
 And wake up where the clouds are far behind me


 いつか 見上げる星に願い
 雲を遙か足もとに目覚めるでしょう――


 晴人は顔を上げ、ふと窓から夜空を見上げた。
 毎夜、空も星も覆いつくす黒い雲。あの雲を飛び越えて、星の瞬きを間近に見られたなら――そんな途方もないことを考えて、晴人は息をついた。目を伏せ、楽譜を閉じて、今晩は早寝をすることに決めた。


 綾乃の忘れ物を届けるため、晴人は翌朝早くに学校へ向かった。同級生なのだから教室で渡せば済むのに、わざわざ早起きまでしたのは、どこかに罪滅ぼしの気持ちがあったせいかもしれない。
 早朝の校内は、息をひそめて目覚めを待っているかのように、しんと静まり返っていた。少し踵をつぶした上履きの足音が、自分でもびっくりするほど遠くまで響き渡る。
 すのこ板を敷きつめた渡り廊下に差し掛かると、上のグラウンドから朝練中の運動部の掛け声が聞こえてきた。
「正しい青春のあり方って感じだよな……」
 誰にも聞こえないような小さな声で、晴人は呟いた。朝から晩まで一人自室にこもってピアノを弾き続ける自分とは、時間も体も使い方がずいぶん違う。たまの早起きぐらいで朝日が目にしみているようでは、自嘲するよりない。
 そんなことを考えていると、遠くの掛け声に重なるように、音楽室の方からアカペラの混声合唱が響いてきた。

 Somewhere, over the rainbow, skies are blue
 And the dreams that you dare to dream really do come true...


 まだ練習が足りないのか、各パートのバランスがあまり良くない。そんな考察をしながら、彼は廊下の窓から音楽室の中を覗き込む。
 合唱部は部長以下、九名。一人は指揮なので、歌うのは八人だけだ。それではやはりピアノ伴奏に人数を割くわけにはいかないだろう。
 すると、一番の途中まで歌ったところで、部長がタクトを下ろして手を叩いた。もちろん賞賛の拍手ではない。やめの合図だ。
「他のパートの声をよく聞かなきゃ駄目だぞ。それぞれが自己主張してたら、合唱にならないだろ」
 部長はさらに細かい指示を各パートに与え、その指示を部員たちが楽譜に書き込んでゆく。しかし、その八人の中でただ一人、早川綾乃だけが困ったように空の手を見つめていた。
「おい早川、楽譜はどうしたんだよ」
 立ちつくす綾乃に部長が尋ねた。
「あ……ごめん、今日忘れてきちゃって」
「昨日もそう言ってただろ。本当にやる気あるのか?」
 ただでさえ機嫌の良くない部長の眉が跳ね上がる。音楽室内を険悪な空気が満たそうとした、まさにその時。
「悪い悪い、俺が返しそびれてたんだ」
 いきなりドアを開け、必要以上に大きな声で晴人が室内に乱入した。
「瀬古君!?」
 綾乃は驚いたように晴人を見やった。目を丸くする部員たちの間を縫って、晴人が綾乃に楽譜を手渡すと、彼女は探るような視線を向けた。
「朝っぱらから、わざわざ覗きに来たの?」
「人聞きの悪い言い方をしないでもらいたいな。せっかく持って来てやったのに」
 いつものことだが、どうしても綾乃とは憎まれ口の応酬になってしまう。決してそんなことを望んでいるわけではないのに、なぜこうなってしまうのか――そんな考えがよぎった晴人の肩を、部長はぽんと叩いた。
「ちょうどいい。瀬古、今だけでいいから音取りに伴奏してくれないか」
「え、でも……」
 急な申し出に面食らい、晴人は口ごもった。だが部長はそんなことにはお構いなく、晴人の背を押してピアノの前に座らせようとする。
 その様子を見て、横から綾乃が口を挟んだ。
「頼むことないわよ、どうせコンサ……トの練習…忙し――……」
 彼女のいつもの憎まれ口が、突然途切れた。晴人は驚いて声をかけようとする。だが。
「は……かわ……?」
 晴人の声もまた不明瞭なものだった。
 喉がおかしくなったわけではない。普通に喋っているつもりなのに、なぜか声がうまく出せないのだ。
 困惑してよろめき、晴人は思わずピアノに手をついた。だが、その際に鍵盤が叩かれたにも関わらず、ピアノからは何も音が出ない。
 今度こそ彼は驚愕した。慌てて何度も強く叩いたが、ピアノは沈黙を保っている。
(――いったい、どうなってるんだ!?)
 心の底からの叫びは、誰の耳にも届かなかった。――自分自身にさえも。

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