第四章 盈月


 月台に現れた洪瀾を、嫦娥も鬼才も驚きの表情で迎えた。

「洪瀾……なぜそのようなことを申すのじゃ?」

 そう問う嫦娥の声は、かすかに震えていた。

 彼女が地上にとどまり続けたのは、すべて愛しい洪瀾のためだった。そして、一心に注いだ愛情を、洪瀾もまた同じだけ返してくれるものと彼女は思っていた。それなのに、洪瀾ははっきりと月に戻るよう告げたのだ。とても現実のこととは思えなかった。

「我が一族は、母上の加護によって今日まで栄えることができました。しかし、それももはや限界です。すでに継嗣となる男児が生まれなくなっていることが、その証。父上が乱心し、母上を地上に繋ぎ止めることになってしまい、ずいぶんとご迷惑をおかけしました」

「何を言うか、洪瀾。妾はそなたとともにいたくて、自ら地上に残ることを選んだのじゃ。そなたが気に病むことはないのじゃぞ」

 毅然と告げる息子に対し、嫦娥は宥めるような口調で言い聞かせようとした。彼女は、我が子が母に気を遣ったのだと思い、少し胸を撫で下ろした。そして、いつものように艶然とした笑みを浮かべ、白い繊手を洪瀾の首に絡めようとする。

 だが、いつもと違うことに、洪瀾はその動きを押しとどめた。

「――もう……おやめください。母上は本来、天上にこそあるべきお方。我が一族は、もう充分その加護に浴することができました。心残りはありません」

「そなた、わかっておるのか!? 妾が月へ戻れば、そなたの命は地上から離れるのじゃぞ! わがままを言うのもいい加減にせい!」

 嫦娥の怒声に呼応するように、彼女は全身からまばゆい光を放った。しかし、洪瀾は固く唇を引き結んだまま、どこまでも母に対抗する姿勢を崩さない。

 ――これが、本当にあの洪瀾だろうか?

 さすがに嫦娥もここへ来て、洪瀾の様子がいつもと違うことに気づいた。

 凡庸な昏君、揺籃(ようらん)の傀儡(かいらい)と称されるだけに、洪瀾は極めて従順な息子だった。心身ともに注がれる母の愛情も、一度として拒むことはなかった。それなのに、今はなぜか頑(かたく)なに自分を拒絶しようとしている。そのことが嫦娥には信じがたく、そしてとうてい許せることではなかった。

 遅すぎた息子の反抗期に愕然とする嫦娥に、揶揄めいた声が背後から上がる。

「いい加減になされるのは嫦娥様のほうですぞ。子供が親から独立したがるのは世の理。そろそろ子離れしてはいかがかの」

「余計な口を挟むでない、この妖怪爺め!」

 子供のように囃し立てる鬼才に、嫦娥は殺気に満ちた目つきで叱咤した。
 月台に険悪すぎる空気が流れた、まさにその時。

「ずいぶんと盛り上がっているようだな」

 ひどく醒めた声が、その場に割って入った。邪魔だてする無粋者は誰かと嫦娥は振り返り、そして驚愕に目を見開いた。

「――!?  おぬしは……!」

 嫦娥の目の前に現れたのは、洪瀾とまったく同じ顔だった。一声上げただけで、彼女は絶句してしまう。鬼才が下弦鏡の封印を破ったことにも、つい先程ようやく気づいた彼女は、当然のこと兇星の存在など知るはずもなかったのである。

「お察しの通り、あなたが切り捨てたもう一人の愛しい我が子ですよ。ご挨拶が遅れましたがね。――母上」

 あえて母と呼び、兇星は整った相貌に冷たい微笑を浮かべた。彼を不要なものとし、地下に封じたのは他でもない、この嫦娥なのだ。皮肉の一つも言いたくなるのは道理である。

 そんな兇星に、彼を封印から解いた張本人である鬼才は眉をひそめた。

「兇星、いったい何をしに来た?」

「女神の里帰りの手助けにな」

 にやりと笑って、兇星は中央の台座に歩み寄ると、おもむろに盈月鏡を持ち上げた。

 すでに兇星の姿は半ば透けた幽鬼のようになっている。だが、それでも盈月鏡だけはその手で触れることができるようだった。そのことに、兇星は少し安堵の表情をのぞかせた。

 月への階を現出させている鏡は、いまだに皓々と白く輝いている。見るからに凄まじい霊力を持つ神器を、まるでその辺の日用品でも扱うような動作で、彼はそれを高々と掲げた。兇星の意図をいち早く察したのは、最も付き合いの長い鬼才だった。老人は皺(しわ)に埋もれた顔色をさっと変え、緊張した声で叫んだ。

