イカロスの翼




 屋上は風が強かった。
 新校舎から少し離れたところに建っているこの校舎は、周りに高い建物がないため、とても風通しがいい。向かい風に髪を煽らせて、胸まであるフェンスに身を預けながら私は地上を見下ろした。
 四階建ての校舎は、さほど高いとは言えない。そう思っていたのだけれど、やはりここから真っ逆さまに落ちることを想像すると、それだけで足がすくむ。
 雪乃はどうしてここから飛び降りることができたのだろう。なぜ飛び降りようとしたのだろう。
 いつも自由を求めていた雪乃。
 だけど、それだけのために命を投げ出すなんてばかげたことを、雪乃がするはずがない。雪乃だけは絶対に――
「下に白い線が見えるだろう?」
 彼は遠く離れた地面を指さした。雪乃の身体を受け止めた、硬いコンクリートを。
「ここからあの線のところまで落ちたにしては、校舎から離れすぎているんだ」

 旧校舎は、横棒の短いL字型をしている。Lの縦と横の棒を二辺にとった長方形を作った時、Lの角の対角にあたる場所。そこが、落下点だった。Lの縦棒の先にあたるこの位置からでは、放物線を描くにしても遠すぎる。
 しかも、この向かい風だ。冷たい北風は、当日も同様に吹き荒れていただろう。追い風ならまだ説明もつくけれど、その逆では風に流されたからとも言いがたい。
「こっち側の面の窓は全部閉まっていた。それに、衝撃から考えても、だいたい屋上の高さから落ちたことになる。だけど、それならもう少し校舎側に寄っていないと不自然なんだ。走幅跳の要領でダッシュして飛び出せば別だけど、このフェンスが邪魔でそれもできない。だから、警察では誰かに突き落とされたんじゃないかとみてるらしい」
「らしい?」
「そ。学校側は全面否定。本校で殺人事件など起こるはずがない、って。たとえ自殺にしても、いじめの事実はなかったんだとさ」
 私は吐息した。冷え込んだ朝は溜息も白い。
「……確かにいじめはなかったわ。だけど殺人事件が起こるはずないなんてのが、警察に通用するのかしらね。それにしても、浅野君」
「うん?」
「ずいぶんと事件について詳しいようね。私もまだ知らないようなことまで」
「まあ、警察が現場検証に来た時に色々とね。口の軽そうな――いや、人の好さそうな若い刑事に尋問されてる最中に、逆にこっちから訊いたんだ。お陰でずいぶんわかったよ。警察がまだ把握してないことも」
「把握してない? 何を?」
 すると、彼はぽつりと一言漏らした。
「噂」


(どうして鍵で飛ぶことなんてできるの?)
(やあね、冴。別に鍵で飛ぶわけじゃないわよ)
 あの時、雪乃は闇の中でくすくすと笑みをこぼした。
(飛ぶための鍵。飛ぶことのできる扉を開く鍵よ。冴は、噂を知らないの?)
 うん、と答えると、雪乃はいつもの調子で講釈を始めた。
(この学校にはね、一つだけ空に繋がっている扉があるの。それを開く鍵を持つ人だけが、その扉から飛ぶことができるんだって。でも、秘密の約束を破ると空から落ちてしまうのよ)
(約束って?)
(さあ、私にもわからない。誰も知らないから秘密なんでしょ?)

 あれが――噂?

「それが、事件と関係あるの?」
 すると、彼は視線を外した。
 胸騒ぎがする。ひどい眩暈。
 きっと、ここは青空が近すぎるのだ。
「俺は、鍵を探してるんだ」
「鍵……?」
 心臓が跳ねる。制服のポケットの中から、小さな鍵が不意に飛び出すような気がして。
「そう。もし、倉橋が鍵を持っていたら――」
 動悸が激しい。耳元で脈打つ音が聞こえてきそう。
「いたら?」
「――多分、俺が倉橋を死なせたんだ」


