キャンバスの女神

終章



 久々に大きな企画展ということもあってか、地元の小さな美術館は初日から思った以上に盛況していた。
「いやあ、ずいぶんと入りましたな」
 不意に背後からかけられたその声に、陽一は小さく微笑んだ。
「昨日までずっと落ち着かなかったんですけどね……ひとまずほっとしました」
 本日開催の企画展、その題は「西山無限回顧展」――没後十年を記念した、初めての本格的な回顧展である。

 その展覧会をプロデュースする一員となったのが、まだ社会に出て間もない陽一だった。本来なら大学を卒業したばかりの若造が、こんな企画を実行できるはずもないのだが、西山無限の遺児であり、展示物の多くが自宅から提供された作品であるため、これはもはや当然とも言えた。
 先程、陽一に声をかけてきたのは、そのスタッフの一人である。彼は西山無限のネームバリューなら客入りは心配ないと常々言っていたのだが、すべてが初めての陽一は、当日まで気が気ではなかったのだ。

 一言二言話して彼が離れていったので、陽一は小さく息を吐き出して、展示室の壁に背を預けた。
 その真向かいには、50号の大作が掛けられている。
 西山無限の遺作、『女神』。
 大いに注目を浴びたオークションの後、公の場から姿を消した作品が、ここで本邦初公開となった。にも関わらず、この絵の周りは、思った以上に人が集まっていなかった。
 やはり無限といえば静謐な風景画――その共通認識が、死後十年経っても世間には根強く残っているのだろう。だからこそ、異色すぎる遺作は当時大騒ぎされたのだが、そのオークションから十年も経ってしまっては、当時の記憶は風化されているのかもしれない。

 陽一は壁にもたれかかったまま、『女神』の前でじっとたたずんでいた。ただ一つの予感を、彼はこの五年間、抱き続けてきたのだ。
 コツ、コツ、と、ゆっくりした足音が、展示室に響く。そして、その踵は、『女神』の前でぴたりと止まった。
 同時に、陽一の唇に微笑が浮かぶ。

「――五年ぶり、ですね」
 女神を見つめていた人影が、はっと振り返った。その目には、驚きの色が広がっている。
「……陽一君?」
 彼は、もう一度微笑んだ。
 予感は、的中したのだ。ここで待っていれば、きっと現れるだろうと――期待とも言える予想は、見事に実現した。
「お久しぶりです、七美さん」
 少し髪が伸びていること以外、彼女は記憶の中の姿と何も変わっていなかった。

 彼女はあの後、二度とマンションに戻ってこなかった。というより、そもそもあの部屋は彼女のものではなかったのだ。
 無限から与えられた部屋だと彼女は言っていたが、名義は無限の作品を扱っていた画商のものになっていた。画商が、画家に制作場所を提供していたものらしい。彼女はそのアトリエの管理を任され、鍵を預かっていただけだったのだ。
 その鍵を使って、彼女はあの日だけ自室として陽一を招き入れた。恐らくは、すぐに姿を消しやすくするために。確かにあの部屋はあまりにも殺風景で、家具類が何もなかった。にも関わらず、細かなことに頓着もせず信じ込んでいた自分は、どれだけ幼かったのだろうと陽一は今さらながらに苦笑する。
 そんな苦い思い出にふける彼を尻目に、七美は小さく感嘆の声を上げた。

「驚いたわ」
 その視線は、『女神』の中央に注がれている。それは当然だろう。数少ない、『女神』消失の真相を知る者なら、誰でも驚くに違いない。
「――この絵、修復したのね?」
 キャンバスの中の女神は、鮮やかに甦っていた。胸元から手首にかけて、ペンキで醜く汚れていたはずだったのに、今はすっかり元の色を取り戻していた。白く柔らかな乳房も、右手に握られた赤い花も、画布の中でみずみずしく映えている。
 彼女は、色鮮やかに生まれ変わった女神を、しげしげとのぞき込む。その真剣な横顔を、陽一は静かに眺めた。