「血迷うたか、兇星! それを割れば、おぬしは二度と元に戻れぬぞ!」

 鏡を頭上まで高く持ち上げた兇星は、それを地にたたきつけようとしていたのである。鬼才は鋭い制止の声を上げたが、兇星にとっては何の意味もなかった。

「無論、承知の上だとも」

 そう告げて、兇星は両手を鏡から離そうとする。だが、鬼才はそれを許さない。老人の足下で、無数の影がうごめいた。鬼才の本性たる「影」が、兇星から鏡を奪い取ろうとしたのだ。しかし、

「なっ、何をするか!?」

 突如、鬼才は狼狽した。何と、小柄な老人の背後から、洪瀾がいきなり羽交い締めにしたのである。主の動揺を受けて、足下の影もにわかに動きが鈍くなる。その隙を突くように、鬼才を抑え込みながら洪瀾は叫んだ。

「今だ!」

 もはや兇星は迷わなかった。彼の両手から離れた盈月は、力強く月台の床にたたきつけられる。

 ――パァンッ

 高い音を立てて、鏡は粉々に砕け散った。
 同時に、無数の光が天と地に入り乱れた。

 割り砕かれた瞬間、盈月鏡は凄まじい閃光を放った。割った兇星も、思わず一歩退き、腕で顔をかばわねばならなかった。

 瞳を焼きそうなほど強い光輝の中で、彼は見た。鏡の破片とともに、無数の光が帚星のように尾を引いて飛び散ってゆくさまを。

「何と……何ということをしてくれたのじゃ……!」

 わなわなと震えながら、鬼才は呆然と光を見つめていた。宙に散りゆくその光こそ、彼が長年かけて集めてきた、人の魂魄だったのだ。嫦娥が地下に封じた神器を借用して、鬼才は今日まで力を増大させてきた。しかし、その鏡が割れ、吸い上げた無数の魂魄を失った今、彼はただの無力な老人と化してしまったのだ。

 しかし、悲嘆に暮れる老人になど、気を配るような者はここにはいなかった。
 嫦娥は魂の抜けたような鬼才を突き飛ばし、猛然と我が子の元へ駆け寄った。

「洪瀾……洪瀾……!」

 嫦娥の洪瀾への執着は最後まで止むことはなかった。彼女は月台に倒れ伏した洪瀾を抱き上げ、繰り返しその名を呼んだ。

 鏡が割れた瞬間、洪瀾はふつりと糸が切れたように、その場に崩れ落ちたのだ。それを見て駆け寄った嫦娥は狂ったように我が子の名を呼び続けたが、返事はおろか、固く閉ざされた両眼が開くことはなかった。

「洪瀾――!!」

 悲痛な叫びが夜空に響き渡った。嫦娥は物言わぬ我が子の体を掻き抱いて揺さぶり続けた。母として女として愛した命が散る瞬間を、彼女は目撃したのだ。とても正気を保ってなどいられなかった。

 肩を震わせ、今にも泣き崩れそうな彼女の背に、不意に凛とした声がかけられた。

「――母上」

 その声に、嫦娥は目を見開いた。

 ふと顔を上げ、視線をさまよわせた彼女が空中に見つけたのは、倒れたはずの洪瀾だった。慌てて彼女は自分の腕の中を見下ろした。だが、そこには確かに目を閉じたままの洪瀾が横たわっている。

