白日夢


 エーゲ海を臨む小高い丘に、かつて城塞がそびえていた。
 城から見下ろす穏やかな海は、アルゴス湾。紀元より遡ること千四百年、古代ギリシアに興ったこの文明は、城跡のある地名からミュケナイ時代と呼ばれる。それは富と巨石とによって積み上げられた時代だった。後の世に発掘された大量の黄金や堅固な城壁は、その王権の強大さを雄弁に物語る。
 しかし、ミュケナイ時代以前からその地に住んでいた民族については謎に包まれている。
 ミュケナイ文明を興した民族はアカイア人と呼ばれるが、先住民の種族は何か、どのような言語を用いていたのか、それすらもわかっていない。アカイア人の南下により滅ぼされた先住民は、ひそやかに歴史の舞台から姿を消してしまったのだ。

 紀元前千二百年――紺碧の海に囲まれた半島では、文明の勃興より二百年が経過していた。すでにミュケナイの先住民の存在は風化され、人々の記憶から失われて久しい。
 ただ一人の男が、それを掘り起こし始めるまで――





 眩しい陽光に目を細めながら、イリアは顔を上げた。
 注意深く周囲を探っていた視線が、通りの向こうにそびえる城門に行き着くと、彼女は溜息をついた。巨石でできた門の上では、向き合った二つの獅子像が、往来する人々を威嚇するように見下ろしている。敵の侵入を防ぐために置かれているのだろうが、実際には城壁内に閉じ込めた民を監視しているのではないか――。牙を剥いた二頭の獅子像を見ると、イリアはついそんな気がしてしまうのだ。
 いや、と彼女は小さく首を振る。
 恐らくは、人目を忍ぶようなことをしているせいで、神経が過敏になっているだけなのだろう。そう思い直して、彼女は包みを抱える両腕を緊張させながら、辺りを見回して小路の角を曲がった。
 その細い裏通りの突き当たりには、崩れかけたあばら屋があった。かろうじて残っているという具合の、ひび割れた白い柱に寄りかかって目を閉じている一人の男に、イリアは声をかけた。
「気分はどう?」
 柱に背を預けてまどろんでいたらしい男は、その声で薄く目を開けた。そして、起きたての視界に彼女の姿を認めると、かすかに笑んで顔を上げた。
「いい匂いがする」
 反射的にゆるんだその表情に、イリアも苦笑せざるを得なかった。
「さすがに鼻が利くようね。今、食べ物を持ってきたところなの」
 そう言いながら、彼女は胸に抱え込んでいた包みを広げ、石段の上に置く。すると中から粗末なパンや干した肉の欠片、野菜屑や余った料理などが、ばらばらと現れた。
「これでも結構くすねてくるの大変だったんだから、大事に食べてよね」
 念を押すイリアをよそに、男は残飯のような食料に手を伸ばし、次々と平らげていった。それを見ながら、イリアは無言で男の脇にしゃがみ込む。
 イリアがこの男を拾ったのは、二日前のことだった。屋敷を抜け出して街をぶらぶらと歩いていたところ、道端で行き倒れていた彼を発見したのだ。
 本当は誰かに知らせるべきだったのだろう。そうしていれば、後々こっそり食料を運んでやるような面倒もなかったはずだ。だが、人を呼べば無断外出を咎められることは目に見えているし、しかも彼が人目をはばかったこともあって、近くのあばら屋でしばらく養生することで落ち着いたのだ。
 そこで放置しておけないのが、イリアの性分と言えるだろう。一度助けてしまった以上は途中で見捨てることもできず、結局こうして様子を見に来ているのだった。
「ところで、リュシアスはどこから来たの? この辺りの人じゃないんでしょう?」
 わずかばかりの食料を食べ終えた男に、イリアはおもむろに尋ねた。
 この男の名はリュシアスという。イリアに拾われた時、自らそう名乗った。だが、それきり彼は自分のことを滅多に語ろうとしなかった。とはいえ、街の人間に比べて肌の色は浅黒く、髪も瞳も漆黒で、顔立ちもずいぶんと違う。その見た目からも、イリアは彼が異境の民なのだろうということは想像していた。
 イリアに問われると、リュシアスは短く答えた。
「海の向こう」
「そんなことはわかるわよ!」
 人を食ったような返答に、イリアは反射的に声を荒げてしまった。
 この街に訪れる異境の民といえば、海を渡ってやってくる行商人くらいのものだ。リュシアスの顔かたちからしても、その民に違いないだろう。それを踏まえた上で訊いているのに、あまりに漠然とした答えでは馬鹿にされているようなものだ。
 しかし、リュシアスは彼女の怒気にもまったく気にした様子はなかった。
「そう?」
「そう、って……」
 軽く笑って聞き返すリュシアスに、イリアは脱力した。これではまったく話にならない。溜息をついて肩を落としたイリアに、リュシアスはやっとまともなことを話し始めた。
「旅をしていたんだ。遠い海を渡って、いろいろなところをね」
「……何でわざわざこんな街に?」
 ようやく会話らしくはなったものの、今度はその内容にイリアは訝しんだ。
 この街の城門や城壁は堅固だが、その規模はたかが知れている。海沿いなので交易は盛んなものの、利益のほとんどはこの街を素通りして王城に運び込まれてしまう。
 そうして富み栄えてきたミュケナイ王の住む城塞は、もう少し上の山のほうにあって、彼女たちの街を悠然と見下ろしているのだ。
「この街には失われた文字が残されているんだ」
「あなた、文字なんて読めるの?」
 イリアは碧い目を大きく見開いた。文字が読めるのは神官や一部の裕福な家の男など、本当に限られた人間だけなのだ。もちろん、女が字を教わることはまず滅多にないし、イリアも当然読み書きなどできない。それなのに、この餓死寸前のみすぼらしい風体の男が文字を知っているとは、思いも寄らなかったのだ。
「趣味みたいなものでね。そういうのを調べるために、あちこちの街を旅して回っているんだ」
「そんなことが面白いの」
 イリアは憮然と口を挟んだ。たかが文字を調べるために放浪して、しかも行き倒れるなんて、あまりにも馬鹿げている。その思いが如実に顔に表れていたが、リュシアスは気づいているのかどうか、ゆるい笑みを浮かべて答えた。
「街の城壁にもいくつか刻まれているんだ。明日になったら君にも見せてあげるよ」
 イリアとしては、別にそんなものに興味はなかったのだが、リュシアスの嬉しそうな笑顔を見ていては何も言えなかった。
「……また来るわ」
 それだけ言って、彼女は足早に立ち去った。


