第四章 盈月


 むせ返るような血臭が辺りを満たした。

「どう……して……」

 驚愕に目を見開く怜悧の体は、小刻みに震えていた。

 素早く振るった彼女の刃は、胸から腹にかけて正確に貫いていた。深い傷口からこぼれ出る血が、刃をつたってしたたり落ちる。柄を握る彼女の白い手も、次第に紅く染まってゆく。

 だが怜悧は、手を離すことも刃を抜くことも忘れて、自分が刺した相手を呆然と見つめることしかできなかった。凍りついた彼女を呪縛から解いたのは、どさりという重い音だった。刃を胸から生やしたまま、傷ついた体が床に崩れ落ちたのだ。

「……閃火!?」

 最初に声を上げたのは悠遠だった。

 本来ならば、悠遠こそが怜悧の刃に貫かれるはずだった。だが今、彼女の目の前には刃を突き立てられ、倒れ伏す閃火の姿がある。怜悧が白刃を振るおうとしたまさにその時、室内に飛び込んできた閃火が二人の間に割って入ったのだ。すでに勢いのついていた怜悧は刃を止めることができず、そのまま閃火の胸を突いた。想像をはるかに超えた事態に、悠遠もまた信じられない思いで見つめていた。

「なぜ……どうしてあなたが、かばったりするんですの!?」

 怜悧は震える声を押し出した。彼女もまた予想だにできなかったのだ。
 まさか、自分の命に従うはずと思っていた閃火が、こともあろうに自分の邪魔をするなどとは。

「……駄目だ……怜悧は、そんなことで、手を汚しちゃ…いけないんだ……」

 閃火はまだ息があった。刃の下で、苦しげな呼吸とともに、ささやくような言葉を懸命に告げる。

 怜悧は還月の儀に悠遠の血が必要だと閃火に伝えていた。そのためには手加減無用だとも。だが、閃火はあえて急所は外していた。もともと情に厚い少年は、いくら怜悧の頼みでも、仲間の命を奪うことまではしたくなかったのだ。

 だが、怜悧はそのことに気づくだろう。そして、今度は自らの手を汚してでも悠遠を亡き者にしようとするだろう。それを察していたからこそ、彼は鬼才に銀壺を手渡すとただちに舞い戻ってきたのだ。そして――怜悧を止めるため、自らの体を盾にしたのだった。

「閃火……」

 怜悧は力なくその名を呼ぶことしかできなかった。彼女の刀子は深々と閃火の胸に突き立っている。心臓からはかろうじて外れているが、ほとんど致命傷に近い。剣を引き抜けば、その瞬間に大量の血が噴き出すだろう。そのため、彼女はどうすることもできず、ただ呆然と傷ついた少年を見つめることしかできなかった。

 そんな彼女を現実の感覚に引き戻したのは、背後から不意に上がった場違いな音だった。

 ぱちぱちという、少し間の抜けたその音に、怜悧は驚いて振り返る。そして、そこに見つけた顔に、彼女は呆気にとられた。

「惚れた女に罪を負わせないため、自らを盾にするとはね。まあ詰めは甘いが、心意気ぐらいは評価してやっていいんじゃないか?」

 緊迫した空気にそぐわない、のんびりした声音と台詞は、不意に現れた英俊のものだった。ぱちぱちというのは、ご丁寧にも彼が拍手してみせた音だったのだ。

 目の前で仲間が瀕死の重傷を負っているとは、まったく思えない言動である。月光を受けた横顔は実に涼しげで、そこに何の感情も読み取ることはできなかった。

 そして英俊は、呆気にとられて声も出せない怜悧の前を通り過ぎると、壁際でしゃがみ込んだ。

「まったく、世話ばかりかけさせる……」

 彼が語りかけたのは、閃火によって凶刃から守られた悠遠だった。壁に身を預けたままの彼女は、もはや自力で立ち上がることもできず、霞み始めた目で英俊を見返すことしかできなかった。。