 再び空中を見上げると、彼女に呼びかけた洪瀾の姿が薄く透き通っていることに気づいた。

「ともに、行きましょう」

 洪瀾は宙に浮いたまま、嫦娥に向けて手を差しのべた。嫦娥は唇の端にかすかな笑みを浮かべると、迷うことなくその手を取った。鬼才に告げられた時は、月への帰還を拒み、伸ばされた手を振り払ったにも関わらず。

 すでに洪瀾を失った地上に、嫦娥は何の未練もなかった。だから、彼の魂とともに月へ昇ろうと決めたのだ。
 淡く輝く魂と、まばゆい光をまとう女神は、固く手を繋いだまま、天へと昇ってゆく。

 ――嫦娥奔月。

 御伽噺のような光景を、息を呑んで見つめていた鬼才は、ようやく我に返って現状を把握した。嫦娥は自分を置き去りにして、我が子とともに月へ還ろうとしているのだ。

「お、お待ちあれ……!」

 鬼才は大慌てで嫦娥を止めようとした。本来なら、嫦娥が月へ戻るのは喜ばしいことであるはずだった。だが、置き去りにされたのでは意味がない。鬼才の第一の目的は、常に嫦娥のそばにいることなのだから。

 しかし、月へ昇る嫦娥に向けて伸ばした鬼才の手は、火花を散らすような音を立ててはじかれた。まるで雷に打たれたような衝撃と痺れが、老人の手に残される。

「ば、馬鹿な……っ!」

 鬼才は痺れる手を押さえながら叫んだ。

 嫦娥が月へ向かうにつれて、白く輝く階は地上側から、すうっと消えていったのだ。痺れていないほうの手で慌ててつかもうとしたが、虚しく空を切るばかりだった。

 鬼才が地上で焦燥に駆られている間にも、嫦娥はさらに天上へと近づいてゆく。もはや人の肉眼では視認できないほど、その姿が小さくなった頃――

 天上から突如、光が消えた。

 天と地を繋ぐ白い階も、天へと昇る洪瀾の魂も、嫦娥の姿も、瞬時に輝きを失ったのだ。
 そして、天から最も強い光を放っていた月も。

「月蝕――……」

 天上を見上げながら、鬼才はあえぐようにつぶやいた。

 空から月が消えた。

 月は沈んだのでも、雲に隠れたのでもない。女神が天に還り着き、自らの意思で姿を隠したことを表していた。同時に、「影」たる鬼才が求め続けた月光が、その手から永遠に失われたことも。

 絶望に打ちひしがれた老人を包み隠すように、深い闇が地上を覆い尽くす。あまりに濃い闇のため、誰一人として気づくことはなかった。天へ昇った魂の片割れが、この場から姿を消しているということに。





 兇星が月台で盈月鏡を砕いた時、はじけ飛んだ光の一部は宮城の一角に向かった。

 真っ先に気づいたのは英俊だった。何事かといぶかる間もなく、尾を引きながら窓から入ってきた光の塊は、彼の体めがけて飛び込んできた。

 ぶつかる――と、思わず身構えたが、よける暇もない。だが、驚いたことに衝突による痛みは感じなかった。大小併せて四つの光玉は、彼の皮膚をすり抜け、体の中に入り込む。そして――

「――!?」

 全身の肌があわ立つような衝撃を受けた。頭からつま先まで、波のように痺れが伝わってゆく。思わずよろめき、英俊は片膝をついてしまった。かろうじて、うめき声だけはこらえつつ、彼は同じように床に膝をつく怜悧を視界の端にとらえた。

 いったい、何が起きたというのだろう。必死で頭をめぐらせようとしたが、やけに体が重く感じられて思考もままならない。これまで凄まじいほどの敏捷さを備えていたはずの彼が、今や腕を上げることさえ気だるかった。

 少しずつ痺れが引き、かすむ目をこするうちに、彼は別の光が宙に浮いているのを見つけた。

 淡い光は全部で六つ。自分と怜悧に向かって飛び込んできたような勢いはない。何か迷ってでもいるかのように、しばらく白い光の玉はぐるぐると空中を回り――そして二手に分かれると、それぞれ悠遠と閃火の口に、すうっと吸い込まれていった。

