キャンバスの女神



 白いキャンバスを見つめながら、陽一は本日何度目かの溜息を吐き出した。
 講習の続きと言いつつ、現在イーゼルにはクロッキー帳ではなく、油彩用のキャンバスが立てかけられている。
 陽一としてはデッサンだけのつもりだったのだが、七美が「どうせなら油絵にしたら」と勧めてくるので、ついうなずいてしまったのだ。
 というより、実際のところ陽一はデッサンよりも油彩の方が得意だということもあった。モノクロだけで質感を表現するのは苦手なのだ。

 しかしデッサンは美大受験の必須実技。だからこそ腕を上げるために講習に参加したのだが、結果は散々。たとえモデルが別人でも、決して良い出来ではなかっただろう。基礎を学ばなければならないことはわかっていても、やはり得手不得手というものがある。そのため、ここで苦手なデッサンを披露するより、油絵を見せたほうがまだマシかもしれないと彼は思ったのだ。

 幸いにも、この部屋にはキャンバスと道具一式が残されていた。
 キャンバスのサイズはF10号。A3のスケッチブックより二回りほど大きい程度である。運良くここには「ハリキャン」と呼ばれる、木枠に画布を張った状態で市販されているキャンバスが何枚か置かれていた。市販のものはすでに下塗り処理も施されているので、そのぶん時間を短縮できる。本来なら下塗りをすると、乾くまでに一両日はかかってしまうのだ。

 すべての準備を済ませ、陽一はキャンバスの前に座ると、木炭を手に取った。
 彼が彼女に指示したポーズは、「横たわる裸婦」――西山無限の遺作『女神』とまったく同じ姿だった。
 陽一にとって、彼女を描くのに他のポーズは思い浮かばなかったのだ。ただ違うのは、その大きさのみ。彼の目の前にあるキャンバスは、無限の50号に比べ、面積にしておよそ四分の一ほどしかない。

「――これで、いいかしら?」
 陽一の注文通りのポーズをとった七美は、よく通る涼やかな声でそう尋ねた。その声音で、陽一はハッと我に返る。
 ――この部屋には、彼女と二人だけなのだと。

 本来、画家のアトリエとはそういうものだ。一つの空間に、描く者と描かれる者しか存在しない。当然すぎる事実だが、今の陽一は冷静に受け止めることができなかった。
 何しろ、本日初めて生身の裸婦を見たばかりの純情少年である。その次が、裸婦と密室に二人きりではあまりに刺激が強すぎた。
「……あ、は、はい」
 消え入るような声で、そう答えるのが精一杯だった。

(こんなことで、絵なんて描けるのかな……)

 半ば自己嫌悪に陥りながら、陽一は木炭を強く握りしめた。
 部屋を閉め切っているので軽くエアコンを効かせてあるはずなのに、彼の右手はにじみ出る汗でべっとりと濡れていた。
 これでは、さっきの講習と何も変わっていない。せっかく彼女がこの時間を作ってくれたというのに、ただ緊張と動揺を繰り返していては、それも無駄になってしまう。

 気を引き締めるようにもう一度深く息をつき、陽一はキャンバスからモデルに視線を移した。
 寝台の上で一糸まとわぬ体を横たえた七美は、陽一とは逆にリラックスした様子で彼を見つめていた。
 カーテン越しに漏れくる夏の日差しが、彼女の柔肌を照らし出す。その白くなめらかな肌は、まるで作り物のように見えた。

 薄く笑みを浮かべた紅い唇も。
 しどけなく垂らされた長い髪も。
 触れればはじけそうな張りのある乳房も。

 それらすべてが、キャンバスに描かれた『女神』そのものだった。あれから五年が過ぎていても、彼女だけが時の流れから切り離されているかのように――



 ザ、ザ、と、かすれた音が室内に小さく響く。
 女神の姿を写し取る木炭の先が、キャンバスの上を軽快に走る。
 だが、そんな音は陽一の耳には聞こえていなかった。彼自身は動悸が激しくなっていて、耳の真後ろで脈打つドクドクという音に掻き消されてしまっていたのだ。

 いくら絵だけに集中しようと思っても、すぐに頭を切り換えられるほど、彼は器用ではなかった。
 それでも、そんな未熟な姿を露呈するのはさすがに恥ずかしいので、彼は黙ってひたすら作業を進めることにしたのだ。
 ハリキャンのお蔭で下塗りは省略できたので、最初はまず木炭の下書きである。この段階を飛ばす人もいるが、まだデッサン力の乏しい彼は、ここをおろそかにすると絵のバランスが崩れてしまうのだ。