 二人の間に、穏やかな時間が流れていた。まるで、五年前の夏のアトリエに戻ったかのように。ただ、あの時と違うのは、以前は彼が女神を見つめていたのに対し、今は彼女が『女神』を観ているということだ。
 彼の手によって、再び命を吹き込まれた女神を。
「ええ。これだけは僕がやりたいと無理を言ったんです。そのために四年間、ずっと修復の勉強をしていましたから」
 誇らしげな彼の台詞に、七美は目を丸くした。
「陽一君が?」
 そう問われ、彼はゆっくりと頷いた。
 かねてよりの希望通り、陽一は美大に進学した。そうして四年間、絵画の修復を中心に学んだ。すべてはこの『女神』のため。だが、熱心に勉強したのが功を奏したのか、学内でも屈指の技術を身につけることができた。だからこそ、たとえ無限の遺児とはいえ、貴重な作品の修復を任せてもらうことができたのだ。

「お蔭で、いろいろなことがわかりました。そう、この絵はティツィアーノの模倣だとさんざん言われたけれど、実際には違ったんだということも」
「……どういうこと?」
 怪訝な顔の七美に向かって、彼は続ける。
「この絵の構図は、確かにティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』そっくりです。だから気づかなかったんですが……本当は、ジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』だったんですね」
 その言葉を聞いた時、彼女の頬に緊張が走るのを陽一は見逃さなかった。やはりという確信を胸に、彼は再び口を開く。

「ジョルジョーネは、女神の絵を完成させることなくこの世を去りました。そこに筆を加えて完成させたのがティツィアーノです」
 こんなことを言われても、普通なら特に反応を示さないだろう。しかし、彼女は彼の意味するところに気づいてしまった。それこそが、最大の証拠となる。

「――あなたが、ティツィアーノだったんですね」

 当時、無限はすでに色を感じることができなかった。そんな画家が、色彩あふれる油彩画を描くことなどできるはずがない。
 しかし、無限はアトリエに他人を入れさせようとしなかった。そこにいたのはただモデルのみ――となれば、答えは一つしかない。
 すでに画家としての命を終えた師の意志を継ぎ、絵を完成させたティツィアーノが彼女だったのだと。
「……私は絵描きじゃないわ」
 そこまで言われても、彼女は首を左右に振る。無論、認めることはできないだろう。それは日本の美術史にも少なからず影を差す。
 だが、陽一はとうに調べていたのだ。彼女は確かに美大出身ではないが、独学や、美術講習を受けて、かなり本格的に美術を学んでいたということを。趣味でちょっと描いていた、などと言っていたのは、まるっきりの嘘だ。だからこそ、裸婦を前に緊張していた陽一に、細やかな指導をしたりしていたのだ。

 そうなると大変皮肉なことに、陽一の母親が放った捨て台詞がある意味正しかったということになる。
 「三億円の価値などない」――そう断言されたこの絵は、西山無限の作品ではなかったのだから。
「それともう一つ、面白いことが見つかったんです」
 うつむく彼女に、陽一は再び問いかける。
「何か、変わったことに気づきませんか?」
 そう言われて、彼女はもう一度まじまじとキャンバスをのぞき込む。全体を眺め渡した後、ある一点で彼女の視線は釘付けになった。
「花が……これ、薔薇じゃないわ」
 オークションにかけられた時点では、確かに女神は右手に薔薇を持っていた。それに、何より彼女が、描かれた花の種類を知らないはずがない。だからこそ、彼女は女神の手にした花が違っていることに驚いたのだ。

「これは、アザミです」
「アザミ?」
「X線をかけたら、下絵の段階では薔薇でなく、アザミが描かれていることがわかったんです。だから、上に塗られた絵の具を削いで、本来の花に戻しました」
 『女神』の下絵は木炭で描かれていた。無限が色彩を失っていたと聞かされた陽一は、下絵の段階ではどう描かれていたのか調べるため、X線照射をおこなったのだ。その結果、花の種類は間違いなくアザミだった。その上に、一度下塗りで淡い色づけがされていた。恐らく、そこまでは無限が描いたものなのだろう。そして、次の塗りの段階では、花は薔薇に変わっていた。
「でも、どうしてアザミなの? ヴィーナスのシンボルは薔薇のはずでしょう?」
 彼女は不思議そうに問う。描いた本人も、薔薇だと思っていたのだろう。ティツィアーノの作品でも、女神は手に薔薇を持っている。そもそも薔薇は、美と愛の女神ヴィーナスの象徴なのだ。他の花を持っているとは誰も思わない。特に、美術を学んだ者であればいっそう。
 だからこそ、下絵の段階で女神の手に赤い花があれば、何の疑問も持たずに薔薇を描き込んでしまったのだろう。
 しかし、初めに描いた者には、特別な意味があったのだ。

