イカロスの翼



 ギリシア神話のイカロスは、人の身ながら大空を羽ばたいた。
 蝋で固めた鳥の羽。それは迷宮から逃げ出すため、彼の父親がしつらえた翼。
 しかし父の言いつけを守らずに、太陽目指して昇り続け、ついには蝋が溶けだした。
 翼を失ったイカロスは、地に墜ちた。
 二度と羽ばたくことはなかった。




「倉橋さん、飛び降りたんですって」
 突如として舞い込んだ凶報。
 今まで当たり前に受け止めていた日常は、それだけで脆くも崩れ去った。
 倉橋雪乃。
 彼女は校舎の屋上から飛び降りた。
 即死だった。


「倉橋さんて、変わった人だったものね」
 地を這う蟻のような、黒い参列客の中から声が上がる。同級生たちの弔辞代わりの噂話は、涙よりも尽きないらしい。
「学校が気に入らないなら、やめればよかったのよ。何でわざわざ死んでみせる必要があるの?」
「評判落とすためじゃない? 一矢報いるってやつ。凄い、命懸けの復讐?」
「無断外泊で懲罰室行き、何回だっけ? あれは恨んでるよ、相当」
「案外妊娠とかしてたりして。一人で思い悩んだ挙げ句、って」
「実はさ、自殺かどうかまだわかんないんだって。警察が調査中らしくて」
「何、じゃあ殺人?」


「可哀想にな」
 焼香を終えた私に、ふと声が降ってきた。
 振り向いたそこには同級の男の子が立っていた。浅野夏樹という名前を記憶から掘り出すのに、私は少し時間をかけてしまった。何しろ彼とはほとんど言葉を交わしたことがない。というより、彼を校内で見かけること自体、まれなのだ。多分、まともな対面はこれが初めてだと思う。
「そういうことは、ご霊前で言ってあげて」
 突っぱねるように言い放すと、彼は軽く首を振った。
「いや、有川が」
「私が? どうして」
「だって親友だったんだろう?」
「――違うわ」
 否定の言葉を口にした瞬間、私は心が冷えるのを感じた。
「親友なんかじゃない。そんな言葉でくくらないで」


 倉橋雪乃は私、有川冴の友人だった。
 親友、ではない。親友というのは実に安っぽい言葉だからだ。
 友人と親友を区別する基準はどこにあるのだろう。たとえ自分では「友人」以上だと思っていても、相手もそうとは限らない。世間は付き合いの密度によるとか言うのかもしれないけれど、その境界線は曖昧なままだ。そんな不安定な状態をなくすため、互いに縛りつけあうのが「親友」という魔法の言葉。
 雪乃はかつて、そう言った。
 だから、私たちの関係はあくまで友人同士なのだ。

 現在、私たちが籍を置く高校は全寮制だ。私と雪乃は同室だった。どちらから先に声をかけたのかなんて、もう遠すぎて憶えていない。だけど、夜中まで二人で話し合った記憶は今でも鮮明に残っている。

(ここは籠なのよ)
 消灯後の闇の中、雪乃は言った。
(籠?)
(そう、鳥籠。自由に飛べる翼を持った鳥を、閉じ込めるための。自由を奪って、縛りつけて、餌を与えて飼い殺すの)
(じゃあ、私たちはさしずめ小鳥ってところね)
(そうね。もう飛ぶ気力も、翼も失くした人たちも多いけど、でも私は違うわ。――私は、飛びたい)


 現場は旧校舎だった。
 本来なら取り壊すはずだったのが、予算の関係でそのまま放置されている、古びた木造校舎。生徒のざわめきや足音が絶えて久しいそこは、現在立入禁止になっている。
 その校舎の屋上から、雪乃は飛び降りたらしい。断定できないのは、目撃者がいないからだ。昼間のことではあったけれど、もともと人気のない場所なのだから仕方がないのかもしれない。
 遺書はなかった。靴をそろえて置いておくような、古典的な演出も。他にも不審な点が多くて、事故、自殺、他殺のいずれともつかないらしい。
 可哀想な雪乃。
 飛びたいと言っていたのに、この大きな鳥籠から抜け出すこともできないで。
 可哀想な雪乃。
 どうして死んだのか誰にも知られぬまま、焼かれて、この籠よりもっと小さな壺に収められて。
 可哀想な雪乃。
 誰からもその死を悼んでもらえないで。


 私は部屋の扉を開けた。
 葬儀を終えて寮に戻ってきた時には、すでに真っ暗になっていた。日没の早い時期のことで、黄昏はとうに去っている。
 主の一人を失い、不必要なほど静まり返った陰気な部屋。私はこれからここで、一人で生活しなければならないのだ。
 一羽の小鳥を失った、この籠で。
 涙は出なかった。
 ただ、やけに広く感じられるこの部屋を、きっと持て余すに違いないという確信ばかりが満ち溢れていた。


「旧校舎へ行こう」
 そう思い立ったのは、翌日のことだった。
 実のところ、私は旧校舎に入ったことはない。雪乃があの場所を出入りしていたこと自体、初耳だったのだ。
 雪乃は私に何も言わずに逝ってしまった。
 だからこそ、彼女が最後に目にした景色を見ようと現場まで足をのばしたくなったのかもしれない。
 おざなりに張られたロープをまたいで、私は禁じられた敷地内に足を踏み入れた。
 コンクリートの地面の生々しい血は、すでに拭き取られていた。だけど、その跡はまだ残っている。雪乃の身体の輪郭をなぞった、白い線。セロハンごと空缶に差し込んだ花束。
 テレビの中ぐらいでしかお目にかかることはないと思っていた舞台装置。今までの生活とはそぐわない、この情景が日常だなんて、どうやって信じればよいのだろう。
 私は安っぽい供花の前に立った。
 その時だった。
 きらりと、視界の端で何かが朝の陽光を反射させた。目をこらして近づいて、私はその小さな光源を発見した。
 鍵、だった。
 どうやらメッキ加工されていたものらしいけれど、それも剥がれ落ちて、ますます古臭さを醸し出す鍵。

(――私、鍵を見つけたの)

 不意に、聞き慣れた声が脳裡をよぎった。

(飛ぶための鍵。私はこれでもう飛べるのよ)

「……飛ぶための、鍵?」
 あの時、飛ぶのに必要なのはむしろ翼ではないかと不思議がったのでよく憶えている。嬉しそうに、無邪気に笑った雪乃の声を。
 だとすれば、これは雪乃の見つけた鍵なのだろうか。
 私は手のひらに視線を落とした。
 なぜかはわからない。だけど、彼女の落下位置から少し離れたところに転がっていたこの鍵は、彼女の持ち物のような気がしてならなかった。
「そこで何をしてるんだ」
 記憶をたぐっていた私を、厳しい声が現実に引き戻す。私は思わず飛び上がりそうになった。
「浅野君……?」
 そこにいたのは、葬儀で私に「可哀想」と言った彼だった。
「そう言うあんたは、冷たい有川か」
「何よ、冷たいって」
「親友なんかじゃない、なんて普通は言えないだろ。それじゃ死んだ奴も浮かばれないよな」
「大きなお世話よ。それは、雪乃が望んだことなんだから」
「ふうん」
 実に気のない返答だった。何だか無性に腹が立って、私はその場から立ち去ろうとした。
「待てよ。有川も、見に来たんだろう?」
「――何を?」
 私はつい、立ち止まった。彼の声に聞き捨てならぬものを感じ取ったのだ。
「倉橋が最後に見た空を」

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