 日常はすでに始まっていた。
 音。
 教科書をめくる音。チョークが黒板を叩く音。時折漏れるあくび。
 色。
 濃紺の制服。臙脂のタイ。等間隔に並んだ黒い頭。表情いろのない顔。
 人も、物も、空気さえも。
 すべては通常通りだった。それを構成するものが一つ欠けたというにも拘らず、世界は滞りなく機能する。かつて存在したという事実さえ、巧妙に無視しながら。
 私たちは小鳥だ。同じ色をして、同じようにさえずる、同種の小鳥。
 ここは鳥籠だ。何百羽もの飛べない小鳥を収容する籠。たった一羽いなくなったところで構わない。また同種の鳥が入りさえすれば、籠の機能を失わないのだから。
 チャイムが鳴って、ぞろぞろと廊下に人が流出する。自由なはずの休み時間も、行動の幅は驚くほど狭い。放課後になっても、結局一日の終わりは一つ所で皆迎える。ぐるぐると同じ敷地内を回るだけ。

(ここは籠なのよ)
 どうして誰も気づかないのだろう。それとも、気づいてしまえば平静でいられなくなってしまうからなのだろうか。

(――私は、飛びたい)
 雪乃は気づいていた。だから、日常から脱落してしまった。

「ねえ、知ってる? あの旧校舎、前にも同じように飛び降り自殺があったんだって」
「そうそう、二年前だっけね。前は確か男子だったんでしょ。うちらより一コ上の」
 女生徒たちは噂に事欠かないらしい。すでに彼女らの中では自殺として片づけられていたけれど、いちいち訂正のために口を挟みに行く気にもなれなかった。
「あれでしょ、噂の扉。空飛べるとかいう。その人、そこから落ちたんだって?」


 気づいた時、私はまた旧校舎の前に立っていた。
 別段、来ようと思ったわけではない。だけど足はなぜかここを目指し、そして私を連れてきた。
 私は、そびえ建つ校舎を見上げた。
 コバルトブルーとチタニウムホワイトの絵の具を混ぜ合わせたような空に、くすんだセピアの校舎が映える。
 空に繋ぐ扉はすぐに見つかった。
 L字の横棒の先端に位置する校舎の壁に、その扉はあった。それも、最上階に。
 内側から扉を開いた先には何もない。あるのは空だけだ。何も知らずに一歩を踏み出せば、確実に墜落死するだろう。
「何だ。また有川か」
 今度は先に足音に気づいていたので、驚くことはなかった。その人の来訪も。
「浅野君こそ、どうして」
「ここは、もともと俺の縄張りなんだよ。誰も来ないから、サボるには最適」
 彼がいつも教室にいなかったのは、ここを拠点に構えていたからだったのか。確かにここならのんびり時を過ごせるだろう。
 群れに入らず独りでいるには、おあつらえ向きの場所だ。

「――浅野君」
 私は迷っていた。訊くべきかどうか。
 彼は、もしかすれば自分が雪乃を死なせたのだという。雪乃が鍵を持っていたなら。
 その鍵を、私は今持っている。
 これは雪乃の持ち物だと、私は確信していた。
 彼女が話した、飛ぶための鍵。
 これを突きつければ、彼はそうだと頷くだろうか。そして雪乃を死なせたのが自分だと。なぜ死なせたのか。どうして彼なのか。どうして雪乃だったのか。
 それを、彼は話すだろうか?
「……ねえ、どうしてあんなところに扉があるの?」
 口にしたのは別のこと。だけど、彼は一瞬戸惑った。
「本当は、非常階段を取り付ける予定だったらしいな。工事の最中に変更になって、扉だけ残されたみたいだけど」
「二年前、あそこから落ちた人がいるの、知ってる?」
 すると、彼は大きく白い溜息を吐き出した。
「知ってるも何も、その人は俺に鍵をくれた先輩だよ」
「――鍵を、くれた?」
「そうさ。あの人は空が好きだった。だけど、ある時約束を守らなくて――それで、落ちた。誰もが自殺だと決めつけていたけど、違う。あの人は空を飛びたかっただけだ」
 彼は澄みきった空を見上げた。
「倉橋が死んだ時も、あの扉の鍵は開いていた。だけど落ちた位置からあまりにも遠いし、飛び降りるにしても横に長くダイビングしなきゃたどり着かないからおかしいってことで、警察はその事実を無視したけど」

 ――鍵は、開いていた?

