キャンバスの女神



  西山無限、享年五十八歳。
 美大に在学中の頃より高い技術を持っていたが、二十代の頃はほぼ無名だった。しかし、三十代半ばで描き上げた連作『花鳥風月』が海外で高い評価を得たことで、国内でも一気に名を知られるようになった。いわゆる逆輸入の画家である。
 風光明媚な自然を題材とした作品を得意とし、画集に収録されているのもほとんどが風景画である。正統派の日本画家として名高いが、ごく若い頃には西洋画――それも油彩画を描いていたことは、あまり知られていない。

 そんな巨匠が最後に遺した作品は、美術界に波紋を呼んだ。
 それは、彼が西山無限の名で描いた唯一の油彩画であり、人物画だった。
 タイトルは『女神』――画布を大胆に彩る、裸婦画だったのだ。
 しかし、風景ばかりを描く日本画家が、油彩でヌードを描いたからという理由だけで騒がれたわけではない。問題視されたのには、大きく二つの理由があった。

 一つは、古の名画の模倣であるという指摘。

 無限の描いた『女神』は、窓辺を背景にし、寝台の上で裸婦が横たわるという古典的な構図だった。だが、絵の中の女が鑑賞者に向ける眼差しも、ふくよかな体つきも、右手に持つ薔薇の花も、ある一枚の名画を彷彿させた。
 『ウルビーノのヴィーナス』――十六世紀、ヴェネツィアの画家ティツィアーノの作品である。
 当時の西洋では、人間の女性の裸身を描くことは禁忌とされていた。そのため、人ではなく女神――それも多くは美の女神ヴィーナスを題材とすることで、画家たちは裸婦画を描く口実にしていたのである。だが、それでも女神と言うからには、その作品にはどこか神秘性が込められていた。それがまるで暗黙のルールであるかのように。
 そんな中、ヴィーナスと言いつつも、あまりにも人間らしく生々しい裸婦画を描いたのが、このティツィアーノだった。彼の試みは多くの人々に衝撃を与え、『ウルビーノのヴィーナス』は美術史上、最も重要な作品の一つとなったのである。
 当然、美術界でこの古典名画を知らない者はなく、それだけに西山無限の『女神』には多くの非難も寄せられた。「出来の悪いパロディでしかない」とまで言い放つ評論家もいた。
 だが、そんな狭い世界での評価よりも、この『女神』には大きな問題があった。

 もう一つの問題――それは、無限自身のスキャンダルである。

 無限はそれまで、出家僧もかくやというほど、質素で堅実な生活を営んでいた。独身時代もほとんど浮いた噂もなく、四十三で結婚し、翌年に一子をもうけた後は、国内に何軒かあるアトリエに籠もりきりだった。
 そんな彼の生涯唯一のスキャンダルが、この『女神』――そこに描かれたモデルとの関係である。
 当時、大学生だったヌードモデルの女性を愛人にし、アトリエ近くのマンションに囲っていると、週刊誌に書かれたことで明るみに出た。
 古今東西、芸術家が浮き名を流すことは決して珍しくはないが、無限の場合はその清廉さも人気の要因だった。それが、三十六も離れた女子大生を囲っているとあっては、失望する者も多かったのである。

 だが、そんな騒ぎのさなか、無限は他界してしまった。病を得ているという噂が広まる前のことだったので、世間は大いに驚いた。
 だからこそ、当時『女神』に対する注目は並々ならぬものがあったのだ。評論家たちが誉めなかった作品でも、世の関心の高まりはただちに値の高まりにつながった。
 落札価格、推定三億円。
 しかし、その絵は二度と日の目を見ることはなかった。美術館に飾られることも、画集に載ることさえもなく、やがて人々の記憶から薄れていった。
 そして、もう一人の渦中の人物――モデルの女性もまた、いつしか姿をくらましていた。
 今から五年前、『女神』の消失とともに。



