雨音

 その現象は、あまりにも突然に起こった。いったい誰が想像できただろうか。自分の住む世界から音が消え失せるなどという事態を。
 もちろん日本全国、ましてや全世界を襲ったわけではない。たまたまその異常事態が起きた一帯に、晴人たちの住む地域が含まれていただけなのだ。
 翌日の新聞は、こぞって一面でこの事件を知らせた。

《謎の雲、地上の音を奪う》

 観測史上最悪の日照不足の原因となっていた雲が、地上の音をすべて吸収してしまったのだという。本来なら雲は風に流れて移動していくものだが、この「謎の雲」は一部地域の上空を覆ったまま停滞し、とうとう音を食べ始めたのだと、各メディアは報じた。
 それは、晴人たちの住む地域が盆地であることにも起因するかもしれない。茶碗に蓋をかぶせるように、山と雲に覆われた一帯は、音をすべて吸い取られてしまっているらしい。
(何でよりによってこの時期に……)
 晴人は大きく溜息を吐き出した。だが、その呼吸音すら自分の耳にも届かない。
 自室の壁に背をもたれたまま、彼は天井を見上げた。
 この異常な現象が起きた日から、学校は休校となった。音が聞こえない、声が出せないでは授業にならないのだ。各教室で担任教師が黒板に指示を書き、全校生徒は帰宅させられた。それからもう一週間になるのに、いっこうに音は消えたままだった。
 その間、晴人は鬱々としたまま部屋にこもって無為に時間を過ごすはめになってしまった。何しろ彼にとって、音がなくなるということは致命的なのだ。いくら鍵盤を叩いてみても、ピアノが鳴らないのでは意味がない。指の練習くらいにはなるかもしれないが、かえってストレスが溜まってしまう。
 音がなければ音楽は成立しない。そんな当然のことを今、痛いほど実感させられている。
(歌も……そうだろうな)
 晴人はふと、合唱部のことを思った。
 この状況では当然のこと、ピアノだけでなく歌も練習できるはずがない。文化祭の日が近づいているのに、合唱部は今どんな思いでいるのだろうか――
 そこまで考えたところで、晴人は余計な思念を振り払うように首を振った。
 たとえ音が戻ったとしても、自分には関わりのないことだ。彼らとの関係を拒んだのは他でもない自分なのだから。いまさら心配されたところで大きなお世話だと綾乃あたりは言うだろう。
 綾乃の非難がましい視線を思い出して溜息をついていると、尻ポケットに入れていた携帯電話が急に震え出した。不快な振動に慌てて晴人は携帯を取り出し、メールの着信を確認した。現在の状態では着信音も聞こえないため、ずっとマナーモードにしているのだ。
 届いたメールは高校OBの先輩からだった。ピアノ演奏の代役を依頼してきた人なので、練習に関する連絡だろうと思って携帯を開いたが、その文面を読んで晴人は目を疑った。
《音楽会館のコンサートは延期になった。うちのピアノ奏者がそれまでに怪我が治りそうなんで、オケに戻れることになったよ。無理言って代役頼んで悪かったな》
(な……っ、何だよそれ!)
 晴人の叫びは、聞こえていたら近所迷惑になっていただろう。
 先輩からのメールはあまりに簡潔で、それだけに残酷だった。いきなり崖から谷底に突き落とされたかのような感覚に、晴人は携帯を手から落としたことにも気づかず、固まってしまった。
 綾乃と険悪になったのも、すべてはこの代役の件を引き受けたからだった。それでも音楽会館のステージに立てると思えばこそ練習に励んできたというのに、今になって代役はいらないと切り捨てられて、すぐに納得できるものではないだろう。
 あまりのことに呆然として、晴人はしばらく携帯電話を見つめたまま返信メールを打つことができなかった。それでも何とか気を取り直し、できるだけ平静を装いながら文章を打ち込む。
《でも練習はどうするんですか? 音が聞こえない状態で、ピアノの練習なんてできないんじゃないですか?》
 少々厭味が混じったかもしれない。だが、先輩の次の返信は彼をいっそう脱力させた。
《おまえ、やってないの? 電子ピアノにヘッドホンを繋げば音が聞けるだろ。オケ練習はしばらく無理だけどさ》
 ――なぜ、気づかなかったのだろう。
 この世界から、音そのものが失われたわけではないのだ。謎の雲とやらによって、空気の振動の作用が吸収されているだけ。ヘッドホンを使えば、そのコード内を伝わる音は直接耳に届くに決まっている。
 こうしてはいられない。この一週間で積もりに積もった鬱憤を晴らすためにも、一刻も早くピアノを弾かなければならない。晴人は床に散らばった楽譜を掻き集め、裸足にサンダルをつっかけて学校に急行した。


