凍る永遠

 

 その扉をくぐると、一斉に時が溢れ出したような錯覚に見舞われた。
 四方の壁にびっしりと、そして棚の上も机の上も、所狭しと時計がひしめき合っている。
 どこもかしこも時計だらけ。そういえば玄関の脇にあった看板も、丸い時計の形をしていた。
 無理もない。ここは時計屋なのだから。
 しかし、それにしてもあまりに雑然としている。ちょっと見回しただけでも、年代も種類も、恐らく生産地もばらばらの時計が無秩序に並んでいるのだ。
 よくもまあこれだけ集められたものだと半ば呆れながらも、これらをすべて管理するのは容易ではないだろうな、と彼女は思った。それというのも、ここの時計はみな同じリズムで音を揃え、規則正しく時を刻んでいるのだと気づいたからだ。
 彼女はわずかに身震いした。
 確か売り物の時計は十時十分を指したまま止められるという話を聞いたことがある。それが一番見栄えが良いからなのだと。
 だが、ここの時計は動いている。
 一本の秒針しかないかのような、統一された動きで

 チクタクチクタク

 そのくせ時針や分針の指し示す時間はばらばらで、共有しているのは一定のリズムだけなのに

 チクタクチクタクチク

 それでもここまで寸分の狂いもない精密さというのは息が詰まる。よく統制された軍隊の行進のようで

 タクチクタクチクタクチク

「いらっしゃいませ」
 その声に、彼女はびくりとした。
 室内を埋め尽くす時計の集団に気をとられ、完全に不意を突かれたのだ。
 慌てて振り返る。が、視界に人は映らない。しかしよく注意して視点を下げると――いた。
 ちょうど自分の腰ぐらいまでの背丈。まるで子供のようなそれは、だが人間ではなかった。
「いかがなさいましたか?」
「あの……時計が動かなくなってしまったので、修理してもらおうと思ったんですけど……」
「ではどうぞ、こちらへ」
 くるりと踵を返す、その小さな後ろ姿に彼女はついていった。
 人間ではない。
 人間を模したそれは、からくり人形だった。
 金色の髪、青いワンピースに白いエプロン。どこかで見たことがある――そんなことを考えていると、机の陰からひょこっと顔を出すものがあった。
 カタカタと音を立てて現れて、
「忙しい忙しい。また時を戻しにお客が来たよ」
 意味不明なことを呟いて、せわしくどこかへ消えてしまう。それももちろん造り物だが、今度は人の形ではない。
 本物よりはるかに大きな白ウサギだった。しかも二足歩行で衣服を纏い、人語を喋る。その手には懐中時計――
 そこで彼女は、はたと気づいた。
 今のは時計ウサギ。だから先のからくり人形は、不思議の国のアリスをイメージして造られたものだったのだ。
 アリスに連れられて、彼女は奥の部屋へと案内された。
 年代物のグランドファーザー・クロックの前。そこが店主の居場所だった。

「いらっしゃい」
 柔らかな声だった。螺子やレンズなどの部品が散らばるテーブルの向こうで、店主は静かに微笑んだ。
 四十代後半から五十代前半といったところだろうか。正確な年齢の掴みにくい人だというのが、彼女の受けた第一印象だった。
 それなのに――この店主はなぜ、まるで少年時代から年を経ていないかのように屈託なく笑うのだろう。
「どうなさいました?」
 怪訝な顔で問われ、彼女は我に返った。店に入るなり、じっと相手の顔を凝視していたのだ。失礼なこと、この上ない。
「あ、あの、時計が止まってしまったんですが――」
 慌てて口を開くと、店主は柔和な笑顔のまま手を差し出した。
「どれ、見せてごらん」
 知らず、固く握りしめていたそれを手渡すと、店主は職人らしい顔つきになって早速あちこち調べ始めた。
「直りますか? とても大切な時計なんですけど……」
「また動くようにはなりますよ。まあ、それまでちょっと腰掛けてください」
 勧められるままに、彼女は向かいの椅子に腰を下ろした。それまで勢い込んで前のめりになっていたので、背もたれに身を預けると緊張感がほぐれるような気がした。
 ふと卓上に目をやると、修理中ではない置き時計が視界に入った。しかし時計とわかったのは一拍おいてのこと。初めはただの置物なのかと思っていた。
 変わったデザインだった。時計を修理している時計職人の姿を象ったもの。瀬戸物の時計職人の手に、ごく小さな本物の時計が埋め込まれている。
 その小さな職人の落ち着いた物腰を見ていると、何となくここの店主に似ているような気がした。ただ単に同じ時計職人だからというのではない。もしかすると自分自身をモデルにして造らせたのではないだろうか――

