キャンバスの女神



 何も口にする気にならず、空腹を抱えたままの陽一が向かったのは、近くの個人病院だった。
 もちろん、急病になったわけではない。精神状態は決して良好ではなかったが、だからといって診察が目的ではなかった。

「ああ、あなたが無限先生の息子さんでしたか」
 休診日の訪問にも関わらず、その医師は快く彼を迎え入れた。
 陽一がこの病院に来た理由はただ一つ。七美が残した手紙に、ここを訪ねるようにと書かれていたからだ。
 医師がカルテを探しに行っている間、陽一は室内をぐるりと見回した。休診日のため、看護師も患者もいない病院は、がらんと静まり返っている。
 個人病院にしてはやや広めの診察室は、四方の壁に絵が飾られていた。陽一もその作品はよく知っている。西山無限の出世作、海外で一気に名を上げた連作『花鳥風月』だった。

「――どうも、お待たせしました。何せナースがいないと、どこに何がしまってあるかすぐわからなくて、困ったものでしてね」
 苦笑を浮かべて戻ってきた医師は、陽一の視線の先に気づいたようだった。
「やはりお父様の作品は気になりますか」
「あ――いえ、すみません」
 絵に気を取られていたことを恥じ、陽一は慌てて医師のほうに向き直った。

「さすがにこの大作は、美術館所蔵の複製画ですけどね。他に無限先生から頂いた真作は、自宅に飾らせていただいています」
「え……父さんが、絵を?」
 陽一は思わず聞き返してしまった。あまり他人との親交のなかった父が、誰かに絵を贈っていたとは知らなかったのだ。
「まあ、これでも長い付き合いでしたからね。私は彼の作品が好きでしたが――ただ、彼は医者があまりお好きではなかったんでしょう。定期検診に来てくださいと再三伝えても、病院には滅多に足を踏み入れませんでしたからね」
 あの父ならありそうなことだと、陽一は思わず納得してしまった。定期検診など、もっとも「普通」らしいことを、変わり者の父が進んでするはずもないだろう。

「ただ、そのせいで発見が遅れた――非常に残念です」
「あの、先生……今日は――」
 ついさっきとは打って変わった医師の神妙な面持ちに、陽一は面食らってしまった。うまく言葉を見つけられずにいると、医師は心得たように頷いた。
「ええ、彼女から聞いていますよ。昨日、あなたにお父様のことを話してくれと頼まれましたからね。当時はまだ小さかったあなたが、今になってお父様の病状を知りたがっているからと」
「昨日……?」
 昨日は彼女のマンションを訪ねてからずっと一緒にいたはずだ。ということは、彼が訪れる前――夜をともにする前に、すでに準備していたということになる。

「無限先生は、重度の糖尿病でした。私が診た時には、もう相当に重くなっていました。すぐに総合病院を紹介しましたが――最後は合併症で亡くなられたと聞いています」
「そう……ですか……」
 医師の丁寧な言葉にも、しかし陽一はあまりピンと来なかった。そもそも父と接する機会がほとんどなく、見舞いにも母親が行かせなかった。だから、いつどんなふうに父が病を得たのか、彼は気づきようがなかったのだ。
「その状態の時に、先生をここへ連れてきたのが彼女でした」
「七美さんが?」
 本来、それは妻の役目だろう。しかし別の女性が連れてきたということが、すでに夫婦の溝が埋めようもなく深くなっていたことを示している。
 だが、医師の次の言葉は、陽一をいっそう驚かせるに充分だった。

「けれども、それは世間で噂されるような関係だったわけではないと思います」
「え?」
 目を丸くして聞き返す。医師はそこで、あくまで推測だが、と前置きしてから続けた。
 ああまで病状が進行していれば、性的な関係を結ぶことは不可能だろう。まして若い愛人を持つなど、とてもできないはずだ、と。

「また、これは世間ではまったく知られていないのですが――」
 いったん言葉を切ると、医師はカルテを机に置いて、陽一の顔をのぞき込むように話し始めた。
「無限先生は、ほとんど目が見えなくなっていました。特に色彩に関しては、認識することが難しかったでしょうね」
 その声は、どこか遠くで響いているように陽一は感じた。しかし、彼の薄らぐ現実感を取り戻させるように、医師は最後に付け加えた。

「目は、画家にとっての命ですから。だからこそ、最後まで家族にも隠し通していたんでしょう」



 病院を出た時、日は少し傾き始めていた。朝食も昼食も食べ損ねてしまったが、今の彼には空腹を感じる余裕はどこにもなかった。

 医師から伝えられたこと。
 それを彼女が伝えようとしていたこと。
 その事実が、彼から思考を奪い去ってしまったようだった。

 陽一は、ポケットにねじ込んでいた封筒を再び取り出した。彼女の残した柔らかな文字が、彼の視界の中で泳ぐ。
 病院を訪ねるように告げた後、最後の文面は次のように綴られていた。



   私は、先生の目であり、手でありました。
   本当に、ただそれだけの関係だったのです。





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