 晴人が向かったのは楽器室だった。そこに彼の必要とする電子ピアノも置かれている。本来なら鍵がなければ入れないはずだが、窓の錠が一か所壊れたままなのを、始終出入りする彼は熟知していた。
 周りに人がいないのを確かめて、晴人はその窓を乗り越えようとした。が、すでに窓が開いていることに気づいて、慌てて中断した。どうやら、誰か先客がいるらしい。晴人が窓からこっそり室内を覗き込むと、ピアノを弾いている人影が見えた。
(――早川!?)
 音が失われていなければ晴人の頓狂な声にも気づいただろうが、綾乃は脇目も振らず懸命に鍵盤を叩いていた。
(何であいつがピアノなんか……)
 綾乃はヘッドホンをつけて電子ピアノを弾くという裏技に気づかなかったらしい。すぐ隣にある電子ピアノではなく、端子のないグランドピアノを叩いているのだから。
 その様子を眺めながら、晴人は音が聞こえなくてよかったとつくづく思った。何しろ綾乃の指づかいはめちゃくちゃで、何度も同じ箇所を間違えて、いくらも進まないのだ。
 しかも、楽器室のピアノは埃をかぶったまま放置されているので、調律など狂っているに違いない。そんな恐ろしい演奏を聞かされたら、とても我慢できなかっただろう。
 綾乃のたどたどしい指づかいを目で追って、晴人は彼女が何を弾いているのかようやくわかった。「虹の彼方に」――合唱部が文化祭で歌うことになっていた曲の一つだ。
 綾乃は慣れない手つきで旋律を追っていたが、やがて両手で強く鍵盤を叩いて中断した。その時、彼女は大声で叫んだようだった。恐らくは口の動きから見て――「バカヤロー」と言ったような気がする……。お世辞にもお上品とは言えない台詞に、覗き見を続ける晴人は額を押さえた。
 だが、次に何を呟いたのかまでは、読唇術の心得のない彼にはわからなかった。鍵盤を上手く扱えない自分の指をじっと見つめたまま、彼女はひどく悔しそうに唇を動かした。
 その伏せた睫毛が憂いに濡れているような気がして、彼は息を呑んだ。まるで地面に影を縫いつけられてしまったかのように、身動きすら取れなかった。だからピアノを諦めた綾乃が楽器室から出て行った後も、地蔵のように立ったまま見送るしかできなかったのだ。
 綾乃の遠ざかる後ろ姿が視界から消えた頃、晴人はようやく我に返った。今日の目的は電子ピアノを思う存分弾いて、鬱憤を晴らすことだったはずだ。だが、今の綾乃の演奏を見てしまったせいか、その気が失せた。今日はこのまま帰ろうか――小さく息をついて回れ右をしようとしたその時。
 ぽつり、と肩にかすかな感触を覚えた。
(……雨?)
 空を見上げると、さらに黒みを増した雲が、ついに耐えきれずに泣き出したらしかった。何しろ一か月近くも、晴れもせず雨も降らなかったのだ。溜まりに溜まった雨水は、いったん堰が切れると、止めどもなく滝のように落ちてくる。
 晴人が雨と気づいた数瞬後、ただちに大粒の雨が一斉に叩きつけてきた。バケツをひっくり返したようなどしゃ降りに、晴人は悲鳴のような悪態をついた。
「気象庁は何やってるんだよ!」
 晴人は全身に雨を浴びながら、折り畳み傘を取り出そうとバッグの底を慌ててあさった。まったく、この異常気象とやらのせいで天気予報の権威は地の底まで落ちたな――そんなことを思いながら、彼はふと重大なことに気づいた。
「声が……聞こえる?」
 呟いて、晴人ははっと自分の口に手をあてた。確かに今、自分が喋った言葉が耳に届いている。――それだけではない。この突然のどしゃ降りの音も、耳をつんざくような騒音とともに聞こえているのだ。
 あまりの騒々しさに、晴人は両耳を抑えた。一週間も無音の世界に暮らしていたせいか、急に戻った音があまりにも煩わしく感じる。あれほど求めていたはずなのに、音とはこうもやかましいものだったろうか。
 何とか開いた傘の柄を首と肩で挟み、晴人は両耳を手でふさいだ。そのまま楽器室のそばから離れようと、一歩を踏み出した時、