 中央に据えるのは、少し乱れたベッドと、その上に横たわる裸婦。彼女の向きも視線も、指先のポーズに至るまですべて、西山無限の『女神』――ひいては巨匠ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を踏襲したものである。
 当然、彼女はそのことに気づいているだろう。陽一が何にこだわっているのかも。
 すべて見透かされていてもなお、彼はそうせざるを得なかった。父の模倣だと思われても、それでも父が彼女を描いたように、この場所で同じ絵を描きたかったのだ。



 木炭のかすれた音が、次第に止む。
 陽一が全体の構図を取り終えたのを見計らうように、彼女はにわかに口を開いた。

「陽一君は将来、画家を目指しているの?」

 塗りの段階に移ろうと、絵の具をパレットに出そうとしたところで、陽一は思わずチューブを強く押しすぎてしまった。残り少なくなっていたチタニウムホワイトが、ぶにゅりと鈍い音を立てて飛び出した。
 一つ咳払いして、チューブのフタをきつく閉めながら陽一は答えた。

「いえ……そんなつもりはありません。僕は父さんとは違うから」

 その声音には、どこか苦いものがこもっていた。
 自分は、父とは違う。
 そのことは、すでに幼い頃から知っていた。
 周囲には美術品があふれ、道具もお手本も充分すぎるほどそろっていても、だめなのだ。確かに努力すれば、ある程度は上達するだろう。しかし、伸びるのは技術であって、才能それ自体ではない。その才能が、自分には欠けているのだ。

 なまじ多くの名品を眺めて大きくなったせいで、自分の実力がどの程度かを計る目だけは肥えてしまった。だからこそ、画家になりたいなどとは口が裂けても言えなかった。

「画家にだっていろんなタイプがいるでしょう? 何も、西山先生と同じ画家を目指す必要はないのよ」
「……僕には向いてませんよ」

 父は偉大な画家だった。そのことは間違いないだろう。遺作には賛否両論が沸き起こったが、それまでの「正当派」な作品には高い評価が与えられている。
 身内として、それは喜ぶべきことなのだろう。しかし、同じ道を進もうとする時、父の事績は高い壁となって立ちはだかる。それをあえて越えようと思うほど、彼は自信も実力も持ち合わせていなかった。
 それでも絵筆を持ち続けているのは、ただ一つの目的のために過ぎない。

「それじゃあ、美大でやりたいことは決まってるの?」
「――はい」

 その声には、ためらいや動揺は微塵も含まれていなかった。それほど、彼の意志が強いことの表れでもあった。
 彼の思いに気づいたのか、彼女はそれ以上、何も言わなかった。
 口を閉ざしたモデルに合わせるように、陽一もまた黙り込む。心を無にしようと、ただひたすら筆を動かすことに意識を集中させた。
 工程は下書きから着色に移っている。しかし、初めから個々の色を塗るのではなく、まずは茶系で全体に陰影をつけていくのである。この段階では早めに乾かすため、揮発性のテレピンを溶き油に使う。そうして黙々と作業を続け、ようやくキャンバス全体に色味がついたところで、ちょうど三時間が経過した。

「――どうも、ありがとうございました」

 陽一は、深々と頭を下げた。
 時計はすでに七時を回っている。モデルの休憩時間も考えれば、ここで帰るのがちょうど良いと言えるだろう。

「じゃあ、続きはまた明日ね」

 七美はそう言って微笑みかけた。
 仕事が終わったことを示すように、彼女はこの時、すでにガウンを羽織っている。だが、陽一の視線はつい、大きく開いた胸元に吸い寄せられてしまった。
 ――つい先程まで、その下の裸身をくまなく見つめていたはずなのに。

 急にガウンの下の素肌を思い出して、彼は頬が火照るのを感じた。
 そんな少年の様子に気づいたのか、彼女は不意に白い手をのばし、彼の頬にそっと当てた。

「――明日、待ってるからね」

 やわらかな眼差しを向けて、彼女はそうささやいた。しかし、陽一が最も驚いたのは、彼女の手の冷たさだった。
 そういえば、ろくに休憩も入れないまま、三時間ずっと彼女はポーズをとり続けていたのだ。しかも、エアコンをつけたまま。
 陽一自身は、むしろずっと全身が燃えるように熱かったのだが、彼女はその逆だったろう。

(もしかして、僕のために……?)

 そう思うと、嬉しいよりも情けない。彼女のことよりも自分の動揺を少しでも抑えることに精一杯で、周りが何も見えていなかった。
 申し訳なさと恥ずかしさで、彼はもう一度深く頭を下げると、踵を返して部屋を後にした。
 今にも駆け出しそうな背を、ガウンの女神とセピア色に塗られた女神が見送っていた。




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