 ※



 目的地は、鈍行列車で一時間ほど離れたところだった。
 電車に揺られている間、陽一は終始無言だった。
 本当は、五年ぶりに再会した彼女と話したいことは山ほどあったが、口にするのはためらわれた。言ってしまえば胸のつかえは取れるかもしれないが、同時に彼女が再び消えてしまうような気がしたのだ。すでに一度、姿をくらました彼女だからこそ。

 言いたいことも言えず、陰気な顔でうつむく少年の様子に気づいているのかどうか、彼女もまた黙ったまま、窓の外の流れゆく景色を眺めていた。
 駅を降り、口を閉ざしたまま歩くこと十分。二人はようやくそこにたどり着いた。
 彼女はバッグからおもむろに鍵を取り出し、ドアを開ける。そうして中に足を踏み入れるなり、陽一は呆然とした。

「ここは……父さんのアトリエ?」
 その問いに、彼女はほのかに笑んだ。
「陽一君は、見覚えがあるでしょう?」

 見覚えどころの話じゃない、と陽一は思った。その室内の光景は、彼の記憶にはっきりと刻み込まれているのだから。
 とはいえ、陽一は無限の存命中、アトリエに足を踏み入れたことは一度もない。無限は潔癖性で、制作中に他人が室内に入ることをひどく嫌っていたのだ。だから、この部屋にも陽一が入るのは初めてである。というより、存在自体を今日まで知らなかった。にも関わらず記憶に残っているのは――

「……そっくり残ってるんですね。『女神』の時のまま」

 陽一は、ほうと小さく息をついた。
 淡い光の差し込む窓辺。
 隣室と吹き抜けになった、広い空間。
 その中央に堂々と置かれた、豪華な寝台。
 それらはすべて、西山無限の遺作『女神』の舞台そのものだった。だからこそ、陽一は瞬時にここが絵の制作場所であるとわかったのだ。

「前から殺風景な部屋だったのよ。あまり家具を置いたりするのが好きじゃなくって。だから、変わりようがないとも言えるわね」
 彼女の何気ない言葉は、陽一を大いに驚かせた。
「え……ここって、もしかして七美さんの部屋!?」

 絵の舞台であるから、当然ここはアトリエだろうと陽一は思っていた。
それだけでなく、この部屋は家具らしい物と言えば寝台くらいしか見当たらないのだ。とても人の住む場所とは思えない。
 さらに念の入ったことに、部屋の隅にはイーゼルまで立てかけてある。誤解するのも無理はないだろう。
「もともとは西山先生が用意してくれた部屋だから、私の物と言い切れるかどうかはわからないけどね」
 その台詞は、改めて父と彼女との関係を思い出させた。陽一は思わず言葉を詰まらせる。

 ――画家とモデルの不適切な関係――

 週刊誌のゴシック体の見出しが、記憶の中で踊る。
 あの時も、蒸し暑い夏だった。当時中学一年生だった彼が帰宅すると、まだ日が高いにも関わらず、家中の窓もカーテンも閉めきられていて、いっそう強まった蒸し暑さに目眩を覚えた。
 そんな彼が真っ先に目にしたのは、薄暗い部屋で、糸の切れた操り人形のように力なく座り込む母の姿よりも、テーブルの上に開いたまま投げ出された、その週刊誌だった。
 恐る恐るのぞき込んだその誌面に、彼は信じられない文字を見いだした。

  ――まさか。

 その一語が、彼の思考を停止させた。言葉を探して母のほうに目を向けた瞬間、その文字はばらばらに砕け散った。
 それは、雑誌の中身以上に信じられない光景だった。だから彼は、何が起こったのか理解するのに時間を要した。
 ――怒り狂った母が雑誌ごと引き裂いたのだと。
 まるで、西山家の運命そのものを暗示しているかのように。