 あばら屋を出たところで、イリアは盛大な溜息をついた。
「そんな陰でこそこそ覗くくらいなら、中まで入ってくればいいじゃない、ラウィニア」
 イリアが出てくるのを待っていたラウィニアは、物陰からイリアとリュシアスの様子をこっそり窺っていたのだ。しかし、溜息がちにたしなめられても、彼女は悪びれるどころかむしろ平然としていた。
「お嬢様の逢引の邪魔をするわけにはいきませんから」
「だ、誰が逢引なんかしてるのよ! ただの人助けよ!」
「ええ、わかっております。そういうことにしておくんでしたよね」
「だから違うって言ってるでしょうが!」
 さらに剥きになって言いつのるイリアに、ラウィニアはくすくすと笑う。
 まったく、これではどちらが主かわかったものではない。イリアは憮然としながら、首をもたげてラウィニアをねめつけた。
 イリアよりも頭半分ほど背の高いラウィニアは、彼女の侍女だ。イリアより七つ年上というだけでなく、彼女が生まれる前から幼くして屋敷に住み込んで働いていることもあり、ラウィニアは主に対してあまり遠慮というものがない。
 だが、それでも自分のわがままを押し通してしまうイリアもまた、決して引けは取らないと言えるだろう。今度のことも、本来ならイリアを諫めるべきラウィニアを巻き込んで、リュシアスとの「逢引」の協力をさせているのだから。――もちろん、イリア自身は逢引だとは決して思っていないが。
「でも、そろそろお屋敷を抜け出すのも控えたほうがよろしいですよ、お嬢様」
「わかってるわよ、そんなことは。どうせお父様に知られたら大目玉を食らうって言うんでしょう」
「いえ、それだけではなくて――」
 ラウィニアが言いかけたその時、曲がり角の向こうから突然人影が現れた。
 咄嗟のことで、イリアもラウィニアも対応できなかった。角の向こうから疾走してきたらしい男は、思わず立ちすくんだ彼女たちにぶつかって、勢い余って地面に転がった。
「もうっ、気をつけなさいよ!」
 一方、体当たりされたイリアも尻餅をついていた。ぶつかってきた男に文句をぶつけたが、相手は聞こえていないのか彼女たちに一瞥をくれると、慌てて転がるように走り去った。
 あまりのことに声も出ない。地面に座り込んだまま呆然とその男を見送っていたイリアに、ラウィニアが声をかけた。
「お嬢様、お怪我はありませんでしたか?」
「大したことないわよ、別に。それにしても何なの、今のは! 人にぶつかってきて謝りもしないなんて!」
 声を荒げるイリアをなだめながら、ラウィニアは男が走り去った方向を見つめた。イリアと衝突したままの勢いで駆けていった男は、すでに彼女たちの視界から消え失せていた。
 なおも頬を膨らませて、不満を露にしながら歩き始めたイリアの前に、今度は別の男が現れた。
 粗末な身なりから見るに、恐らくはこの廃墟同然の住宅街の人間なのだろう。四十代半ばと思しきその男は、息が切れているのか顔を紅潮させて、通りすがりの二人に大声で問いただした。
「今、薄汚い格好した野郎が逃げていかなかったか!?」
「今の男の人なら、あちらのほうに走っていきましたが」
 落ち着き払った声で答えたのはラウィニアだった。イリアをかばうように一歩前に進み出て、ついさっき衝突してきた男が走り去った方向を指差す。すると、男は地団太を踏んでいきり立った。
「あの盗人野郎、うまいこと逃げやがったな!」
「今の人は泥棒なんですか?」
 ラウィニアが丁寧に聞き返すと、男は実に憎々しげな表情で吐き捨てた。
「ああ、そうさ。うちの食い物をあさって盗んでいきやがったんだ。北からやってきた蛮族の野郎がな」
「北から……?」
 男の台詞の合間に、ふと呟いたのはイリアだった。しかし、男は少女の小さな疑問など無視して、さらに言葉をつぐ。
「最近は蛮族どもが街まで入り込んできてるからな。あんたたちも女だけで出歩くのは気をつけたほうがいいぞ。何が起こるかわからねえからな」
「蛮族ってどういう――」
 イリアは再び尋ねようとしたが、それを遮るようにラウィニアが横から口を挟んだ。
「ご忠告、ありがとうございます」
 それだけ言って頭を下げると、ラウィニアはくるりと踵を返し、イリアを引っ張るようにその場を離れた。