「英…俊……」

「喋るな。じっとしていろ」

 短く告げ、英俊は大きな手を悠遠の頬にあてがった。すでに大量の血を失っている彼女の肌は、驚くほど冷たくなっていた。首筋から流れ落ちた血は、彼女の衣を重くなるほど真っ赤に染めている。

 それを見やりながら、英俊は頬に添わせていた手を、ぐっと強く握りしめた。たとえ人並み外れた《影》とはいえ、これではもう手の打ちようがない。これまで多くの命が費えるのを目にしてきた彼は、それが嫌と言うほどわかる。

 無言のまま、英俊は視線を怜悧に向けた。彼がこの場を兇星とともに離れた時、悠遠はここまで深い傷を負ってはいなかった。となれば、この状況から見て、深手を負わせたのは怜悧だろうと彼は瞬時に判断したのだ。

 しかし、見る者すべてを凍りつかせるような冷たい視線を浴びせられても、怜悧は何の反応も示さなかった。というより、できなかったのだ。彼女の意識はほとんど、この場から飛んでしまっていた。自分が刃を突き立てた少年の顔から次第に生気が失われてゆくのを、虚ろな瞳で見つめていたのだ。

 怜悧にとって閃火は、ただ都合よく扱える僕(しもべ)のようなものに過ぎなかった。そのはずが、こうして命の灯が消えてゆくのを目の当たりにすると、とても平静ではいられなかった。まして、それが望んだことではないとはいえ、自分の手によるものだとすれば――

 失われつつある二つの命の最後を、二人の視線がそれぞれ静かに見つめていた。ただ静寂だけが支配するその場に、嘲笑混じりの声が上がったのは次の瞬間だった。

「――大事なものをこうも簡単に失おうとは、お粗末な話だな」

 沈黙に満たされていた空気を、無粋な台詞が震わせた。

 英俊と怜悧は、同時に振り返る。彼らの背後には、音もなく現れた一つの影が立っていた。月光に照らし出されたその姿に、怜悧は驚きの、英俊は舌打ち混じりの声を上げた。

「洪瀾!?」

「……兇星」

 つい先刻まで英俊と兇星は夜空の下、ともに天子を追っていた。しかし天子はあまりに素早く、途中で見失ってしまった。それで英俊はひとまずこの房に戻ってきたのだが、どうやら兇星はその英俊の跡をつけてきたようである。

 兇星の第一声は、英俊の胸に鋭く突き刺さった。普段ならば皮肉を込めて言い返しているところだが、今はそうすることができなかった。

 確かに、兇星の言う通りなのだ。これまで彼は、己以外のものは何一つ信じてこなかった。何かに執着することなど、一度としてなかった。だからこそ、見過ごしてしまったのだ。大事なものが、手を伸ばせば届くほどすぐそばにあったということを。自覚するのが遅すぎて、彼は今まさにそれを失おうとしている。

 返す言葉もなく、英俊が口をつぐんでいると、兇星は足音もなくゆっくりと近づいてきた。その目は、すでに魂が離れかけている悠遠だけを見つめている。

 そのまっすぐな視線に反応したのは、力なく座り込んでいた怜悧だった。

「洪瀾……なぜ、その娘ばかり――!!」

 怜悧の声は怒りと絶望に震えていた。

 兇星の視線は悠遠だけに注がれ、決して周りを見ようとはしていなかった。他には誰もこの場に存在していないかのように、自分を一顧だにしない姿に、怜悧は抗議したのだ。

 怜悧がここまで凶行に走ったのは、すべて愛する男のためだった。にも関わらず、彼女が愛情を傾けた相手は、こんな時でも自分をいっさい見ようとしないのだ。ならば、自分は何のためにここまでしたのだろう? 魂を売り渡し、人ならぬ《影》にまで身を落としたことは、いったい何になったのだろう?