 その様子を英俊と怜悧は黙って見つめていた。二人とも痺れはすでに去っていたが、立て続けに起こる出来事の前に、声を出すことさえできなかったのだ。

 一方、光を吸い込んだ悠遠と閃火の変化は、ゆっくりと表れた。まず先に訪れたのは、怜悧の腕の中で横たわる閃火のほうだった。まだどこか幼さの残る少年の顔に、だんだんと赤みが差してくる。そして彼は、ゆっくりと二つの瞼を持ち上げた。

「怜……悧……?」

 ぼんやりとした瞳で見上げ、閃火は不思議そうな顔でつぶやいた。
 その表情を見やると、怜悧は今にも泣き出しそうな顔をして――そして思いっきり、ばしんと頬を平手打ちした。

「――あなたは、馬鹿ですわ!」

 起き抜けにいきなりぶたれ、閃火は呆然としていた。いつもなら抗議の声を上げているところだったが、目の前の怜悧があまりにも真剣な眼差しを向けてくるので、何も言い返せなかったのだ。

 閃火を殴った怜悧の手は痺れていた。叫んだ声も、驚くほど震えていた。

「あなたは――……」

 それきり、怜悧は言葉に詰まってしまった。しばし無言のまま向き合う二人の間に、乾いた声が割って入った。

「……どうでもいいけど、剣ぐらい抜いてやれよ」

 そうつぶやいたのは、それまで傍観を決め込んでいた英俊だった。本来なら、真剣な若者たちの間に水を差すような真似はしたくないのだが、とても口を出さずにはいられなかった。

 何しろ再び目を覚ました閃火の胸には、剣が刺さったままだったのだ。さすがに出血は止まり、痛みも感じていないようだが、胸から刃を生やして見つめ合うというのは、かなり異様な光景である。

 英俊に指摘されてようやく気づいたのか、閃火は自分の胸を見下ろして初めて驚愕した。

「わっ、何だよこれ! 串刺しじゃねえか!」

 驚きのあまり、閃火は自分自身に対して妙な形容をした。だが、冗談を言っている場合ではなく、早いうちに胸の剣を抜いておくべきだろう。そう思ったのか、怜悧はむんずと剣の柄を握り、一気に引き抜こうとする。だが、その様子に閃火はぎょっとした。

「怜悧!? ま、待てって! おれ、自分で抜くから! ぎゃー、人殺し!」

 一度怜悧のために命を捨てたくせに、この期に及んでわめき散らす閃火を、彼女は冷たく叱咤した。

「人聞きの悪いことを言わないでください!」

 叫んで、怜悧は柄を握る手に力をこめる。
 すぐそばで二人の男女が騒ぎ立てているうちに、ようやく遅れてもう一人が目覚めようとしていた。

「……ん……英…俊……?」

 英俊の腕の中で、悠遠はゆっくりと目を開けた。

 死の淵から呼び起こされたばかりの視界はまだ薄暗く、自分をのぞき込む人影もぼんやりとしか見えない。だが、抱き寄せるその力強い腕は、確かに英俊のものだと彼女は感じていた。朧(おぼろ)だった影が次第に鮮明に、大きくなってくる。そして――

「――!?」

 近づいてきた影が、不意に悠遠の体を覆った。まだろくに動けない状態では、とてもよけるどころの話ではない。

 息が続かなくなる寸前で、ようやく彼女は呼吸を取り戻した。名残惜しそうに離れた影に、彼女は震えながら怒気を発した。

「お、おまえ……っ」

 目覚めた彼女に落とされた口づけは息苦しいほど長く、体の芯まで火照るほど熱かった。

 ――懲りもせず、いったい何のつもりだ。

 そう怒鳴りつけようとした悠遠は、だがそれ以上続けることはできなかった。自分に向けられた英俊の表情が、今までに一度も見たことのないものだったのだ。

 言葉を飲み込んでしまった悠遠に、英俊はすかさずもう一度軽く口づけて、そっとささやいた。

「――おかえり」

 思わず紅潮してしまった顔を隠すように、深い闇が辺りを包んだ。唐突に訪れた月蝕のさなか、彼女は闇よりも深い腕の中へ身を預けた。





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送