キャンバスの女神



 翌日の空は目に眩しいほど澄み渡り、それがかえって陽一を落ち着かなくさせた。自分の心の奥にひそむものまですべて、白日のもとにさらされるような気がして、いっそう汗が噴き出した。
 だから、ようやく七美の部屋にたどり着いた時、彼はほっとしたのだ。遮光カーテンで閉ざされた室内のほうが、晴れ渡った青空よりも彼にとっては解放感を与えたようだった。

「暑い中、お疲れ様。一杯どうぞ」

 そう言って出迎えた七美は、冷たい麦茶を陽一に差し出した。
 頬をつたう汗を手の甲で無造作に拭うと、彼はほとんど一気に飲み干した。冷えたグラスをテーブルに戻し、大きく息をつく。そして、今まで訊けずにいたことを、この時初めて口にした。

「……七美さんは、父さんのことをどう思ってたんですか」

 それはあまりに唐突な質問だった。家を訪ねてきて真っ先に訊くようなことではない。だが五年間、胸の奥にくすぶり続けていた思いを、このまま放っておくことはできなかったのだ。もしかしたら彼女のいれてくれた麦茶が、彼の澱(おり)をきれいに洗い流してくれたのかもしれない。
 対する七美は、多少驚いてはいても困った様子はなかった。かすかな笑みを唇にのせると、甘い声音で語りかける。

「私の恩人で、偉大な画家。とても敬愛しているわ――今でも」

 その瞳に、偽りはなかった。少なくとも陽一はそう確信した。

(だったら、それでいい)

 きっとこれ以上、彼女の口から聞き出すことはできないだろう。どんなに柔らかな笑みを浮かべても、どれだけ肌をさらしても、彼女は自分の懐まで踏み込ませないような、強い瞳を持っていた。そう、キャンバスを眺める者を悠然と見下ろす、あの『女神』のように。
 陽一は大きく息を吐き出すと、絵の準備を始めた。



 昨日塗ったばかりの絵の具は、当然まだ乾いていなかった。全体にセピアで色づけたキャンバスをイーゼルに掲げると、彼は早速作業に入った。
 脇目もふらず、没頭する。
 ずっと絵の修復を目標に掲げていたが、自分自身で『女神』を描くことができるなど、思ってもみなかった。技倆は父に遠く及ばないことは承知していても、とても興奮を抑えきれるものではない。

 『女神』の元となった『ウルビーノのヴィーナス』のような、クラシカルな手法ではない。そんなに丹念に塗り込めていると、相当な時間がかかってしまう。時間をかければかけるほど、彼女に会う口実を作ることができるはずだが、陽一はあえてそれをしないつもりでいた。今日で、絵を完成させよう。そうして、過去に決別するのだ。幼い少年時代から引きずってきた、淡い想いと苦い痛みを、ここですべて終わりにしようと。
 だから自然と、一筆一筆に力がこもる。穏やかな女性の美しさを画布に写し取ろうとしているはずなのに、なぜか塗るごとに力強さが増してゆく。

「――肩に力が入ってるわ、陽一君」

 不意に、ベッドに横たわる七美が口を開いた。

「筆先だけに視線を集中させちゃだめ。全体を見て、バランスを常に忘れないようにね」

 モデルにたしなめられて、陽一は思わず赤面した。キャンバスを挟んだ向こう側に横たわっている彼女は、当然彼の筆先まで見えないはずだ。それでもしっかりばれているということは、よほど力んでいたのだろう。

「……何か七美さん、先生みたい」

 うなだれてそうつぶやくと、彼女は苦笑を浮かべた。

「偉そうなこと言ってごめんね」
「そんなことないです……父さんは、僕に絵のことなんて何も教えてくれなかったから」

 というより、無限は息子に対してほとんど興味を抱いていないようだった。家で絵を描いている姿を見かけても、父は息子に何一つ声をかけることはなかった。特に反対もしなかったが、進んで教える気もなかったのだろう。だから、学校以外で絵の指導を受けるのは初めてだったのだ。

「西山先生は、誰かに何かを教えることはしないはずよ。あの人から何かを得たいと思ったら、言葉じゃなく、作品の中から自分で見つけ出すしかないと思うわ」

 七美の言葉に、陽一は思わず手を止め、彼女をまじまじと見つめた。

「陽一君、どうかした?」
「あ、いえ、別に」

 慌てて首を振り、陽一は再びキャンバスに向き直る。しかし、彼の動揺はまだ収まりきっていなかった。
 何かが、彼の心の奥で引っかかる。
 彼女は、無限のことを「恩人で偉大な画家」と言う。と同時に、世間で言う「愛人」関係にあったのもほぼ間違いないだろう。
 だが、果たして本当にそれだけだったのだろうか? そんな疑問が、ふと彼の中に芽生えた。

