キャンバスの女神



 玄関のドアを開けると、むっと熱く立ちこめた空気が彼を包んだ。
 戸締まりして外出する以上、帰宅時のこの不快な出迎えは仕方のないことではある。何しろ、この家には他に住人がいないのだから。
 玄関の脇にバッグを放り出すと、陽一はそのまま奥の部屋に向かった。
 そこは、主を失ってから五年間、滅多に使われたことのない一室――かつては、アトリエと呼ばれた部屋だった。

 西山無限は他にも何軒かのアトリエを持っていたが、自邸に造らせたこの部屋が最も中心の制作場所となっていた。無限の存命中は、家族さえも足を踏み入れさせなかったアトリエに、陽一は今、平然と入り込んでいる。
 目指すは、一番奥のクローゼット。それを開いて、彼は一枚のキャンバスを取り出した。

 ほんの少しでも傷がつかないよう丁寧に、両手で抱えて彼はテーブルに置く。そして、そのキャンバスを眺めやると、大きく息をついた。
 それは、五年前に消息がわからなくなっていたはずの、『女神』。左下の「無限」の落款が、この絵が紛れもない真作であることを示している。
 そう、確かにこの『女神』は、一度は三億の値で落札されたのだ。しかし、世に出回ることは決してなかった。なぜなら――

 陽一は、画布の中央に横たわる裸婦に、ゆっくりと手を差しのべた。直には触れず、ぎりぎりまで近づけた指先を宙に這わせる。まるで生身の女性に対するように、その手は艶やかな髪を撫で、柔らかな肩を撫で、そして――豊かな胸元まで来たところで、彼はぴたりと手を止めた。
 五年の時を経ても、彼は必ずそこで止まってしまう。それは、裸婦の胸元に、赤くただれたような醜い染みが広がっているからだ。

 オークションで落札された後、落札者に納入するまでの間に、「事件」は起こった。

 一時的に保管場所となっていたアトリエに忍び込み、絵の中央に赤いペンキをぶちまけた者がいたのである。
 陽一は、その現場を見ていなかった。だが、絵を一目見て犯人はすぐにわかった。実際、誰にも犯行は不可能だったのだ。
 ――西山無限の妻を除いては。

「こんな絵に、三億円の価値はない」

 その一言を残して、陽一の母は家を出た。
 作者である無限がすでに故人となっていたため、描き直すことはとうてい不可能。結局、売買契約は白紙に戻り、汚された絵と一人息子がこの家に取り残されたのだ。
 母は、そこまで彼女を憎んでいたのだろうか。陽一はふとそんなことを思う。
 確かに、出家僧もかくやというほど禁欲的な生活を送っていた夫が、よりによって親子ほど歳の離れた愛人を持ったのだから、激怒するのも無理はない。古今東西、女性関係にだらしのない画家はいくらでもいた、などということは、母にとっては何の慰めにもならないだろう。

 しかし、当の夫はすでに鬼籍に入っている。その遺作に対し、憎悪の一念をもってペンキをぶちまけるなど、尋常ではない。たとえ本人自身は芸術に疎くても、画家の妻として長年連れ添ってきた者の行為とはとても思えなかった。
 芸術に対する畏敬の念さえ忘れさせるほど、この絵のモデルを憎んでいたのだろうか。陽一は再び、キャンバスに目を落とす。
 幸いにも、ペンキは顔の部分を覆ってはいなかった。キャンバスの中の女神は、鑑賞者に対してどこか挑発的な笑みを浮かべている。それは、まさにヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの作品のように。

 だが、その胸元は大きな赤い染みが覆っている。乳房全体から右肩、手に持つ薔薇の花までがすべて、ペンキをかぶってしまっているのだ。まるで、胸を刺されて鮮血が吹き出したかのように。
 あるいは、そのつもりだったのだろうか。陽一は時折、そんなことを考える。母は、憎い女の胸に刃物を突き立てる代わりに、この絵を紅く染めたのだろうかと。

「考えたって無駄……か」

 小さくつぶやいて、陽一はキャンバスから一歩離れた。
 この五年間、彼はずっと考え続けていた。
 父の、母の、七美の心を。
 だが、いくら考えても答えの欠片すら見つからなかった。

 母は、捨て台詞を残して家出した後、二度と陽一の前に姿を現すことはなかった。母の存在を感じられるのは、月に一度振り込まれる預金通帳の残高を見る時だけである。当時中学生だった彼の元には、母の手配した家政婦がやってきて、生活のほとんどを見てくれた。だが、母親本人は決してこの家に足を踏み入れようとしなかった。
 高校に入ると、今度は陽一の方から家政婦を断り、自活を始めた。だから今、この広い家には彼一人しか住んでいないのだ。それでも生活費は定期的に送られてくるし、父の遺産は腐るほどある。孤独さえ我慢すれば、生きるのに困ることはなかった。

 そう、この静寂に慣れさえすれば。

 五年前のあの日、彼は確かに音を聞いた。醜く汚された絵を前にした時、西山家という家が脆くも崩れ去る音を。それ以来、この邸内は音という音を失ってしまったのだ。

 陽一はさらに一歩下がり、背をアトリエの冷たい壁に預けた。夏場でもこの室内は、作品が傷まないよう温湿度が一定に保たれている。本来は、制作中の作品のためだったのだが、主亡き今、この環境は一枚の絵のためだけに作られているのだ。