「――洪瀾!」

 我を忘れ、怜悧は自分を無視する男にしがみつこうとした。

 ちょうどその時、彼は命の消えかかる悠遠に向かって手を伸ばそうとしているところだった。自分以外の女に触れるところなど、彼女はもう見たくはなかった。自分には、眼差し一つ向けてはくれないというのに――!

「え……?」

 しかし、必死の思いでしがみつこうとした瞬間、怜悧は呆然とつぶやくことになった。伸ばした手は、かわされたわけでもないのに、するりとすり抜けてしまったのだ。

 同時に、悠遠に伸ばした兇星の手も目的を達することができず、青ざめた彼女の頬を通り抜け、ただ虚しく空をつかむだけだった。ふ、と小さく自嘲気味に苦笑して、兇星は己の拳を握りしめた。

「どう…して……? 今は、月があるのに――!」

 怜悧は震える声で叫んだ。
 そう、確かに室内には、いつもよりも眩しいほどの月光が差し込んでいた。にも関わらず、兇星はまた地上に浮遊する「影」に戻っていたのだ。

 兇星は黙ったまま窓の外を見やった。相変わらず夜空には円形に切り取ったような盈月が皓々と輝いている。だが、それだけではない。月と地上を繋ぐように、闇を縦に割る一本の道が白く輝いていたのである。ここにいる彼らはその現場を目撃していなかったが、それは鬼才が盈月鏡を使って出現させた、天への階だった。少し離れた場所でも、その階段は肉眼で視認できたのである。

 兇星は天へと繋ぐ階に目をやると、合点が行ったように一つ頷き、くるりと踵を返した。

「待って、洪瀾……!」

 一言もなく去ろうとする兇星に向かって怜悧は叫んだが、その足は止まることがなかった。速度もゆるめず、ちらりと半分振り返り、たった一言だけ告げる。

「――洪瀾は消える。もうじきな」

「洪瀾!?」

 謎の言葉を残して、兇星は窓から飛び出した。その姿は夜の闇に溶けるように、瞬く間に消えてしまった。

 怜悧は慌ててその後を追いかけようとした。だが、立ち上がろうとした際、視界の隅に映った閃火の姿が、彼女の動きを鈍らせた。

 閃火は深く傷つき、死を待つだけの状態である。その痛ましい姿を目にした彼女は、自分の身勝手な行動が彼をこんな目に合わせたのだということを、嫌でも思い知らされる。

 ――そういえば、まだ謝ってもいない。

 だが、今さら何と言えばよいだろう?

 謝ったところで取り返しはつかないのだ。自分の手は、汚れてしまった。仲間の命を奪わせまいと、止めてくれた人の血によって。

(――大事なものをこうも簡単に失おうとは、お粗末な話だな)

 その台詞は先刻、兇星が放ったものだった。あの時は英俊に向けて言ったのだと彼女は思っていたが、果たしてそうだろうか?

 今、目の前で消えゆく命。
 それこそが大事なものだと、彼は言おうとしていたのではないだろうか――?

 すぐにも兇星を追いたい気持ちとは裏腹に、彼女は自分がどうすべきかわからなくなっていた。そして、その逡巡(しゅんじゅん)をまるで読み取ったかのように、それまで身じろぎ一つしなかった閃火の手がかすかに動き、怜悧の手を握った。

 あまりの冷たさに、彼女はどきりとした。その手は、すでに人の温もりを失っている。残された時間の少なさを伝えられたような気がして、彼女は思わず半歩退きかけた。

 そんな怜悧に、閃火は小さくかすれる声でつぶやいた。

「……行けよ」

 ――「洪瀾」の元へ。

 続きは口にせずとも、彼女の胸に響いた。
 自分になど構わず、愛する男のところへ行けと閃火は言っているのだ。

 あまりに温かく、だがそれだけに重い言葉に、怜悧は涙がこぼれそうになった。だが、彼女はゆっくりと首を左右に振り、逆にその手を握り返した。

 小刻みに肩を震わせながら、怜悧は冷たくなってゆく閃火の体をそっと抱きしめた。





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送