「でも、俺は知ってる。倉橋は……倉橋も、飛びたかっただけなんだ」

(――私は、飛びたい)

 口癖のように、そう願っていた雪乃。
 自由に羽ばたける日を夢みていた雪乃。
 だけど、
 どうして彼が知っているの?
「だけど、倉橋が本当にあの扉から飛んだのか俺にはわからない。倉橋が鍵を持っていたら、俺は――」
「あなたが、雪乃を死なせたの?」
 私はポケットの中を探り、それを彼の目の前に突きつけた。まるで断罪するかのように。
「鍵はここにあるわ。雪乃の鍵。これが、扉の鍵なんでしょう?」
 怯んだような彼の瞳を覗き込み、私は繰り返した。
「――あなたが、死なせたのね」


(ねえ、冴。イカロスはどうして墜ちたんだと思う?)
(え? 蝋が溶けたからでしょ。太陽に近づきすぎて)
(そうよ。だけど、なぜ言いつけを守らずに太陽に向かったんだと思う?)
(それは――逃げるのに夢中になって飛んでたからじゃないの? 確か、迷宮から逃げ出すために翼を作ったって話だし)
(イカロスはね、飛びたかったのよ)
(――飛びたかった?)
(ただ迷宮から逃げ出すためなら、何もそんなに高くまで昇る必要なんてなかったでしょう? でも、イカロスは昇り続けた。逃走の手段としてだけではなくて、彼は心から大空を飛びたがっていたのよ)


 私は扉の前で立ち止まった。階段を駆け上ったせいで、ずいぶん息が上がっている。登下校でろくに歩かないことも手伝って、重度の運動不足になっているようだ。
 ポケットから鍵を取り出す。古びた鍵が、手のひらにひんやりとした感触を伝える。
 鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回す。
 カチリ
 硬い音がして、扉が開いたその先は――

 青、だった。

 遮るもののない、一面の青空。下さえ見なければ、自分は空の中にいるのではないかと錯覚するほど、青はすぐ傍まで迫っていた。

(――飛べる)

 私はそう感じた。
 誰にも何も教わらずとも、私はそう思っただろう。
 ここはあまりに空が近いから。
 翼がなくても、飛び方など知らなくても、きっと飛べるに違いない。
 私は、空に一歩を踏み出した。
 だけど、踏みしめるものなどなかった。
 そこは、空のただ中。
 縛りつけられていた重力から切り放されて、私は虚空に浮いていた。
 飛ぶとは羽ばたくことではなくて、解放されること。
 冷たい風に吹かれながら、私は空を飛んでいる。不快だったはずの北風も、今はこれほど心地よい。風に誘われて、どこまでも飛んでゆけそうな気さえする。
 風は――

「――――!!」
 ごう、と湧き起こった突風。私は吹き飛ばされずに済んだけど、代わりに手のひらから光がこぼれ落ちた。
 鍵だった。
 日差しを受けてきらめきながら、小さな鍵が落ちてゆく。飛ぶための鍵が。
 私は夢中で手を伸ばした。宙に浮いたまま鍵をつかみ、反転した時、地面が目に入った。
「――有川!!」
 呼び声を聞くのと、身体が引かれるのを感じたのはほぼ同時のことだった。私の身体は、初めは下に、次は上に向かって引っ張られた。
 何のことはない、地上四階から落ちそうになった私を、引き上げてくれた手があったのだ。もちろん、そんな悠長なことを実感できたのは、しっかりとした足場を得てからのことだったけれど。
 廊下の床に転がり落ちて、私たちは二人ともぜいぜいと息をしながらへたり込んだ。
「……噂は…本当だったのね。ねえ……浅野君、ここは……本当に空を飛べるの……?」
「……おまえな……死にかけといて、よく、そんなこと……言ってられるな……」
 お互いに息が上がっている。だけどこれも生きている証だと思えば、多少の苦しさは我慢すべきだろう。
 大きく息を吐いて呼吸を整えると、彼はゆっくり口を開いた。
「――この扉をくぐると、下を見ない限り、空を『飛んで』いられるんだ」
「下を……? それが、秘密の約束?」
「まあ、そんなとこだ。俺の先輩は誤って下を見たせいで、効果が切れて落ちたんだ」
 なんて呆気ない幕切れ。それが命懸けで守るほどの約束なのだろうか。
「俺はよくここで『飛んで』たんだ。それで、偶然そこを倉橋に見られた」
「雪乃が……」
「あいつはどうやったら飛べるのか訊いた。教えないと自分もこの扉から飛び出すとか言って脅すから、仕方なく教えてやったんだ。すると、今度はその鍵を渡してくれって――」