 Somewhere, over the rainbow, skies are blue
 And the dreams that you dare to dream really do come true...


 不意に、耳を覆う手の隙間から、聞き覚えのある声が漏れ伝わってきた。晴人は驚いて耳から手を離した。
 その声は音楽室の方から聞こえてきた。パートにばらつきのある、歌い込みの足りない「虹の彼方に」――間違いない、音の消えた日の朝、音楽室で聞いた合唱部の歌声だ。だが、なぜそれが今になって大雨の中、響いてくるのだろうか――
「そうか……雲の吸った音が、雨と一緒に降ってきてるのか!」
 答えは程なく出た。
 轟音と豪雨が混じり合って、天から洪水のように押し寄せる。この一週間……いや、もっと前から吸い続けた音を、黒雲が一気に手放しているのだ。縛めを解かれた音は、地上に降り立って一斉に歌い始める。
 話し声、足音、車のクラクション、咳払い、拍手、始業ベル……世界中の音が一度に現れたかのような騒ぎだ。さっきまで聞こえていた合唱部の歌声も、それらに掻き消されて判別できなくなってしまった。耳を澄まして聞こうとしても、音に酔いそうで吐き気がする。
 ――早くこの場から逃げなければ駄目だ。
 くるりと踵を返した拍子に、傘からはじかれた水滴が不意に音を奏でた。はっとして、晴人は傘の先についた雨水を指先で叩いた。
 ピン、と高い音が跳ねる。あまりに耳になじんだ音――それはピアノの奏でる音だった。
 晴人は再び空を仰いだ。恐らくは、あの雲の中で雨と音が溶け合っているのだろう。だから地上に降り注がれた雨水が、音を記憶しているのだ。
 いったいどういう原理になっているのだと首を傾げていると、すぐ近くからとてつもない音が聞こえてきた。
 それは音楽と呼ぶことなどできそうもない代物だった。まさに割れ鐘を叩くようなひどい音。何も知らなければ、耳をふさいで一目散に逃げ去っていただろう。
 だが、彼には心当たりがあった。演奏とも言えない音色を聞き取ろうと、傘の柄を強く握り直した。