「どうして話を勝手に打ち切るのよ!」
 男の姿が見えなくなったところで、イリアは盛大に文句をつけた。しかし、ラウィニアは表情を硬くしたまま、逆に切り返した。
「お嬢様の素性が知られてもよろしいのですか?」
「どういう意味よ」
 ラウィニアの意図をつかみ損ね、イリアは眉をひそめて問い返す。するとラウィニアは伏し目がちに話し始めた。
「近頃では、私たち下々の者の間で北の民のことを知らない者はおりません。以前は少数でしたが、最近は次第に城内に入り込む数も増え、中には盗みを働いたりもめごとを起こしたりする者がいて、悩みの種となっております。もしお嬢様が今の方に北の民のことを詳しく聞こうとすれば、間違いなく怪しまれるでしょうね」
「世間知らずのお嬢様だと疑われるってわけね」
 イリアの独白めいた呟きに対し、ラウィニアは肯定も否定もしなかった。こんな時ばかり慎ましくふるまってみせる侍女を面憎く思いながらも、イリアは溜息を禁じえなかった。
「北からも、よそ者が来ているとは知らなかったわ……」
 呟きながら、イリアはふと一人の顔を思い浮かべた。ついさっきまで話していた「よそ者」――リュシアスはどこから来たのだろう。
 彼自身は海の向こうだと言っていたから、それが真実なら、陸続きの北方の出身ではないだろう。だが――
 たった今聞かされた、北からの無法者の話のせいでイリアは急に不安に駆られた。あんなにのんびりしすぎて行き倒れるような人間が悪事を働くとは思えないが、やはりもう少し素性を聞き出しておくべきだったかもしれない。そんなことを考えていると、ラウィニアが横から口を挟んできた。
「気になるのでしたら、本人に訊いてみてはいかがですか?」
「……私は何も言ってないじゃない」
「リュシアスがどこから来たのか考えておられたのでしょう?」
 図星を差されてイリアは横を向いた。すると、そらした視線の先にあまり見たくないものがあった。
 細い路地の脇で寝転がる浮浪者。あちこち破れたぼろきれにくるまる物乞いの姿。彼らの向けてくる虚ろな眼差しに、イリアは思わず息を呑んだ。
 いつもは滅多に通らない道なので、イリアにとってこうした者たちと遭遇するのは実に久しぶりのことだった。今日はたまたま家路を急いでいるので通ったのだが、以前に比べてずいぶんと浮浪者の数が増えているような気がする。
「日が暮れる前に、早く戻りましょう」
 イリアの不安げな表情を読み取ったのか、ラウィニアが主を促す。イリアは小さく頷いて、浮浪者たちのたむろする小路を足早に通り過ぎた。