 いかにも、雪乃なら言いそうだ。飛ぶためなら、脅迫くらいのことは涼しい顔でやってのけるだろう。
「俺はもちろん渡さなかった。何より先輩のこともあるし、間違って落ちたりしたら大変だからな。それに、ここはなるべく人に知られないほうがいいんだ。噂のままなら誰も試そうなんて思わないから」
「独り占めできるものね」
「別にそんなんじゃない。だからって噂になって、興味本位の奴らが押し寄せてきて、また誰かが落ちたりしたら、もうここに出入りできなくなるだろ? そうなるのが嫌だったんだ。でも、あいつは――倉橋は本気だったんだな。いつの間に抜き取ってったのか知らないけど、俺は鍵をなくしていた。そして、それに気づいた時、もう倉橋は――」
 彼から密かに鍵を拝借して、扉を開いて飛び出していたのだ。その先に何が待ち受けるのかも知らずに、ただ飛びたい一心で。
「倉橋が全然別の理由で、別のところから飛び降りたならよかったと思った。もし、あいつがここから『飛んで』、落ちたなら、それは秘密を喋った俺のせいだから……」

 だから、彼は鍵を探していたのだろう。
 見つからなければ、彼の責任は軽減される。本当は一人で背負い込むことではないのだけれど、唯一真相を知る彼だから、彼女の死にずっと心を痛めていたに違いない。
「鍵は、雪乃から少し離れたところに落ちてたわ」
 落とした鍵をつかもうと、虚空に手をさまよわす――空中で、もがくような仕草が目に浮かぶ。
 あの日も風が強かった。きっと雪乃も私と同じように鍵を突風に浚われたのだろう。飛ぶための力を与えてくれる鍵を失いたくないばかりに、必死で手を伸ばしただろう。
 だけど、重力が再び雪乃を捕らえた時、私と違って雪乃には差しのべてくれる手はなかったのだ。

「雪乃は、飛べたのね……」
 雪乃は自殺ではなかった。
 誰かに殺されたのでもなかった。
 ただ飛びたくて――その願いを叶え、墜ちたのだ。飛ぶための鍵に手を伸ばし、『約束』を守りきれずに地を目にして。
 言いつけを守らず太陽を目指したイカロスのように、翼を失ってしまったのだ。
「おい、何で泣くんだよ」
 言われて初めて気がついた。報せを受けた時も、葬儀の最中にも泣くことなんてなかったのに。
 自殺、他殺、事故。そのどれも雪乃には合わなかった。だけど、彼女が飛べたのだと――だからこそ墜ちたのだと知って、私は初めて雪乃の死を思った。
 雪乃はもう、二度と飛べないのだと。
「倉橋はよくここに来てたよ。空をいつも眺めてた。あいつは――本当に飛びたがってた」
「……知ってる」

(――私は、飛びたい)

 自由に飛べる翼を欲しがっていた雪乃。
 それをようやく手に入れられたのに、彼女はすぐに手放してしまった。いつまでも飛んでいたかっただろうに、その願いを大空は聞き入れてはくれなかったのだ。
 私は空の青から視線を逸らし、彼のほうに向き直った。
「浅野君は、また飛びたい?」
「……いや。さすがにもう、そんな気にはなれないな」
 その答えを聞いて、私は空に繋ぐ扉に鍵をかけると、それを窓から放り投げた。
「有川!?」
 驚き呆気にとられる彼に、私は告げた。
「――もう、私たちには飛ぶための鍵は必要ないわ」
 小さくうなずく彼の向こうに広がる空は、相変わらず青い。だけど、それは何ものにも染まらず、飛びたいと望む者さえ拒む、残酷な色だ。
 結局、私たちは何かに縛られたままなのだ。大地に、重力に、規則に、この鳥籠に。
 だから、自由へと解き放つ羽はいらない。いつか何の力も借りず、自然に飛び出せる、その日まで。
 そうして翼を捨てた私たちは、イカロスにさよならを告げた。

 



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