凍る永遠




 彼女の頬を冷たい風が撫でた。
 さすがに屋上は遮るものがないから風が強い。特にこの時期、空気は日増しに冷たくなっている。
 彼女はコートのポケットから時計を取り出した。銀の鎖に繋がれた、艶を消した銀の懐中時計。
 思えば互いに時計を贈り合ったクリスマスから、三年の月日が流れようとしているのだ。そろそろ電池も寿命だろう。一生使えるように手巻き式にすればよかったかもしれない。
 電池を交換したら、また一緒に秒針を揃えなければ。同じ時を刻めるように。

 ――あと五分。

 待ち合わせというのは不思議なものだ。特に彼女の場合、彼より多く待つことになるとわかっていても、必ず予定の時間より早く着くようにしてしまう。これはもう性分だろう。
 そして、彼は約束の時間より早く現れることはない。いつも待つのは彼女のほうなのだ。
 待って待って待ちくたびれて。
 それでも諦められない。
 いつでも、いつまでも――

(――思い出すことが大事だよ)

 不意に、声が脳裏をよぎった。
 誰? 誰の声?
 思い出せない。なのに懐かしいような気がしてしまう。
 思い出す? 何を?
 ――私は何を忘れているの?

 時計は二分前を告げている。

 彼はまだ現れない。いつものことだ。
 そう自分に言い聞かせて、彼女は溜息をつく。昔、同級の友達に「溜息をつくと幸せが逃げるよ」と言われたことがあったが、それならこれまでに相当量の幸せを逃してきたのだろう。そう思うとまた溜息をつきそうになってしまう。
 待つことが好きなわけではない。だけど染みついてしまった習慣は、そう簡単にやめられるものでもない。
 少しぐらい早く来てくれても良さそうなものなのに。
 そう言いたくなったのは一度や二度ではない。だが、それでも予定時間より早くに来ているのは自分が選択した結果なのだ。待ちたくなければ待たなければいい。たまには待たせたっていいはずだ。
 しかし、それを実行した時に失うものを思うと、どうしても踏み切れない。自分が待つぐらい何ともないと思って早めに家を出てしまう。
 結局のところ、自分はまるで待ちたがっているようなものなのだ。

 ――あと一分。

 だけど彼だって時間通りに現れたことはある。ただ、一度だけ。
 まさか来るとは思わなかった。だから不意を突かれて振り向いて――

 その時、空が見えた。

「空………」
 がたがたと震え出した自らの身体を抱きしめて、彼女は呟いた。
 澄み渡った空色が、彼女の脳裏に甦る。
 眩しいほどの青が、仕舞い込まれた過去を呼び起こす。
 落ちてゆく時計も。
 溶けてゆく空も。
 刻まれる音も――

 

 ……ゼロ。

 