「アザミの花言葉は、『独立』です」
 本当は、こんなことを自分が言うべきではないのだろう。それでも伝えずにはいられなかった。彼女の強い想いを知ってしまった以上、黙っていることはできなかった。
「多分、これは女神ではないんですよ。だからこそ、父はアザミを描いた。この女性に、自らの足で歩いてほしいという願いを込めて――」
 多少の気恥ずかしさと気まずさを飲み下しながら、彼はそう告げる。
 もちろん、それは彼の推測に過ぎない。だが、それ以外に理由が思いつかなかった。薔薇と同じく棘を持つとはいえ、茎ではなく頭花自体が痛々しいアザミは、どう見ても女神の絵にはそぐわない。それでもあえて描き込んだのは、彼女に向けるメッセージとしか考えられなかったのだ。
 その想いに、彼女もまた気づいたのだろう。陽一の言葉を聞くと、彼女は不意に嗚咽のような声を小さく漏らした。
「先生……」

 医師は、二人に愛人関係はなかっただろうと告げた。それは確かにそうなのかもしれない。病状の進んだ父親が、若い女性と関係を結ぶことなどできなかっただろう。
 だが、それでも――彼女は、きっと愛していたのだ。西山無限という一人の画家を。
 途方もなく愛していたからこそ、男の最後の仕事に手を貸した。それが決して許されることではないと知っていても。
 うつむいたまま肩を小刻みに震わす彼女に、陽一はわざと明るい声を出した。
「七美さん。あまり出来が良くなくて申し訳ないんですが――こちらをどうぞ」
 少年時代の彼だったら、ここでうろたえて何もできなかっただろう。しかし今日まで月日を経た彼は、ごく自然に動くことができた。
 後ろの壁に立てかけておいたトートバッグを、陽一は抱え上げた。中から取り出したのは、一枚のキャンバス。
 それは五年前、彼があの部屋で描いた『女神』だった。
「これは……私がもらってもいいの?」
 バッグごと手渡され、驚いた顔で見つめ返す彼女に、陽一はゆっくりとうなずく。

「ええ。その代わり――こちらは僕の方でいただきます」
 彼が手で示したのは、向かいの壁を大きく占める、西山無限の『女神』だった。その言外の意味を知っていてなお、彼女はかすかに笑ってみせる。
「当然だわ。それは、先生の作品だもの」
 彼女は決して真実を告げない。だから彼もそれでいいと思う。
 この絵は、永遠に無限の作品として残る。誰も反証はしない。できないだろう。
 それはつまり、キャンバスの上でのみ結ばれた二人の、密かな関係が永遠にとどめおかれるということだ。彼女がそれを望むなら、陽一はもう何も言うことはない。


 ちょうど会話が途切れるのを見計らったかのように、館内にベルが鳴り響いた。軽快なリズムは、閉館時刻を知らせる合図だ。
 これが頃合いと思ったのだろう。渡されたトートバッグを肩にかけ直すと、彼女は静かに告げた。
「――ありがとう、陽一君」
 五年前の夜、最後に聞いたのと同じ台詞。あの時は衝動に駆られていただけで、その意味の欠片も理解していなかった。しかし今の彼は、その言葉を驚くほどすがすがしい気持ちで聞くことができた。
 ざわつく人の波に溶け込むように、去りゆく彼女の背を見送りながら、彼はふと柔らかな文字で綴られた言葉を思い出した。

(――私は、先生の目であり、手でありました)

 愛した男の影となり、最後の事業に手を貸した彼女。しかし、もう過去に囚われる必要はない。
 彼女はバッグから取り出して全体を眺めていなかったが、後で見れば気づくだろう。陽一の贈った『女神』もまた、薔薇ではなくアザミを手にしていることに。五年前にはなかった花を、父の意図を知った彼が後から描き加えたのだ。
 女神は薔薇を手放し、地上に降り立つ人となった。
 独りで歩き始めた彼女に餞の赤い花を贈り、彼はかつての女神に別れを告げた。

-了-




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