第四章 盈月


 まったき姿の満月が、闇夜を晧々と照らしていた。その真下で、軽やかに舞う蝶のごとき影が二つ踊る。宮城の広々とした屋根は、にわかに剣舞の舞台となり、打ち交わされる剣戟(けんげき)の音が月夜に響き渡った。

 屋根をまた飛び越し、向き直ったところで、一方が微笑を含んだ声で言い放つ。

「女のために命を捨てるか。そういう自虐趣味があるとは知らなかったな」

 もう一方もそれに応じる。

「誰が自虐趣味だ。それに、まだ捨てると決まったものでもないだろう」

 当然、先に揶揄したのが兇星、後から言い返したのが英俊である。

 当の悠遠を置き去りにして外に飛び出した後、両者はどちらからともなく刃を抜き放った。それ以後、こうして剣を交わし続けている。撃ち合う数が何十合目かわからなくなるほど経っても、いまだ完全に決着をみることができずにいた。

「そこまで悠遠が愛しいか」

「あんたにくれてやるには惜しいな。まして、餌にするだけというなら」

 不機嫌そうに返す英俊に、兇星は愉しげに目を細めた。宵闇の中でも英俊にはその小さな動作が見える。そして、それが彼の苛立ちを煽るということを知っているからこそ、兇星は余計にわざとらしい表情を浮かべてみせるのだ。

「私はどちらでも構わなかったのだ。いや――本来はおとなしく妻となってくれれば、あんな手荒な真似はせずに済んだのだがな」

「あいつがおとなしく聞き入れるはずもないだろう」

 英俊は、小馬鹿にするような口ぶりで吐き捨てた。その台詞には、そんなこともわからないのか、という揶揄がこめられている。しかし、兇星は動じる素振りも見せない。それどころか、逆に英俊をからかう糸口をそこに見いだしたようである。

「ずいぶんと自信があるようだな、英俊。その割にはいまだ物にできていないようだが?」

「別にそういうんじゃない」

 英俊は、ややぎこちなく吐き捨てた。確かに悠遠のことは気になるが、それは恋情などとは無縁のはずだ。英俊はそう思っている。とはいえ、これまで誰かを真に想ったことなどない彼が、自分の感情を正しく理解できているとは限らないが。

 そろそろ潮時と見たのだろう。兇星は心温まるはずもない会話を終わらせるべく、切り捨てるように言い放った。

「どのみち悠遠に選ぶ道などない。《影》が不要となった今、後は処分されるしかないのだからな」

 もとより秘密を多く知りすぎた《影》を生かしておくはずもない。用済みとなれば捨てられるのが、古来より「駒」の行く末である。そのことは英俊も充分わかってはいたが、それでも口を挟まずにはいられなかった。

「不要だと? だったら怜悧や閃火はどうするつもりだ」

「私の知ったことではない。まあ、どうせ鬼才が好きに使うだろうが」

「あんた、わかっているのか? 怜悧が何のために《影》なんかに身を落としたのか――」

 たとえ零落したとはいえ、怜悧は格式高い家柄の娘だ。《影》に身を落とした今もなお、その矜恃はいささかも失われてはいない。本来なら彼女は魂を売り飛ばす必要などなかった。それでも闇に縛られているのは、彼女が自ら望んだため。そう、幼き日から想い続けた男を救いたい、その一心で――

 しかし、そう説いた相手は小うるさげに眉をひそめただけだった。

「それを知って何になる? どのみち私は応えてやることなどできぬ。ならば好きにさせておくしかなかろう」

 凍りつくほど冷えた声は、英俊の怒りに火をつけた。

「貴様という奴は……」

 しかし、その怒りさえも兇星にとっては享楽の種にしかならなかった。

「珍しいな、英俊。おまえが仲間意識を持つようになるとはな。だが、他人になど構っている余裕がおまえにあるのか?」

「それはこっちの台詞だ!」

 叫ぶと同時に、英俊は刃を閃かせた。鋭い斬撃が宙を薙(な)ぐ。常人ならば、よけることなど不可能だったろう。しかし常人どころか人でさえもない兇星は、なぜかよける仕草もしなかった。