 ボーンボーン

 不意に鳴り響くその音に、彼女はびくりとした。店主の真後ろにある大時計が振子を揺らしながら時を知らせたのだ。
 しかしその文字盤を見て、彼女は目を見はった。年代物のグランドファーザー・クロックには、長針も短針も存在しなかったのだ。
 単に壊れているのか、それとも――
「珍しいね」
 店主の声が彼女の思考を遮った。
「何が……ですか?」
「この時計だよ。最近じゃあ懐中時計なんて持ってる人は少ないだろう」
「ええ。それは特別なんです」
「恋人からの贈り物だね?」
 くすりと笑みをこぼして、店主は時計の蓋をおもむろに開ける。
 蓋の内側には小さく文字が刻まれていた。

 ―FROM SHUN TO TOWAKO―

「トワコさん、か。どんな字を?」
「永遠に、子供の子です。それでトワコ、と」
「ほう。永遠ねえ」
 すると今度は、彼女のほうが微かな笑みをこぼした。
「実は彼の字は瞬きと書くんです。瞬間の瞬。私とはまったく正反対で。――実は字だけじゃなくて中身も、なんですけどね」
「それは面白い」
 客に合わせて適当に相槌を打つのではなく、店主は本当に面白がっているようだった。人好きのする人だという思いが、店内に足を踏み入れた時の彼女の緊張をいつの間にかほぐしていた。
「『賢者の贈り物』ってご存じですか?」
 出し抜けの問いに少なからず驚いたらしく、店主は数度瞬きをした。
「ああ、確か妻は自分の髪を切って時計の鎖を、夫は時計を売って櫛を買って、互いに贈ったという?」
 互いに大切なものを手放して、贈り物に代えた貧しい夫婦の物語。結局、鎖を繋ぐ時計も、櫛を飾る髪も失われていたけれど、彼らの思いこそが最も尊く、そして賢かったのだという、オー・ヘンリーの手になる作品だ。
 誰でも一度は耳にしたことのある、その素敵なクリスマスの物語の名を、彼女は嬉しげに口にする。
「私、子供の時にこの話を読んで、とても心に残っていたんです。それで、クリスマスにお互いプレゼントを交換しようって――」
「それで、あなたに時計を?」
 店主が聞き返すのも無理はない。『賢者の贈り物』になぞらえるのなら、女性に贈るのはアクセサリーが妥当なはずなのだから。
 彼女もその問いの意味を察しているらしく、やや自嘲気味に微笑んだ。
「お互いに時計だったんです。それも懐中時計」
 彼女は懐かしそうに目を伏せる。
「彼は私がこの物語を好きだって知ってたんです。よく口にしていたから……。それに、私が懐中時計に憧れていたことも。だからクリスマスに贈ってくれたんでしょうね」
「それにしても、なぜ懐中時計に憧れていたのかな?」
「普通、身につけている時計といったら腕時計でしょう。それに最近だと携帯電話があるから、それさえ持っていない人もいますし。でも、私はポケットから時計を取り出して蓋を開ける、あの仕種が格好良くて、ちっちゃな頃から憧れてたんです」
「そうだね。近頃じゃずいぶん見なくなったけど、でも懐中時計のほうがいかにも時計を見ているような気がするね」
 すると店主は、ゆるやかな動作でポケットに右手を滑らせた。
「かくいう私も実は持っているんだよ。周りをこんなに時計で埋め尽くされているにも関わらず、ね」
 差し出された手のひらには、鈍い光沢を放つ懐中時計が載せられていた。相当使い込んでいるのだろう。デザインも古く、小さい割には目方もありそうだ。だが、それがかえって重厚感をもたらし、職人らしく使い込まれた手のひらによく馴染んでいた。
「ただの時計好きが高じたような職業だからねえ」
 自嘲めいた笑みを浮かべ、店主は自分の時計を仕舞うと再び作業に戻った。時計談義に花を咲かせるのが仕事ではない。彼女の塞き止められた時間を再び流れるようにすることが重要なのだ。
「そう、だからこの時計は特別なんだね」
「ええ。お互いの針を揃えて、同じ時を刻めるようにしたんです。離れていても、同じ時間を共有できるようにって……。だから動かなくなると困るんです。あの、直りますか?」
 彼女は心配そうに、店主と時計とを交互に覗き込んだ。
 そして店主は、ほのかな笑みを引き締めた唇を開く。
「原因はあるんだよ。それを取り除けば時はまた巡り始める。だけど、時を戻すことはできない。たとえ針を逆に回したとしてもね」
「え……?」
 彼女の戸惑いを見透かしているかのように、店主は細めた目でじっと見つめる。視線を固定されて、彼女はどことなく居心地の悪さを感じた。
「この時計はいつ止まったんだい?」
「今日……だと思うんですけど……」
「気づいたのは?」
「ついさっき……のはずです。そう、確か……十二時に待ち合わせしていて……待っている間に見た時は、動いていたはずなんですけど……」
 彼女は凍りついた針を見やり、目を疑った。
 時計の針は十二時をわずかに過ぎたところで止まっていた。正確にいえば十二時一分十五秒。
 そんなはずはない。
 そう叫び出しそうになる衝動を、彼女はようやくの思いでこらえた。
 待っている間、針は確かに動いていたのだ。特に約束の時間の周辺は、頻繁に文字盤を見やるだろう。

 ――彼は?