 二人は何とか日没前に自邸に帰りつくことができた。「お嬢様が行方不明になった」と騒ぎ立てられないうちに、急いでイリアを自室に送り届けたラウィニアは、回廊に出ると一つ息をついた。
 主の積極的で好奇心旺盛なところは長所かもしれないが、側に仕える者としてはなかなか気が休まらない。イリアの頻繁な無断外出が咎められる時、真っ先に矛先を向けられるのはラウィニアなのだから。
 せめて護衛くらいはつけるよう諫めるべきか――そんなことを考えたところで、回廊の向こうから近づいてくる者があった。
「ずいぶんと捜したが、遠出でもしていたのか、ラウィニア」
「……コノンどの」
 五十を過ぎたばかりのこの男は、大勢いる使用人たちの中でも筆頭に当たる。当主レオゴラスの祐筆を務め、使役される身ではあるが、ラウィニアなどよりずっと位は高かった。
「お嬢様の外出好きにも困ったものだが、それをお止めするのがおまえの役割ではないのか」
「申し訳ありません」
 間髪入れず、ラウィニアは頭を下げた。位が違うということだけでなく、この口うるさい使用人頭のお説教からなるべく早く解放されたかったのだ。
 だがコノンは顎を撫でながら、しおらしく謝るラウィニアを細めた目で見下ろした。
「ほう、では今日もお嬢様と出かけておったのだな」
 その冷えた声に、ラウィニアは睨むようにコノンを見上げた。せっかく謝ったのに、かえってそれが言葉尻を捉えられることになり、彼女は憤りを隠せなかったのだ。
「いまさら隠したところで無駄だろう」
 コノンは小馬鹿にしたように軽く笑ってみせた。その歳には不似合いなほど、彼は笑うと顔の中央に皺が寄ってひどく悪相になる。歪んだ微笑にますます腹を立てるラウィニアを見やりながら、コノンはさらに言葉を続けた。
「だが実際、笑って済ませられるような状況ではないのだ。近頃は、粗野な蛮族どもの姿をよく見かけるようになったからな。食うに困った者が街を荒らしにやって来ているのだろう。それで近々、北の城門を一つ閉めるらしい」
 最近、街外れで異民族の集団を見ただの、城内に浮浪者が増えただのと、物騒な話をよく聞くようになった。北の民はおおむね粗暴で、好戦的な種族だと言われている。もし大量に押し寄せて来たら、ひとたまりもないだろう。何しろ彼らは強力な武器を携えており、街の貧弱な装備ではとても対応できない。
 だからこそ城門を閉ざすという道を選んだのだろうが、そんなことをしても根本的な解決にはならないのに、とラウィニアは思う。もちろん、彼女がそう思ったところで状況が変わるわけでもないのだが。
「いずれにせよ、外出の件は旦那様にもご注進申し上げておいたゆえ、お嬢様もさすがに思いとどまられるだろう」
「旦那様に……お知らせしたのですか」
 ラウィニアはあえぐように低く声を押し出した。彼女の心中を察しているのか、コノンはいっそう顔に皺を寄せた。
「当家の主はレオゴラス様ただお一人。よもや忘れたのではなかろうな、ラウィニア?」
 無言の彼女を見下ろし、まるで面白がるように唇を歪めながら、コノンは傲然と告げる。
「もとよりおまえは他に行くあてのない身。そのことを肝に銘じ、心してお仕えするのだぞ」
 肩を揺らして立ち去るコノンの背を、ラウィニアは下唇を強く噛みしめたまま見送った。哄笑する彼の面相が、いっそう歪んでいることを確信しながら。