 ――『女神』。

 その絵を見つめるたびに、陽一は心臓が跳ねるのを感じる。
 まったく、不思議なものだ。そこに描かれた女のために一家が離散してしまったというのに、陽一はなぜか彼女に対して少しも怒りが沸いてこなかった。それどころか、絵を眺めているだけで体の内が火照ってくるのを止めることができないのだから。母が知れば、今度こそ絵を引き裂いてしまうだろう。

 背中にひんやりとした感触を覚えながら、陽一は目を伏せて記憶の糸をたぐり寄せる。


 あの時も、ひどく蒸し暑い夏だった。
 試験期間中で早く帰宅してきた陽一は、玄関から台所に直行し、棒アイスを口にくわえたまま廊下をだらしなく歩いていた。普段なら手も洗わずにそんなことをすれば母親が叱りつけるのだが、その日は実家に戻っていて夜にならなければ帰ってこないことを彼は知っていたのだ。

 そんなわけで完全にゆるみきった姿で邸内を闊歩していたところ、彼は思わぬ人影と遭遇した。
 普段、他人を決して入れないはずのアトリエから出てきた、一人の女性。見るからにみずみずしい肢体は、体のラインがはっきりわかる水色のワンピースで覆われていた。
 その時には、彼女の素性はまったくわからなかった。あまりにも驚きすぎていて、尋ねることさえできなかったのだ。
 呆然と立ち尽くす少年にかすかに笑いかけると、彼女はアトリエの方を振り返った。

「――では先生、ありがとうございました」

 そう言って頭を下げると、彼女は悠然と立ち去った。アトリエの中にいるはずの、父の声は何も聞こえなかった。
 陽一は、ただ黙ってその背を見送ることしかできなかった。口にくわえたアイスが溶け出し、廊下の床にぽたぽたと甘い滴を垂らしていることにも気づかぬまま。その時の陽一の目には、颯爽と歩くその後ろ姿よりも、彼に向けられた一瞬の微笑だけが焼き付いていたのだ。

 ――まるで、絵の中から出てきた人のようだ。

 小学校を出て半年も経たない当時の彼は、そんなつたない言葉だけが頭の中を巡っていた。
 まだまだ幼さの残る歳でも、彼はすでに多くの美術品を観ていたが、生身の「大人の女性」を目にする機会はほとんどなかった。だから、白い肌を露わにし、柔らかな曲線を描く肢体を初めて見た時、強い衝撃が走った。――それだけ、彼女の姿は完璧だったのだ。
 しかし、幼かったからこそ、彼女の存在の意味にまで彼は気づくことができなかった。

 なぜ、他人を入れないはずのアトリエに、彼女がいたのか。
 なぜ、母が遅くに帰ってくる日に、彼女を招き入れたのか。
 なぜ、自分がいつもは学校に行っている時間帯だったのか。

 もう少し年を重ねていれば、あるいはもう少しさかしければ。きっと、家族の崩壊を迎える前に気づけていただろう。うまくすれば、何とか回避できたのかもしれない。だが、当時の彼はまだ子供で、途方もなく無力だったのだ。


 大きく息をつき、陽一はもたれていた壁から背を離す。そうして、再び卓上のキャンバスに近づいた。
 赤く、汚れた『女神』。
 この絵を見るたびに、彼は自分の胸に刃を突き立てられたような痛みを覚える。

 それは、絵の中の彼女が哀れだと思うからなのか、それともそうせざるを得なかった母の狂乱が切ないからなのかは、わからない。だが、このまま捨て置くことはできないと、その決意だけは揺るぎなかった。

 ――いつか、必ずこの絵を修復する。

 それが、陽一の強い願いだった。その目標のためだけに、今も絵の勉強をしていると言っても過言ではない。絵で食べていくつもりがなくても美大を目指しているのは、すべてこの『女神』のためだった。

(――美大でやりたいことは決まってるの?)

 そう尋ねた、七美の柔らかな声音が不意に脳裏に甦る。と同時に、彼女の素肌を思い出して陽一は急に顔を赤らめた。

「まさか、本当に目にするなんて……」

 本当は、心のどこかで願っていたのだ。あの日出会った彼女の肌を、くまなく眺めてみたいと。それが叶わないと知っていたからこそ、彼は『女神』にこだわり続けていたのだ。赤いペンキに覆われたその下を、自分の目で確かめてみたかったから。それなのに、ひょんなことから実物を拝めるだなんて、想像すらしていなかった。
 ベッドの上でゆったりと横たわる、彼女の裸身が頭から離れない。意識から振り払おうと頭を振っても、いっそう記憶は鮮やかになる。

(――明日、待ってるからね)

 そう、そうだった。明日も続きが待っているのだ。今日はかえって突然すぎて、事態に流されるままだったけれど、明日はまともに彼女と向き合えるのだろうか。
 思わず無意識に胸を押さえた陽一は、手の下で心臓が早鐘を打っていることに気づいた。
 どうやら今夜は眠れそうになかった。




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