 まだ未熟で経験の浅い少年に、それが何なのかを推察することはできない。しかし、週刊誌が面白がって書き立てるような関係とは違うのではないか、という疑問がふつふつとわき始めていた。
 だからこそ、母は怒り狂ったのだろうか。
 両者の関係が、言葉にしがたいものであると気づいていたからこそ、絵を汚すほど許せなかったのだろうか。
 筆をひたすら動かしながら、彼の頭にはそんなことばかりが巡っていた。



 日が落ちるのとほぼ同時に、汗ばんだ手から筆が落ちた。
 大きく息を吐き出し、陽一はがくりとうなだれた。
 キャンバスの絵は完成していた。
 横たわる裸婦のみずみずしい肌は、塗り立ての絵の具によって淡い光を放っている。
 しかし描き上げた本人は、その絵を満足に眺める余裕さえなかった。

「――お疲れ様」

 ねぎらう声が、不意に耳元で響いた。うっすら目を開け、かすかに視線を向けると、声の主が彼のすぐそばにいた。

「七美さん――……」

 その呼び声は、驚くほどかすれていた。ろくに休憩も取らないまま、ひたすら描き続けていたせいで、喉が貼りつくほど渇ききっていた。
 言葉を出すこともできない少年に、彼女は白い手をそっと差しのべた。

「あ……」

 頬に触れた指先は、ぞくりとするほど冷たかった。無理もない。ずっと冷房の効いた部屋で裸婦のモデルをしていたのだから――
 そう気づいた時、彼は頬に感じる冷たさとは逆に、全身がかっと熱くなった。
 吐息さえも感じられるほど間近に立つ彼女は、一糸まとわぬ姿のままだったのだ。昨日も同じように頬を触れられた時は、ガウンを羽織っていたのに。
 ずっと裸身を見つめて絵を描いていたせいで感覚が麻痺しかけていたが、我に返ると一気に動悸が激しくなった。

「な……七美さんの手、冷たいですね……」

 口をついて出てきたのは、そんな無意味な言葉だった。何を言っているのか、自分でもわからない。あまりにも動揺しすぎて、頭がまともに動かなかった。
 そんな少年の焦燥におかしみを覚えたのか、彼女は口元にかすかな笑みを浮かべ、そっとささやいた。

「――じゃあ、陽一君が温めてくれる?」

 反射的に、ごくりと唾を飲み込む音も、彼女には筒抜けだったろう。すでに二人の間の距離は完全になくなっていた。
 陽一の体を包み込むように、彼女は細い両腕をゆっくりと絡めた。弾力のある乳房の感触が直に伝わってきて、彼はもはや思考を止めた。

 つい先程まで絵の舞台だったベッドが、二人の遊戯場に変わるまで、そう時間はかからなかった。
 柔らかな肌に身をうずめながら、陽一は初めて自覚した。
 自分はずっと、これを求めていたのだと。
 幼い日の思い出にとどめるだけでは飽きたらず、あの『女神』に固執し続け、絵の修復を第一の目標に掲げていたのも、本当は「女神」そのものを欲しがっていたのだと。

「――ありがとう、陽一君」

 熱い吐息の中から漏れ出たその声が、彼の意識に残った最後の言葉だった。



 目が覚めた時、カーテンから漏れ来る日差しはすっかり濃くなっていた。
 甘いだるさの残る体をのろのろと起こして、陽一はベッドから降り立った。カーテンを開けると、真夏の太陽が容赦なく照りつけ、思わず目をそらした。
 いったい何時間眠っていたのだろう。日の高さから考えても、とうに朝と呼べる時間は過ぎてしまっているようだ。
 頭を掻きながら窓に背を向けたところで、彼は重大なことに気づいた。

「……七美さん?」

 同じベッドで眠っていたはずの彼女の姿が、忽然と消えていたのだ。
 一瞬、頭が働かずにぼうっとしていたが、すぐに浴室に向かう。先にシャワーでも浴びているのだろうかと思ったのだが――

「――七美さん!」

 淡い期待はすぐに裏切られた。2LDKのマンションで、探すところはそう多くない。躍起になってクローゼットの中まで開けてみたが、どこにも彼女の姿はなかった。

「そんな……」

 だが、ここは素泊まりの宿ではなく、彼女の家だ。もしかしたら朝食の買い出しのために外へ出たのかもしれない。自分自身を落ち着かせようと、そんなふうに言い聞かせながら、陽一は無造作にベッドに腰掛けた。
 そして、そこでようやく彼は、ベッドサイドのテーブルに置かれた封筒に気づいた。
 慌ててそれを取り上げると、中から何かが飛び出した。床の上に転がったものを拾い上げ、彼は恐る恐るつぶやいた。

「これは……鍵……?」

 どうやらそれは、このマンションのカードキーのようだった。七美が玄関を開ける時に目にしていたので、それは間違いない。
 だがそうなると、ここにある意味は――
 細かく震える指先で、彼は封筒の中の紙切れを取り出した。




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