サンタが街に降ってくる


「あー……危ないところだった」
 まったく、ひどい失態だ。しかもそれを挽回するどころか、かえって事態を悪化させてしまったようだ。
「こりゃ帰ったら、こっぴどく怒られるだろうな……」
 落胆してつぶやくと、背後から別の声が上がった。
「誰に怒られるの?」
「ぅあぁあんたついてきたの!?」
 危うく私は、そりから転げ落ちるところだった。まさか、そんな。いくら意図したことでないとはいえ、人間をそりに乗せてしまうなんて馬鹿なことがあっていいだろうか。
「一人だけ逃げるなんてずるいよ。置いてかれたら、ぼくだけおかあさんにぶたれちゃうのに」
 空中で急停止させたそりの荷台で、子供はうつむいた。よく見れば、薄いシャツについた染みは、乾いて黒くなった血のようだ。
「ちょっと、ごめん」
 私は思わず子供の手を取り、シャツの袖をまくり上げた。やはり――その下にはいくつもの痣ができている。古いものは黒ずんでいるが、最近できたらしい痣は紫色に腫れ上がっていた。
 私はシャツの袖を元に戻し、ゆっくりと言い聞かせるように話しかけた。
「大丈夫。ここにはあなたをぶつ人なんていないから。それに、今は痛くも寒くもないでしょう?」
「うん……本当だ。外にいるのに、全然寒くないや」
「このそりの上はね、人の住むところと違っているの。だから、下の人たちから私たちの姿は見えないんだよ」
 本来ならシャツ一枚の姿で外に出れば、たちまち風邪をひいてしまうだろう。しかし、天の所有物である特製そりに乗り込んだ瞬間、人間は地上から切り離された存在となるのだ。
「それで、おねえさんは誰に怒られるの? ぼくも一緒に怒られるの?」
 この子はよほど怒られることを怖がっているらしい。不思議なそりよりも、怒られるという単語のほうに関心を寄せるなんて。
「神様だよ」
 簡潔にそう答えると、子供は目を丸くする。
「おねえさんはサンタじゃないの?」
「今日はサンタだけど、いつもはそうじゃないの。普段は天使って呼ばれているけど、クリスマスイヴにはサンタになって、そりに乗って空を飛び回るのがお仕事なんだ」
 天使はイヴの夜だけサンタクロースの姿になる。真っ赤な衣装でトナカイの引くそりに乗り、空から眠りの砂をまくために。
 プレゼントを配るのが目的ではない。物質的な喜びを与えるのは天の役目ではないのだから。ただ、プレゼントを期待して夜を迎える純粋な子供たちが安らかな眠りにつく、その手助けをするだけなのだ。
 つまり眠りの砂は、原則的にはサンタを信じる子供にしか効果がない。逆を言えば、枕元にプレゼントを置くべき大人まで睡魔に襲われてしまっては困るのだ。
 だからこそサンタの存在を知っているトナカイのメリーには効果覿面だったわけだが、この子供は大量の砂を浴びても、あくび一つしなかった。――サンタクロースという甘い夢を抱いていないために。この子の心には、サンタクロースなど住んでいないのだ。
「やっぱりプレゼントをくれるわけじゃないんだね」
 男の子は醒めたような顔でそうつぶやいた。それは残念がっているというより、あきらめている表情だ。そんな様子を見ているのは胸が痛むが、それを否定して世間一般的な「サンタ」を演じることは私にはできない。プレゼントの包み一つ持たない私には。
 だが、突如として別のことを思いついた。
「うん、確かにプレゼントを買ってあげることはできないけど、代わりに違うものを見せてあげるよ」
「違うもの?」
「そう。ちょっとスピード上げるから、ちゃんとつかまってて。メリー、お願い!」
 合図をすると、メリーは勢いよく駆け出した。荷台から転げ落ちないように、私は子供の手をしっかり握りしめる。手を取った瞬間、びくりと怯えたように震える姿に胸が痛む。誰かに暴力を振るわれることを常に恐れているのだろう。唇を噛みしめながら、私はそりを上空へと走らせた。

「わぁ……すごぉい」
 しばらくして停止したそりの上で、感嘆の声が発せられた。
 だいたい地上五百メートルほどの高さだろう。あまり高すぎて子供がめまいを起こしても困るので、この程度で止めたのだ。それでも、日常的に体感できる視点ではない。
「こんなところから地上を眺めるなんて、普通はできないからね。サンタと一緒にいて、ちょっと得したでしょう」
 夜に包まれた地上は、色とりどりの光にあふれている。私がこの子の家に落下する前と同じような輝きに。
 普段、上空から見下ろすのが日課となっている私には当たり前の眺めでも、地上に視点を固定されている人間にとっては珍しい光景だろう。そう思ってここまで連れてきたのだが、やはり予想通り、子供は瞬きも忘れて地上の光の群像に目を奪われている。
 しばらくの間、黙って見つめていた子供は、やがてやせた頬にはるか下界のイルミネーションを淡く反射させながら、小さくつぶやいた。
「なんか……花火みたい」
「花火?」
 その感想は意外だった。天空に打ち上がる花火と、見下ろす地上に散らばる光とでは、ずいぶん違うだろうに。しかし、次の台詞で得心がいった。
「前におとうさんが一度買ってきて、庭でやったんだよ。すごくきれいだった」
 なるほど、空を彩る大輪の花ではなく、地上に炎を散らす手持ち花火のことだったのか。そして、見下ろす夜景からすぐに連想するほど、その記憶は鮮やかで――貴重なものに違いない。他に比べるものがないほどに。
「……お父さんに会いたい?」
 そう尋ねたのだが、子供はうつむいて首を左右に振った。
「おとうさんのこと言うと、おかあさんが嫌がるから。ぼくは、おとうさんに似てるんだって。だから仕返しでぼくをぶつんだ。おとうさんにおかあさんはぶたれてたから……」
 まだ言い終わらないうちに、私は思わず子供を腕の中に抱きしめていた。
 これ以上聞くのは耐えられなかったのだ。
「このまま……お姉さんと一緒に来る?」
 私はついに禁忌の言葉を口にした。天へと連れ去ることは、地上との永遠の別れを意味する。当然、天の使いが勝手に決めていいことではない。それでも――言わずにはいられなかったのだ。このまま苦痛も恐怖もない世界へ連れて行ったほうが幸せではないかと、そう思ったのだ。
 しかし、子供は私の目をのぞき込み、一言ぽつりと訊いた。
「おかあさんも?」
「……お母さんは一緒には来れないよ」
 今度は私が首を振る番だった。さすがに母親までは連れて行けない。
「じゃあ……行かない」
 子供はうなだれたまま、拒絶を告げた。
「おかあさんは一人だと、たくさん薬を飲んじゃうんだ。寂しくて眠れないからって。だからいっぱい飲まないように、ぼくが隠しておかないといけないから、一緒じゃないと困るんだ」
「そんな……隠したりして怒られないの?」
 そういえばあの家には酒の空き缶やビンが散乱していた。酒の力を借りてもなお眠れず、睡眠薬にも頼っているのだろう。
「うん……その時はぶたれるんだけど、飲みすぎるとまた救急車を呼ばないといけないから、放ってはおけないよ」
 私はただ黙ってそりを地上に向かわせることしかできなかった。幼い子供一人救うことすらできない――聖夜のサンタは、あきれるほど無力だ。