 剣先は、まっすぐに兇星の胸を貫いた。だが。

「――なぜだ……今は月があるのに」

 英俊は、不覚にも手元が細かく震えるのを止めることができなかった。

 彼が刺突を放った白刃は、獲物を仕留めてもなお月光に白く映えた。―― 一滴の血にも染まることなく。

 英俊の驚愕と独白の意味を充分心得ている兇星は、余裕たっぷりに言い放った。

「忘れたのか? 私はただの影に過ぎぬ。大地に剣を突き立てても、影を消せぬのと同じことだ」

 月光の下で兇星は実体を保つことができるが、それは彼の「本体」ではない。刃を交わすことはできても、胸を貫いて息の根を止めることは不可能なのだ。

 つまり、このまま戦いを続けても、英俊の体力が消耗するだけで勝ち目などない。それが兇星の余裕の源だった。しかし、その余裕の発言が同時に災いを招く。

「……そうか。なるほどな」

 合点して頷くと、英俊は素早く剣を収めた。それまで驚愕に凍りついていたはずの唇に、にわかに微笑が浮かぶのを見て、兇星は己の失態に気づいた。
 だがそれも一拍遅れてしまった。

「ま、待て、英俊!」

 この時、兇星は初めて慌てることとなった。普段から余裕しか見せなかった彼にしては実に不本意極まりないが、今はそうも言っていられない。

 その一方で、英俊にとっては今ほど兇星を嘲る機会もなかった。もちろん待ってなどやらず、屋根を軽やかに飛び越しながら、思いっきり馬鹿にする。

「馬鹿め、自ら弱点を教えるとはな! 史上最大のうっかり天子として、史書に記させてもらうぞ」

 ぎりと歯噛みして、兇星もまた屋根を飛んだ。自分の失言により、形勢は一瞬で逆転してしまった。ここで英俊を止めねば、彼は文字通り日陰の身のまま生涯を終えてしまうだろう。本体が先に滅びれば、浮遊する魂でしかない己は永遠にさまようことになるのだ。

 そうして二つの影は、追いつ追われつ月下の鬼ごっこを繰り広げることになった。しかし両者が全力を出したため、それは欠伸(あくび)をするほどの時間でしかなかった。

 二つの影が降り立ったのは、禁城の中でも最も大きく、最も渡月宮に近い一角。日中であれば、鮮やかな朱の瓦と柱廊が目を引くだろう。それだけの威容を保つのは、宝玉ならぬ玉体を守り収めるためである。

 そう、ここは天子の住まう御寝殿。本来ならば侵入者を許すはずもない場所だが、人ならぬ身の影たちにとって、人である護衛の目をかいくぐるなど、実にたやすいことだった。衛兵たちが知れば、自信を喪失して職務放棄するかもしれない、哀しい事実である。

「まったく、手を焼かせおって……これ以上は行かせんぞ」

 屋根の上の鬼ごっこでは後れを取っていた兇星も、ここへ来てようやく英俊の前に回り込んだ。実体を持たぬ身なので息が上がることはないが、いくらか肝を冷やされたに違いない。ぎりぎりでも何とか追いついて、やっと自信が戻ってきたようだった。

 難敵に立ち塞がれた形になった英俊だが、しかしその目は余裕ありげに笑っていた。

「そんなに勿体をつけずとも、大声で『曲者』と叫んだらどうだ? 衛兵たちが殺到してくるぞ」

 英俊の台詞は明らかな挑発だった。だが、兇星はそれに答えるわけにはいかなかった。

 確かに、ここで「曲者」と叫べば衛兵たちが群がってくるはずだ。英俊相手に衛兵たちでは手に負えないとしても、足止めにはなる。御寝殿への侵入を阻む目的は達成できるだろう。

 だが、兇星にその手は使えない。それは、他人の手を借りたくないなどという矜持の問題ではなく、「天子が二人いる」ということを知られるわけにはいかないからだ。

 彼の正体は、天子洪瀾から切り離された魂。しかも、封を解いて活動していることは、太后さえも知らないのだ。もし騒ぎになれば、それを聞きつけた太后が再び封じてしまうだろう。それどころか、魂ごと消滅させられてしまう可能性もある。太后にとって必要なのは、陽魂たる洪瀾のみ。彼は、切り捨てられた不要な存在に過ぎない。