「あれは、私が大学四年になる直前のことだったわ。一人きりの家族だった父が死んで、私は絵に描いたような天涯孤独になったの。……ちょうど、私の父も西山先生と同じ歳だったわ」
 不意に話題を変えた七美に、彼は意識を現実に引き戻された。表情を引き締め、彼女に向き直る。
「就職活動もこれからっていう時に、学費さえも払えるかどうかの瀬戸際になって……そんな時、美術モデルのバイトを始めたの。短時間でも高収入になるからね。もう恥なんて言っていられる場合じゃなかったのよ」
 彼女は自嘲気味に笑った。作り笑いのせいか、白い頬に影が差す。それがひどく不似合いに見えた。
「そこで知り合ったのが西山先生。私の事情を知って、バイト代もずいぶんはずんでもらったわ。そして仕事が終わった時に、この部屋をもらったのよ」

 あの父が、いくら相手が若い女性だからといって、気前よくポンとマンションを買い与えるとは、とても信じられなかった。
 絵の具を捨てたと母がひどくなじられていたことを、陽一はふと思い出す。母は美術に疎い人で、鉱物を削って絵の具にすることなどまったく知らなかった。だから、床に転がった石の欠片が、よもや画材だとは思いも寄らなかったのだろう。
 しかし、その頃すでに無限は有名な画家になっていたのだ。いくら貴重なアズライトでも、ああも怒りをぶつけなくても良いだろうに、と陽一は思った。
 そしてそれ以来、無限はアトリエに他人をいっさい入れなくなった。だからこそ、彼は人物画を描くことがなかったのだ。人との距離感をつかむことができない人間だったから。そのはずだったのに――

「さ、私の思い出話はそろそろおしまい。陽一君の講習はこれからよ」

 まるで陽一の感傷までも断ち切るように、彼女は明るい声でそう告げた。
 しかし、その台詞に陽一は困惑した。
「あ、あの……七美さんって美術を勉強してたんですか?」
 本当は、ここに来るまでずっと疑問に思っていたのだ。講習と言うからには、彼女もそれだけのスキルがあるのだろうかと。
 しかし、彼女はあっさりと答えた。

「いいえ」
「はい!?」
 思わず陽一は突拍子もない声を上げてしまった。しかし、彼女は陽一の驚きなど意に介していないようだった。
「私はただのモデルよ。美術は昔から好きだったし、自分でもちょっと描いてたことはあるけど、学校で本格的に教わったことはないわ」
「そ、それじゃあ講習なんて――」
「だから言ったでしょう? 講習の続き、よ。さっきまであなたは何を描いてたの?」
 そう言うと、七美は実に自然な動作で、白いワンピースのファスナーを自ら引き下ろし始めた。
 その動きの意味することに気づき、陽一は慌てて止めに入った。

「わわっ、ちょ、ちょっと待ってください! 講習ってそんな、こんなとこで、その!」
 陽一が焦って意味不明な言葉を連発している間にも、彼女は半ばワンピースを脱ぎかけていた。ヌードモデルの仕事に着てきただけあって、脱ぎ着が楽な服なのだろう。
 ……などと言っている場合ではない。

 すでに彼女は白くなめらかな背中を、大きく開いたファスナー口からすっかり露わにしてしまっている。
「陽一君は、美大を目指しているんでしょう? それなら、間違いなく裸婦画の授業があるはずよ。その時にも、落ち着いて描けなかったら困るでしょう?」
 激しく狼狽する陽一とは対照的に、彼女の口調は淡々としている。その声音は、どこかひやりとしたものを感じさせて、陽一は心臓を直接つかまれたような錯覚に陥った。

「予行演習だと思っておけばいいわ。今日の講習に来てた子たちも、みんな慣れてる感じがしたでしょう?」
「あの、でも……」
「私のことは気にしなくていいの。ただ、あなたの力になりたいだけよ」
 そこまできっぱりと言い切られては、もはや陽一には返す言葉がない。
「――……お、お願いします……」
 消え入るような声で、そうつぶやくのがやっとだった。

 ――なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 ワンピースがするりと床に落ちる音を聞きながら、陽一は汗ばむ拳を、爪が食い込むほど強く握りしめた。




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送