 そりは庭の土から一メートルほど離れた空中で停止した。完全に着陸させてしまうと生身の人間と同じように見えてしまうので、地上にはすぐに降りなかったのだ。その状態で私たちは窓から中をのぞき込む。薄暗い室内は、慌てて逃げ出した時よりもいっそう荒れていた。台所には焼酎のビンの破片が散らばったまま。居間の畳にはグラスが転がり、中身がこぼれて染みを作っている。
 そして、荒れた部屋の中央では母親がしゃくり上げながら叫んでいた。
「何で目を開けないんだよ! 殺す気なんてなかったのに……嘘でしょ、目を覚ましてよ……!」
 母親が取りすがっているのは、身をこわばらせたまま倒れている子供の小さな体だった。その様子を見て、子供は目を丸くする。
「ぼくがいる……?」
「サンタのそりに人間の体は乗れないの。だから、ここにいるあなたは体から離れた魂だけの姿なんだよ」
 地上では幽体離脱などという安っぽい呼び方をされているのが現在の状況だ。そりを地上に降ろすと、子供の魂は自動的に体に戻ってしまう。それでは室内の様子をうかがうことができないので、こうして空中に停止させているのだ。
 青ざめた子供の顔は、まるで死んでいるようにも見える。魂が抜けているのだから無理もないが、その頬や手足には新しい痣ができているようだった。あの後、母親が腹を立てて、意識のない子供の体に折檻を加えたのだろう。そして、それが原因で子供が目を覚まさなくなったと思い込んでいるのだろう。
「何で……何でみんなあたしを置いてっちゃうんだよ! 一人にしないでよ……ユウ、ユウ……っ!」
 母親は繰り返しその名を叫ぶ。うかつすぎることだが、そういえばいまだに子供の名前を聞いていなかった。
「あなた、ユウっていう名前なの?」
 尋ねると、子供はかすかに表情をほころばせた。
「ぼくと、おとうさんの名前。おとうさんがユウイチで、ぼくがユウキだから、おかあさんはどっちもユウって呼ぶんだ」
 一つの名前で二人を呼ぶ。それほどに彼女は孤独に苦しんでいるのだ。睡眠薬と酒で強引に眠らなければならないほどに。
 ――本当にサンタを求めているのはこの母親なのだ。
 私は深く息をつき、そしてユウと呼ばれる子供に両手を差し出した。
「これを持っていって。お母さんが眠れるように、頭から降りかけてあげなさい」
 それはサンタを信じる子供にのみ有効な、眠りの砂。ほとんどすべてを落としてしまったが、そりの荷台にわずかに残っていた砂をかき集めたら、子供の拳ほどの量になった。きっとこの母親になら、いくらかの効果があるだろう。――そうであってほしい。
 実を言えば、私は今でも迷っている。本当にこのまま子供を母親の元に返してもよいのかと。しかし、この子は安らかな永遠の眠りへ誘う手よりも、痛みと苦しみを伴う母の手を選んだ。そうなれば、私にはこんな小さなことしかできない。
「うん。ありがとう、サンタさん」
 子供は小さな両手に砂を受け取ると、初めて笑顔を見せた。
 ――神様、どうか。
 睡眠薬とアルコールに溺れ、自制できずに子供への虐待を繰り返すシングルマザー。今の世の中ではさほど珍しい存在ではないのかもしれない。心の弱さゆえに孤独から絶望へと突き進むことは止められないのかもしれない。たとえ子供が戻ってきても、愛情をもって接することはできないのかもしれない。
 それでも。
 こんな時ばかりは、神の奇蹟を望んでしまう。失態続きの落ちこぼれ天使の声など届かないかもしれないけれど。
 ――どうか、一夜だけでも彼らに安らかな眠りを賜りますように。
「帰ろう、メリー」
 子供の姿が消えると同時に、私は手綱を強く握りしめた。すっかりおとなしくなったトナカイは、呼応するようにうなずくと、蹄を空中に駆け上らせる。
 聖なる夜に祈りを捧げ、一夜限りのサンタクロースは天の帰路へと向かっていった。




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