 昼過ぎになって、雨はようやく小降りになった。早川家のチャイムが一週間ぶりに本来の役目を果たして来客を告げたのは、ちょうどそんな頃だった。
 インターホンも使わずに、いきなり玄関のドアを開けた綾乃は我が目を疑った。
「瀬古君どうしたの? ずぶ濡れじゃない」
 玄関には、全身から雨水をしたたらせた晴人が立っていた。いったい何事か把握できずに呆然と見つめていた綾乃は、晴人の手に握られているものを見て声を高めた。
「何、その傘……差してこなかったの!?」
 晴人は傘を持っていた。だが、半分閉じられた折り畳み傘の内側には、なぜかたっぷり雨水が溜まっていたのだ。ここへ来るまで、差して来なかったことは明らかだった。
 濡れ鼠になりながら、傘の中に水を溜めるという晴人の異様な行動に、綾乃は眉をひそめた。だが、彼はそんな彼女の様子を気にするでもなく、まったく違うことを口にした。
「早川のピアノ、たっぷり聞かせてもらったよ」
 一瞬、何を言われたのかわからず、綾乃はぽかんとした。そして数秒後、その言葉の意味に気づいて顔を紅潮させた。
「嘘……やだ、さっき学校にいたの!?」
 彼女にとっては、自分の拙いピアノを誰かに目撃されたくはなかったのだろう。そうでなければ、閉鎖されている学校までわざわざ行くはずもない。
 だが、彼女の羞恥心を逆撫でするかのように、目撃者はその観察結果を本人に告げる。
「ああ。まったく基本がなってないな」
「大きなお世話よ! そんなこといちいち言いに来てないで、家でピアノの練習でもしてれば? コンサートが近いんだから」
 恥ずかしさを押し隠すように、綾乃はきつく突き放す。普段ならば、これでまた憎まれ口を叩き合うことになるのだが、晴人は苦い表情を浮かべて肩をすくめただけだった。
「いや、代役の件は白紙になったよ。本命のピアニストが復活したから、俺は必要ないんだってさ」
「え……そんな……」
 言いよどむ綾乃に、晴人は自嘲めいた笑みを向けた。
「バチが当たったんだよ、合唱部をないがしろにしたから。――特に、早川の期待を裏切ったからな」
 晴人は綾乃が楽器室を去った後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。彼は待っていたのだ。綾乃が去り際に呟いた言葉が、空から降ってくる時を。
 雨足は次第に強まり、やがて彼女の声を運んできた。
『……バカ晴人』
 第一声はそれだった。晴人を小さく罵った後、彼女は絞るような声を押し出した。
『今年で最後だから……あんたのピアノが聴きたかったのに……』
 雨音に掻き消されそうなほど、彼女の呟きはか細かった。かろうじてその声を聞き取って、晴人は目を閉じた。
 ――何と浅はかだったのだろう。
 自分の立つ舞台のことばかり考えて、本当に大事なものを危うく見失うところだった。だが、今ようやく自分の愚かしさに気づけた。だからこそ彼は、彼女の元へと向かったのだ。
「だから、今度は飽きるほど聴かせてやるよ。今年で最後じゃなくて、これからもずっと」
 何百人、何千人もの聴衆よりも、心から自分の音を求めてくれる一人のために弾こう。彼はそう心に決めた。
 そして、驚いたように見つめ返してくる綾乃の前で、いきなり手にしていた傘を開いた。
 その瞬間。
 拙いピアノの音色が、雨水とともに飛び散った。晴人が雨に打たれながら、傘の中に溜めていたのはこの音だったのだ。

  Somewhere, over the rainbow, skies are blue
  And the dreams that you dare to dream really do come true...


  虹の彼方の 青い空の下
  あなたが夢見ることが真実になる――


 たどたどしく奏でられる音楽が、小さな雨粒となって空中を踊る。次第に明るみ始めた空から光を受けて、飛沫の旋律がきらきらと瞬いた。
「まずは指づかいの練習からだな。夏休みに特訓するぞ」
「何で私が練習しなきゃいけないのよ!」
 綾乃は顔を朱に染めて叫んだ。彼女にしてみれば、自分の下手なピアノを聴かれたばかりでなく、「録音」されていたのだから、とても冷静ではいられない。だが晴人はこともなげに、さらりと言ってのける。
「大丈夫、飽きるほど聴かせてやるから――お手本を」
 からかうような口ぶりに、綾乃が反論しかけたその時、にわかに彼女の頬に光が差した。
 いつの間にか、雨は上がっていた。雲の切れ間から、一月ぶりの夏の太陽が顔を覗かせている。
 思わず同時に空を見上げた晴人と綾乃は、次の瞬間、どちらからともなく笑い出した。
 彼らの頭上には、小さな虹が架かっていた。晴人のまき散らした雨粒に、差し込んだ光が当たっているのだ。
 それはすべての暗雲を吹き払う無音の旋律。七層の光彩が、長く立ち込めていた重い空気に別れを告げるように唱和する。
 二人の笑い声は、拙いピアノから生まれた虹を越えて、青空の彼方に吸い込まれていった。

(了)

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