 自室に戻ろうとしたイリアは、最も聞きたくない声を背後から浴びることになった。
「うちの娘は悪い遊びを覚えたようで困ったものだな」
「……お父様」
 こうなっては逃げることもできず、イリアはおずおずと振り返る。そこには渋い顔をした父レオゴラスが腕組みしながら立っていた。
「悪い遊びだなんて、そんなことしていません。ただ少し散歩をしていただけです」
「侍女一人を連れただけでか? 危険極まりない散歩だな」
 どうにも厭味としか思えない父の言いように、イリアは苦々しく下唇を噛んだ。
「そんな……大げさすぎます」
「おまえは何もわかっとらん。近頃はこの街もずいぶん物騒になっておるのだ」
 レオゴラスは大仰に息を吐き出して、腕を組むと再び口を開いた。
「北から流れてきた蛮族どもが、ずいぶんと悪さをしているそうだ。おまえのような若い娘がふらふらと街を歩けば、何をされるかわかったものではない」
「……そのお話は初めて聞きますが」
 イリアはうらめしそうな目で父親を見上げた。北の異民族の話は、下々の者ならみな知っているとラウィニアは言った。だが、そればかりでなく、今の口ぶりではこの父もずいぶん前から知っていたようだ。
 何も聞かされず、まさに世間知らずのお嬢様として扱われていたのだと改めて気づき、イリアの表情はますます苦いものとなる。
「おまえが家でおとなしくさえしていれば、聞く必要もないことだ」
 レオゴラスは、娘の心情になど興味がないと言わんばかりに切り捨てた。彼は睨むような視線を向けてくる娘に、冷然と言い放つ。
「それに、嫁入り前にこれ以上、妙な噂が立っては困るからな」
「妙な噂だなんて――」
「いずれにせよ、輿入れも間近な娘が外を出歩くのは感心せん。今後は慎みをもって自重するのだぞ」
 イリアの声を遮るように、レオゴラスはきっぱりと命じた。その内容に、イリアはいっそう声を荒げた。
「輿入れって……そんな! あの話は相手が亡くなって取り止めになったのじゃなかったの!?」
「花婿候補は何も一人に限ったものではない。立派な相手はいくらでもおるのだから、心配するでないぞ」
 それだけ言うとレオゴラスは娘に背中を向けて、一切の反論を遮断した。


 自室に入るなり、イリアは寝台に身を投げ出した。輿入れが迫っている――その事実に気づかなかったのは、うかつだった。いや、恐らくはイリア本人にぎりぎりまで黙っているつもりだったのだろう。
 普通、十六というイリアの年齢では、裕福な家の娘はたいてい結婚しているものだ。イリアも本来は慣例に倣うはずだったのだが、四年前に親同士の決めた婚約者が呆気なく病没してしまったため、彼女の縁談は宙に浮いてしまったのだった。
 一度も会ったことも垣間見たことすらもない婚約者の訃報に、彼女は何の感慨も抱かなかった。ここでそら涙の一つでも見せておけば丸く収まるのに、とラウィニアなどは言うが、イリアは自分の信念を曲げないたちなので、自分を偽るようなことはとうていできなかった。結局、泣きも嘆きもしない十二歳の少女はその時から不祥の女とされ、自邸の中でも扱いが粗略になっていった。そうでなければ街一帯を統べる名家の娘が、無断外出など覚えるはずもない。
 しかし、ここへ来て急に口うるさくなり始めたのは、再び縁談が持ち上がっているためなのだろう。
 イリアは寝台に顔をうずめたまま、深く息をついた。激しい感情の一端が深呼吸によってわずかにゆるんだ、その時だった。
(――お嬢様の逢引の邪魔をするわけにはいきませんから)
 不意にラウィニアの声が脳裏をよぎり、イリアは慌てて打ち消すように首を振った。
 ラウィニアは面白がってからかうが、実際にはまったくそんな気はないのだ。行き倒れていた人間を見捨てられなかっただけ。そこに思慕も恋情もありはしない。強いて言えば――哀れみだけだ。
 そのまま放っておくのにしのびなかったから、つい救いの手を差しのべた。それだけのことに、妙な邪推をされてはかなわない。
 イリアは寝台の上で半身を起こし、深く息を吸い込むと、大声を張り上げた。
「ラウィニア! そこにいるの?」
 まるで呼ばれるのを待っていたかのように、衝立の向こうからラウィニアが顔を出した。
「いかがなさいましたか? お嬢様」
 まったくいつの間にそば近く控えていたのかと、感心するより半ば呆れながら、イリアは指示を出した。
「明日の三人分のお弁当を調達してきてくれる?」
「明日も、出られるのですか?」
 ラウィニアは明らかに不服げだった。歓迎されないことは百も承知なので、イリアは短く答える。
「私は約束を破りたくないの」
「でも……旦那様からご注意を受けたばかりでしょう」
「そんなこと知らないわ。とにかく明日は出るの。明後日以降はともかく」
 イリアが言い出したら聞かないことを充分心得ているラウィニアは、仕方ないと深く溜息をついた。
「わかりました。その代わり、明日も私がお供いたしますからね」
「当然でしょう。だから三人分って言ってるじゃない」
 偉そうにそう言った後で、イリアは少し笑って片目をつぶってみせた。
「ただし、怒られる時も一緒だからね」
 その一言に、ラウィニアは苦笑をもらした。

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