 そのため、下手に動くことができないという事実が、彼の行動を阻む要因となっていた。
 そして、動きたくともできずにいる兇星を、英俊はここぞとばかりに揶揄することも忘れない。

「できんのなら、俺が代わりに叫んでやろうか?」

「――余計なことをするな!」

 怒りに任せた斬撃は、しかし虚しく空を切った。心中を見透かされたという動揺が、彼の動きを鈍らせたのかもしれない。そして、たとえわずかであっても、敵の見せた隙を英俊が見逃すはずもなかった。

 激しいが、やや精度を欠く斬撃をすり抜け、英俊は空中で一回りして、朱塗りの欄干の上に降り立った。

 ふっ、と不敵な笑みをこぼす余裕すら見せて、英俊は欄干を勢いよく蹴り、露台を素早く飛び越える。食い止めようとする兇星をかわして、彼はそのまま天子の寝室に足を踏み入れた。

 渡月宮では今晩も月の宴が行われていたが、夜半を回ってすでに楽の音も絶えている。宴で酌み交わした酒に酔い、誰もが深い眠りについている時刻。天子の室内もまた、ひっそりと静まり返っていた。無論、そのほうが英俊にとっては都合がいい。《影》とは闇に溶け込み、音もなくすべてを終えるのが生業(なりわい)なのだ。

 しかし、勇んで寝台に向かったものの、夜具には人の影が見当たらなかった。白いままの刀身を下げ、辺りを注意深く見回していると――

「――よくぞここまで来た」

 不意に背後から上がったのは、驚くほど醒めた声だった。
 英俊は、慌てて振り向くような真似はしないが、それでも内心では意外さに驚いていた。

 ゆっくりと首をめぐらし、映った視界には二つの顔があった。

 地上に並ぶ者なき天子、洪瀾。
 その隣に並ぶ天子の影、兇星。

 細部の造りまでまったく同じ顔が、まるで鏡を見るように向かい合っていた。闇の中でも目の利く英俊は、息を呑んでその様を見つめていた。

「――おぬしが、余の片割れなのだな」

 先に口を開いたのは、本体である洪瀾のほうだった。

 彼らにとって、これが初めての対面である。特に兇星は、本来なら持てるはずの体から切り離されてより、一度として触れることができなかった。その体が、己とは別の意思を持って語りかけてくる。

「知って、いたのか……」

 返す言葉は、我知らず震えていた。

 文字通り日陰の身である自分のことなど何も知らず、のうのうと生きているのだと兇星は思っていた。だからこそ、その体を取り返し、自分が主人となろうと決意していたのだ。それなのに、「片割れ」と知って語りかけてこられたら、何と返していいのかわからなかった。

 一方、洪瀾は目に見えて戸惑う片割れから視線をずらし、二つの顔に見入っていた英俊に話しかけた。

「悪いが《影》よ、今はまだ殺されてやるわけにはいかぬ。最後の仕事が残っておるのでな」

 ――天子は、すべてを覚っている?

 思いもしなかった事態に、英俊は目を見張った。そもそも毎夜宴に興じる天子が、《影》の存在など知るはずもないと彼は思っていたのだ。
 英俊のわずかな狼狽の隙を突くように、洪瀾はさらに想像を超えた動きを見せた。

「――!? ま、待て!」

 英俊はいっそう狼狽した。何しろ彼でさえ目で追うのがやっとの素早さで、洪瀾は軽やかに床を蹴り、一気に駆け出したのだ。

 慌てて呼び止めようとしたが、そんな言葉で止まるはずもない。影鬼すらも凌ぐ俊敏さで、至上の位を戴く男は音もなく外へ飛び出した。

 一拍遅れて英俊は露台に出たが、その時にはすでに、洪瀾の姿は指先に乗りそうなほど小さくなっていた。口を挟む余地もなかった兇星も隣に並び、屋根を次々に飛び越してゆく片割れの姿を呆然と見送った。

 欄干に手をつき、なすすべなく立ち尽くしていた二人は、敵対する仲であることすら忘れて思わず顔を見合わせた。

「おい……天子ってのは、ああも異常にすばしっこいものなのか?」

「私が知るか!」

 くだらない会話が、かえって互いの正気を取り戻させたようである。
 不毛な撃ち合いはしばし中止して、二人は闇に消えた影をともに追うことにした。





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