 扉を開くと、いつもならあるはずの人影がないのに彼は気づいた。
 その慌てた様子を彼女は後ろから冷ややかな目で見つめていた。
「珍しいわね、瞬」
「……何だ、永遠子か。驚かすなよ」
 目の前にあるはずと思っていた人影は、なぜか背後で待ち構えていた。それでも期待外れではなかったので、彼は取り敢えず胸を撫で下ろした。
「驚いたのは私のほうよ。あなたが時間通りに来るなんて初めてでしょう」
「ああ。……大事な話があるんだ」
「わかってる。そこに座りましょう」
 彼女は屋上の端のほうへと進み、縁のところに腰を掛けた。
「危ないぞ、そこは。風も強いんだし」
 古い建物ということもあり、ここには安全用のフェンスがない。腰の高さまでしかないコンクリートの縁の向こうには、身を預けられるものは何もないのだ。
「大丈夫よ。瞬も、もっと近くに来て」
 言われて彼は渋々と彼女の隣に腰を下ろした。
 風は相変わらず狂ったように吹き荒れている。
「私ね、思い出しちゃったのよ」
 彼女はいきなりそう切り出した。あまりの唐突さに、彼は虚を衝かれた。
「何を?」
「私が最後に見たのがこの空だったの」
 この青空には見覚えがある。目に焼きつくほどに澄んだ色。
 この青に彼女は身を預け、溶けていったのだ。愛しんだその手が、彼女の背を押した瞬間に。
「あなたを振り返って見た瞬間、私は落ちていたの。そうして、この時計とともに時を止めたのよ。――あなたの手によって」
 彼女の瞳が彼を捉える。表情も動作も凍りついたままの彼を。
 沈黙の中、彼女の手にした時計の鎖だけが冷たい音を立てる。
「よく考えたら、こんな人気のない場所に呼び出すこと自体、おかしかったのよ。あなたは初めからそのつもりだったのね? 待つだけの、縋るだけの女は疎ましかったんでしょう?」
 氷の呪縛から逃れようと、彼は重く閉ざされた口を押し開く。
「永遠子……何を言ってるんだ? 疲れてるんだよ、おまえは。きっとそうだろう」
 まるでそうであって欲しいとでもいうように、彼は念を押す。愛しかったはずのその顔が引き攣れるのを見て、彼女は小さく首を振った。
「そうね。疲れたわ。――待ち続けることに」
 彼女は手のひらに視線を落とす。握り締めた彼女の時間に。
 三年前、ともに時を刻み始めたあの時から、二人の時は少しずつ齟齬を来していたのだ。歯車が噛み合わなくなるように。
 そうして、大きくずれた二人の時間が再び重なることはない。――きっと、永遠に。
「でもね、もうおしまい。私の時はもうすぐ止まるもの。何度繰り返そうと、そう決まっていたのよ」
 彼女はそっと腕をのばし、いとおしそうに彼の首に絡める。彼は凍りついたまま、彼女の瞳を見返すことしかできない。
「だけど、今度は私一人じゃないわ」
 耳元で彼女は囁く。
 熱い吐息が氷を溶かす、その刹那。
「―― 一緒に、永遠を見ましょう」

 空に、溶けてゆく。

 

 

「またですか? ご主人様」
 アリスは小首を傾げて店主の顔を覗き込んだ。
「もういい加減、諦めたほうがいいよ。いくら時を戻してやったって、人間は何度でも同じ道をたどるのさ。いや、今回はもっと悪いケースだっけね」
「ウサギさん、失礼ですよ」
 アリスは硝子の瞳で時計ウサギを睨めつける。だが、赤い二つのビー玉はまるで悪びれていないことを告げていた。
「いや、いいんだよ。どうせ私にできるのは、ほんの少し時を巻き戻してやることだけなんだから」
「それがおせっかいだって言うのさ。それと、後になって悔やむのも健康によくないよ」
「仕方がないさ。こうして時折迷い込んできたお客様を、もとの時に導いてやるのが時を守る者の役目だからね」
「それ、貧乏籤って言わない?」
「そうかもね」
 ウサギの指摘に苦笑しつつ、店主は卓上に視線を注いだ。
 銀の鎖、銀の縁取り。双子のように設えられた懐中時計。
 だが、その主を失って、もはや動かぬ時を刻むことしかできない。永遠に閉ざされたこの場所で。
「時計が二つ増えましたね。どこに置きましょうか?」
「もう置く場所なんてないよ」
 アリスの台詞にウサギはすかさず茶々を入れる。
「そうだな。じゃあ――」
 店主はポケットを探り、それを取り出した。
 鈍い銀の、古めかしいデザイン。彼の永劫とも思える時を刻み続けた懐中時計だった。
 店主はその鎖に、新たな二つの時計を繋ぐ。まるで初めからそこにあったかのように、三つの時計は誇らしげに彼らの時を刻み始める。
 それを見届けると、店主は一つ息をついてから時計の蓋を閉めた。
「――あら、またお客様ですよ」
 真っ先に来客に気づいたのはアリスだった。そうしてもともと乏しい表情を引き締め、入り口へと向かう。
「忙しい忙しい」
 何もしないくせに口癖になっている台詞を繰り返しながら、時計ウサギが飛び跳ねる。
 変わらぬ光景。
 移ろわぬ時間。
 凍ったままの永遠の中で、店主は時計を懐に仕舞い、相変わらずの微笑を浮かべる。
「いらっしゃいませ。時を戻しに来られましたか?」

(了)

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