 自分は会ったのだろうか。そんな記憶はない。
 ならば、彼を放り出してまで時計の修理にとここへ足を運んだのだろうか?
 いったい、なぜ? いつ?

 ――今は何時なのだ?

 ここへ来てから時間の感覚が狂っている。
 時計はそれぞれ勝手な時を刻み、ばらばらだ。どれが本物の時間なのかまったくわからない。
 だからなのだろうか。
 店主が懐に時計をしのばせているのは。
 自分の時間を把握するためなのか。
 ここにいては自分が今、時間という流れの中でどこに位置するのか見当もつかない。内在時間が狂ってしまう。
 なのになぜ、この男は狂わずに平然としていられるのだろう。
 ここは、
 ここは――?

「お茶をどうぞ」
 混乱する彼女の頭に冷水を浴びせるように、静かに響く声が上がった。
 慌てて振り返ると、そこにはアリスのからくり人形がいた。慣れた手つきで盆からカップを差し出す。人間を模倣した、だが決して人間ではありえない動作で。
 その背後から、ひょこりと時計ウサギが顔を出した。
「時は戻ったのかい、お客さん」
「こらこら、お客様の邪魔をしてはだめよ」
 アリスにたしなめられて、ウサギは機械仕掛けらしい俊敏でぎこちない動きでくるりと回る。
「お客さん、お客さん。また来たね。時を戻しにお客さん」
 おどけた調子で飛び跳ね、走り去る。アリスは恭しく一礼すると、ウサギを追って下がっていった。
 その様子を見ながら、彼女は背筋に冷たいものが落ちてゆくのを感じた。
 部屋を埋め尽くす時計。寸分違わぬ規則正しい秒針の音。人語を喋るからくり人形。
 ここは生きたものの匂いがしない。
 動くものはみな機械によって統制されている。ただ、例外は店主ばかり。いや、もしかしたらそれさえも――
 彼女はちらりと卓上の時計を見やった。そこにあるのは時計職人をあしらった置き時計。この店主をモデルにしたのかと思っていたが、本当は店主がこの時計なのではないか。
 そんなくだらない想像さえも引き起こす。

 ――ここは、どこだ?

「思い出すことが重要だよ」
 不意に、店主が口を開いた。その声は恐ろしいほどよく響く。彼の話す時だけ、時計が動きを止めているのではないかと思えるほどだ。
「現在という時間はほんの一瞬でしかない。一秒後だって過ぎてしまえば過去なんだ。ただ、それを鮮明に憶えているから、あたかも現在を認識しているような気がしているだけ。私たちの持っている時間はすべて過去でできているんだよ。そして抱えきれなくなった分だけ、奥のほうへと仕舞い込むんだ。あまり奥へ追いやられると、もう思い出すことができなくなる」
 過去?
 ――それは?

「あなたは憶えているはずだ。ただ、思い出そうとしないだけ」
「な、何を……?」
「思い出さない限り、あなたの時が動き出すことはない。また同じことを繰り返すだけだ」
 店主の双眸が、真っ直ぐに彼女を見つめてくる。
 射貫かれる。息苦しい。時が、止まる――
「……時計、直りましたか?」
 彼女はようやくの思いで声を押し出した。
「少しばかり戻しておいたからね。しばらくは動いているだろう」
 店主はまた難解なことを口にする。だが、もう理解しようとは思わない。一刻も早くここを立ち去らねば。
「じゃあもう結構です。おいくらですか?」
「いりませんよ。直せたわけではないのでね」
 ――直っていない?
 だが、もう構うものか。半ばひったくるようにして手にとった時計は、再び秒針が動き始めている。また止まれば別の時計屋を訪ねるだけのことだ。こんな場所にはもういられない。
 立ち上がり、出口に向かおうとする彼女の背に店主の声が降ってきた。
「ねえ、永遠子さん」
 ぴたりと足が止まる。だが、なぜか振り返ることはできなかった。
「あなたも彼も同じなんだよ」
「――え?」
「一瞬も永遠も同じ。一瞬は切り取られた時間。永遠は流れることのない、凍った時間。――どちらも時を止めたままだ」

 チクタクチクタクチクタク




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